若松城
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若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城。別名鶴ヶ城(つるがじょう)で、地元ではこの名で呼ばれることが多い。また、同名の城が他にあるため、会津若松城(あいづ わかまつじょう)とも呼ばれる。さらに文献では黒川城(くろかわじょう)や、会津城(あいづじょう)とされることもある。現在の天守等は復元であり、若松城跡(わかまつじょうせき/わかまつじょうあと)として国の史跡に指定されている。
注釈
- ^ 原書はリヨンで同1874年、信仰弘布のため宣教師の探訪記としてカトリック教会の絵入週刊誌に掲載[7][8]。
- ^ 『旧若松城廃毀之儀ニ付建言』(1873年12月)の記述には「若松城については陸軍省の方針として保存する城として決定したものの、戊辰戦争の時の砲撃で相当痛んでおり、補修するにも見るに堪えない状況である。近頃、旧会津藩士どもが青森県から移住してきているが、頑陋の輩がこの状況を見て悲愴感慨の情を起こすよりは、むしろ取り壊して陸軍の部隊を設置した方が費用をはぶくだけでなく、彼らの悲愴感慨の心を消すことができる。私(注=沢簡徳)が言うまでも無く、戦争の仕方が昔と一変し今では役に立たない。欧米諸国の制度を模倣して全国の城を改造すべきであり、若松城もこのような事情から断然廃棄すべきだ」といった内容がある。また「城郭絵図面差し出すべきところ絵具で描いては実際の景況が分からないので写真6枚差し上げ候」と取り壊し前の若松城の写真が添付された。現在、国の重要文化財として国立公文書館に保存されている[10]。「001天守東南面」のカットほか「002天守西北面」「003 天守東南面及旧県庁側面」「004 城内倉庫及長屋」「005 東外郭面」「006 外櫓西面」をウェブ上で閲覧できる[11]。
- ^ 通達名は『不用城郭中元藩主ニ於テ払受ヲ志願シ及散在地ノ官庁ニ於テ受払ヲ企望スルトキハ公売ニ付セス払渡シヲ認許ス』。本文に「別紙陸軍大臣請議不用城郭中元藩主ニ於テ払受ヲ志願シ及散在地ノ内官庁ニ於テ払受ヲ企望スルトキハ公売ニ付セス相当代価ヲ以テ払渡ノ件ハ来二十三年度以降ハ会計法ノ明文モ有之公売ニ付スヘキハ勿論ナレトモ本件ハ二十二年度中ニ執行ノ趣ニ付本議ノ通相当代価ヲ以テ売却ノ儀執行シ可然ト認ム(改行)右閣議ニ供ス」とある[13]。
出典
- ^ 徐旺佑「近世城郭の文化財保護と保存・活用の変遷に関する考察:-歴史的記念物の保存・活用の変遷に関する研究 その1-」『日本建築学会計画系論文集』第74巻第643号、日本建築学会、2009年、2133-2138頁、doi:10.3130/aija.74.2133、ISSN 1340-4210、NAID 130004512011。
- ^ “鶴ヶ城のご案内”. 会津若松観光ビューロー. 2023年9月29日閲覧。
- ^ 「会津若松市文化財調査報告書第55号」『史跡若松城跡II』 1998年(平成10年)3月31日、会津若松市教育委員会
- ^ 『会津戊辰戦史』会津戊辰戦史編纂会(編)、東京:会津戊辰戦史編纂会、巻頭口絵、1933年。全国書誌番号:53010833、doi:10.11501/1921057、国立国会図書館デジタルコレクション、6コマ。
- ^ 会津若松市 2018, 第22回 鶴ヶ城の古写真.
- ^ 「第22回 鶴ヶ城の古写真」『市政だより』2001年(平成13年)3月1日、会津若松市、2018年10月1日、2020年9月27日閲覧。
- ^ Les Missions catholiques : bulletin hebdomadaire de l'oeuvre de la propagation de la foi, Vol.6. Lyon : Bureaux des Missions Catholiques, 1874. NCID AA00286204.
- ^ Laverrière, Stanislas (directeur-gérant), ed (1874). “Bavier (M. Edouard de), consul de Danemark au Japon. Son portrait [バヴィエ(エドゥアール・ド氏)、駐日デンマーク領事。肖像画”] (フランス語). Les Missions catholiques : bulletin hebdomadaire de l'Oeuvre de la propagation de la foi [カトリック伝道部: 信仰普及活動の週刊誌]. Oeuvre pontificale missionnaire de la Propagation de la foi Auteur du [教皇庁の信仰を広める宣教活動] 2020年9月27日閲覧。. ガリカ収蔵の電子版より。目次637頁「Main」の項から掲載頁を参照。
- ^ H.チースリク 訳『宣教師の見た明治の頃』キリシタン文化研究会、東京〈キリシタン文化研究シリーズ ; 2〉、1968年。OCLC 33563995。全国書誌番号:74011325。
- ^ 請求番号 本館-2A-009-00・公01281100-024。“デジタルアーカイブ 若松城写真”. 国立公文書館. 2020年9月27日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “公文附属の図・一五号 若松城写真”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN. 2020年9月27日閲覧。
- ^ 『仙台鎮台より(へ)旧若松城建物等取毀可払下達』、防衛省防衛研究所図書館蔵。JACARレファレンスコード C04025599800。
- ^ 国立公文書館蔵 明治23年『公文類聚第十四編巻之二十三』、請求番号 本館-2A-011-00・類00469100-050
- ^ 「 若松公園設計方針 / 本多靜六講演」 『本多林學博士論文集』第4巻、出版者不明、19--年、NCID BB25878220。注記:雑誌の抜き刷り等を合冊製本したもの。
- ^ 「告示 / 文部省 / 第312号 / 史蹟名勝天然紀念物指定」『官報』第2398号、1934年12月28日、842頁_8コマ、doi:10.11501/2958875。
- ^ 小滝利意、文化庁文化財部(監修)「若松城天守閣郷土博物館(美術館・博物館めぐり-60-)」(『月刊文化財』93号、1971年)38-39頁。
- ^ 会津若松観光ビューロー. “茶室麟閣(県指定重要文化財)”. 会津若松観光ナビ. 2020年9月27日閲覧。
- ^ 会津若松市(編)『史跡若松城跡総合整備計画書』会津若松市、1997年1月。
- ^ 甦る鶴ヶ城 干飯櫓の復元 2018年10月1日、会津若松市。
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