人物・履歴
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基礎情報も参照。福岡市立香椎第二中学校、福岡県立福岡高等学校を経て青山学院短期大学卒業後入社。同期に沢田幸二、和田安生、山本栄子。 1980年頃、長寿番組 歌う土曜日 歌謡曲ホット100のレギュラーを担当。二木氏のサポートをこなす。入社4年目に、夜の人気ワイド番組『PAO〜N ぼくらラジオ異星人』で水曜日を担当、超心理学コーナーや顔面暴力友の会コーナーなどで一躍人気者となる。KBCテレビにネットされていた『バラエティワイド こんな時α』(朝日放送制作)の木曜日のアシスタントを務めたことがあった。 観劇が趣味。そのつながりで、ラジオ、テレビの博多座情報の番組を担当している。2007年には黒柳徹子の物真似をして『ドォーモ』の岡本啓と『徹子の部屋』のKBC予告CMに出演した。また毎年大相撲九州場所の砂被り席でもよく見かけられる。
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人物・履歴
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福岡県北九州市出身。同志社女子大学卒業後、1998年4月に東海テレビ放送へ入社。番組リポーターなどを務めるが、2000年3月に退社。 2002年に気象予報士の資格を取得。気象情報会社のウェザーライン(現:ライフビジネスウェザー)に所属し、テレビ朝日やNHKの気象キャスターとして活躍した。2004年6月に結婚、出産準備のため秋改編に合わせて降板した。 1年間の休養中に夫の仕事の関係で盛岡市へ転居。2005年10月よりテレビ岩手で気象キャスターとして活動を再開した。結婚後もNHK降板までは「石田」姓を使用していたが、現在は「舘道」姓を名乗っている。 2010年に、第二子出産のために番組を降板して休業中。
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基礎情報も参照。高松第一高等学校から筑波大学第二学群比較文化学類へ進学。体を動かすことが得意で、筑波大学への在学中には、ライフル射撃の選手として関東大会へ出場した経験を持つ。 筑波大学からの卒業後は、地元にあるNHK高松放送局を皮切りに、西日本各地の放送局で契約キャスターとして活動。NHK高松放送局で3年、NHK福岡放送局で1年、四国放送で2年間キャスターを担当した。 2010年3月で四国放送とのキャスター契約が満了したことを機に、NHK松山放送局の契約キャスターだった高島裕子と共にオフィスキーワードへ所属。自身初の関西進出を果たした。進出後の2013年3月からは、同事務所の先輩・三瓶京子の後任扱いで、『MBSベースボールパーク』(MBSラジオのプロ野球中継)の水~金曜日スタジオ担当に起用。この起用を境に、「『MBSタイガースライ部』女子部員」の1人(他の部員は月・火・土・日曜担当の豊永真琴)として、2014年まで同局のスポーツ関連番組にレギュラーで出演していた。 ちなみに、四国放送の契約キャスター時代には、「(同社の)アナウンサーで一番の大食漢」と言われていた。2013年のプロ野球シーズンに『MBSタイガースライブ』と共に1人でスタジオから出演していた『ナイターのあともラジオと決めちゃいます?』では、水曜日に放送の「石橋雅子の“グルメ狙い撃ち”」というコーナーで、リスナーからの情報を基に複数の飲食店を自ら食べ歩いた模様を毎回紹介していた。
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「山田真由美 (アナウンサー)」の記事における「人物・履歴」の解説
熊本県熊本市出身。血液型はB型。熊本県立済々黌高等学校を経て早稲田大学卒業後、1999年入社。主にスポーツ報道を中心に担当しているスポーツアナウンサー。 『夢空間スポーツ』では、番組としてシアトル・マリナーズの城島健司選手を継続して追跡しているが、2006年に自らシアトルに上陸して城島を直撃、しかしその際、城島に徹底的に突っ込まれ、苦笑いしたというエピソードがある。また、毎年夏にチームを組んで参加しているオートポリスでの「ママチャリグランプリ」では、当初はマネージャー役に徹するものの、レース展開が悪化するにつれほぼ決まって走らされ、体力面の脆さを露呈していた。 2016年7月の人事異動で報道局報道部へ異動。アナウンス職を離れた。
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東京都生まれ、福岡県飯塚市育ち。福岡県立嘉穂高等学校を経て法政大学経営学部卒。中学時代は2年間生徒会(書記)に籍を置き、高校時代は混声合唱部に所属していた(コーラス歴は小学生から高校まで)。 「肘井」姓は福岡県に集中的にみられる名字。出演したNHKドラマ10『聖女』の主人公は、出身地設定が北九州市の「肘井基子」である(演:広末涼子)。 地元を中心とした九州のローカル線が好きで、ヒャダインが結成した「スターダスト電車クラブ」のメンバー(会員No.0003)である。 芸能活動は大学入学後から本格的に開始。ホットドッグプレスドリームガールズグランプリを受賞し、ホットドッグ・プレスの第2代イメージガールとしてデビュー。2002年以降は、ビジュアルユニット「Chao」やアイドルユニット「D★shues」の一員として活動していたことがある。当時「AKB48」のチームAメンバーの大島麻衣と大の仲良しである。 2006年には音楽ユニット「GARO Project」の一員としてCDデビューした。 本格的な演技は日本映画界の巨匠・森崎東監督の映画『ニワトリはハダシだ』から。オーディションに合格し、映画初出演にして初主演デビューを果たした(第17回東京国際映画祭で芸術貢献賞受賞) カンフーが趣味で全国大会に見学に行くほどである。2011年には第28回全日本武術太極拳選手権大会の団体競技部門、対練に熊田弥生と出場し4位入賞を果たした。なお、対練は男女混合の種目のため、女子としては全国1位である。武術の経験から、『牙狼』シリーズではアクションシーンも披露している。 英語が堪能。 英検1級ホルダー。2005年『Ninja』でヒロインを演じハリウッドデビュー。続編でも再びヒロインを演じた。また、Eテレの語学番組にも「ドラマで楽しむ英会話」生徒役(2005年)、「おとなの基礎英語」英語ドラマパートMika役(season1・2012年3月 - 2013年3月、season2・2013年4月 - 2014年3月、season3・2014年4月〜2015年4月)などで出演歴がある(オール海外ロケ:シンガポール、香港、タイ、ニュージーランド、マレーシア、ベトナム、台湾、ハワイ、マカオ)。 2013年7月 - 2014年1月の約半年間、ニューヨークに留学。 かつてスターダストに所属していた横田かおり、小嶋亜由美とは今でも仲が良く、ブログにも度々登場する。 2015年12月、NHK「ニュースで英会話」にて吉田麻也にインタビュー。英語でインタビュー/レポートなど、レポーターとしての仕事も務める。 令和元年初日である2019年5月1日に一般男性と結婚。「令和婚」と報じられた。10月には第1子を妊娠したことをブログで発表する。結婚1周年記念日となる2020年5月1日に第1子女児の出産を報告。 2020年6月、芸名を肘井美佳からカタカナの肘井ミカに変更したことを発表。 2022年1月3日、第2子妊娠を報告。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 23:33 UTC 版)
神奈川県横浜市出身。早稲田大学卒業。1986年入社。愛称は部長、圭ちゃん、昼ドラ王子。血液型はA型。スポーツアナウンサーとして、中日ドラゴンズ戦を中心としたプロ野球中継、『ドリーム競馬』におけるレースなどの実況を担当した。吉村功の定年後は、当時中京競馬場唯一のGIレースであった高松宮記念の実況を1997年から2003年まで担当した。 2003年に東京支社へ異動、昼の帯ドラマの宣伝をしていた。同年の高松宮記念(勝ち馬はビリーヴ)において安藤勝己騎手が初めて中央GIを優勝した時の実況担当が最後のスポーツ中継だった。2007年7月2日にアナウンス部へアナウンス部長として4年ぶりに復帰したが、2010年6月をもってアナウンス部を離れた。 ペットと遊ぶことが趣味ということもあって、東京転勤前から自宅では多くの動物を飼っており、その様子が東海テレビアナウンサーページで公開されていた(本社に戻ってから再始動した)。 2021年現在は、同局福祉文化事業団
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 09:49 UTC 版)
東京都港区出身。音楽家の父・島田敬穂と、宝塚歌劇団出身でジャズ歌手の母・筑波嶺玲子(別名:丹波礼子)との間に生まれ、4歳のときにバレエとピアノを始める。港区立青山中学校、私立東亜学園、東京都立城南高等学校を経て堀越高等学校卒業。 1974年 - 1977年放送のドラマ『がんばれ!!ロボコン』のヒロイン・ロビンちゃん役で人気を博す。 その後、作詞家のなかにし礼によってアイドルとして見出され、1981年トリオレコードより歌手デビュー。 1982年、ミュージカル『シンデレラ』で初舞台。以後、舞台女優に転身。 1987年、ミュージカル『レ・ミゼラブル』日本初演のエポニーヌ役で脚光を浴び、2001年までロングラン公演に参加し出演回数は1,000回を超えた。 また、各国で公演されている同作の世界ベストキャストに選ばれ、日本の女優として初めて英国王室主催のコンサート『ザ・ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス』(1987年)に出演、エリザベス女王に披露し、その模様はBBCで全英放送された。 更に1990年には世界選抜キャストとしてレコーディングに参加したアルバム『レ・ミゼラブル/インターナショナル・キャスト盤』がアメリカにてグラミー賞を受賞するなど国際的にも高い評価を得る。 一方、音楽活動も精力的に行い、1988、89年には『NHK紅白歌合戦』に2年連続で出場。 1990年代、TBS系ドラマ『HOTEL』の主題歌『ステップ・バイ・ステップ』『フレンズ』『約束』がヒット。 『KAHOファーストコンサート』(1987年)から始まったコンサート活動も毎年回を重ね、1998年にはマレーシアで、2006年は台湾ツアーと海外でもコンサートを行う。 また各オーケストラや交響楽団とのコンサートも数多く行っている。 1994年、ピアニスト、作・編曲家、プロデューサーの島健と結婚。和田誠、平野レミ夫妻が仲人である。同年からスタートした島田歌穂&島健Duoコンサートは、全国200ヵ所以上で公演、延べ10万人以上が来場。 楽曲のレパートリーは、ミュージカルは勿論、ジャズからポップス、民謡に至るまで幅広い。 他にも、2006年に映画『サウンド・オブ・ミュージック』マリア役の吹き替え、2017年ディズニー映画『美女と野獣』プリュメット役、2019年『メリー・ポピンズ リターンズ』トプシー役(メリル・ストリープ)の吹き替えや、東京ディズニーシーのスペシャルイベントのテーマ曲『Thanks to You』『Welcome to Christmas』『We Go On』を担当。 2008年、祖母の人生を綴った著書『私の祖母は「101歳のお嬢さま」』(潮出版社)を出版。 2014年にデビュー40周年を迎え、レーベルの枠を超えた初の自選オールタイムベスト『MY GRATITUDE』、和田誠監修、島健とのデュオによる初のJazzアルバム『いつか聴いた歌』をリリース。『MY GRATITUDE』は宇野亞喜良、『いつか聴いた歌』は和田誠の書き下ろしジャケットを使用している。 2015年、宝塚歌劇団『TOP HAT』日本初演の歌唱指導など幅広く活躍。 2019年、デビュー45周年を迎え、男性アーティストの名曲の数々をカバーした記念アルバム『Slow Ballade -おとこごころ-』をリリース。アルバムジャケットは、わたせせいぞうの書き下ろしである。 2003年、大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科助教授に就任。2007年から教授就任。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:37 UTC 版)
東京都立上野高等学校、埼玉大学経済学部卒業。 1988年にNBC長崎放送入社、一時佐賀ラジオ局にも在籍。1998年10月にTVQに移籍した。 2003年のプロ野球日本シリーズでは、第7戦の実況を担当し、当時の福岡ダイエーホークス日本一を伝えた。 また、学生時代からディベート、弁論活動を続けている。2011年度の組織改革で、新設された報道局に移り、四半世紀近いアナウンサー人生に別れを告げた。これについては後任アナウンス管理者の山本圭介がブログで報告したが、これに伴う補充は行われていない。2016年12月にTVQを退社した。 2017年4月23日に行われた福岡県小郡市長選挙に立候補。自民党・民進党の推薦を受けた現職の平安正知との激戦を制し、初当選した。5月15日、市長就任。選挙の結果は以下のとおり。 ※当日有権者数:47,497人 最終投票率:55.90%(前回比:pts) 候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持加地良光 52 無所属 新 13,355票 50.73% 平安正知 56 無所属 現 12,969票 49.27% (推薦)自民党・民進党 2021年4月25日に行われた市長選挙で前市長の平安ら2候補を破り再選。 ※当日有権者数:47,771人 最終投票率:54.98%(前回比:-0.92pts) 候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持加地良光 56 無所属 現 13,959票 53.56% 平安正知 60 無所属 元 11,494票 44.11% 古賀秀紀 66 無所属 新 607票 2.33%
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 07:27 UTC 版)
少年時代、当時の自宅の近くにあった上井草球場にプロ野球の試合を観に行っていたことがあるが、ある日東急フライヤーズが来た時に、本人曰く大下弘が捨てた鼻紙を目指して吉村を含む大勢の子供たちが殺到、結局他の子に取られてしまったことで、「プロ野球に係われる仕事に就く。それなら、いつか選手と親しくなれる」とこの時子供心に誓ったという。元々アナウンサーに強い憧れを持っていたわけではなかったが、なぜアナウンサーになったのかを振り返ると「これが大きな意味を持っていたのではないか」と感じていると話している。就職活動の時も先にある保険会社から内定をもらっていたが、このままでいいのかなと落ち着かなかった時に、名古屋に住んでいた兄から東海テレビでアナウンサーを募集しているという話を聞き、「『プロ野球ニュース』の仕事も出来るかな」と漠然と思いながら試験を受け、合格する。 1963年、東海テレビに入社。東海テレビではスポーツ中継担当のアナウンサーとして、プロ野球・中日ドラゴンズ戦や名古屋国際女子マラソン、プロボクシング・ファイティング原田世界タイトル戦の中継の実況、『プロ野球ニュース』、競馬中継などを担当した。放送席やリポート先で自身がカメラに映る際に、必ず肘をついて喋るのがトレードマークだった。 1974年の日本シリーズ第2戦や1988年10月7日の中日ドラゴンズの優勝決定試合(ヤクルトスワローズ戦)、1994年10月8日の中日ドラゴンズvs読売ジャイアンツ(通称10.8決戦、同年セントラル・リーグ公式戦最終試合、勝利チームがリーグ優勝となった-後述)、1999年9月30日の中日ドラゴンズの優勝決定試合(ヤクルトスワローズ戦)などの実況を担当した。 1996年5月には、2000メートルのGIIから1200メートルのGIに昇格して最初の高松宮杯(現・高松宮記念)の実況を担当、それが初のGI実況だったという。その時の年齢は55歳で、あと数年で定年という年齢になって初めてGIを担当したという例は彼を含めてあまり無い。競馬中継も長く担当していたことから、地元マスメディアの競馬記者で作る記者クラブの会友となっている。 定年を迎えた2001年からは、子会社東海テレビプロダクションに移籍して引き続き「東海テレビアナウンサー」の肩書きで残り、2004年度末に退職。引退しようと思っていたが、自宅がある地元の岐阜放送代表取締役会長・杉山幹夫から「番組をやらないか」と直々に声をかけられたのがきっかけで、フリーとしてアナウンサーの仕事を継続した。岐阜放送ラジオで毎週月曜18:30 - 20:00放送の番組『吉村功のスポーツ・オブ・ドリーム』でパーソナリティを務めている。また、2006年までは東海テレビがJ SPORTS向けに制作する野球中継の実況などを行い、同年9月の山本昌のノーヒットノーラン達成試合も実況した。東海テレビで放送される地上波中継からは、2005年9月6日の中継にて卒業したが、旧知の仲である星野仙一が解説者として駆けつけている。 2009年からは岐阜経済大学の非常勤講師を務め、ナレーション、プレゼンテーション技法を指導している。 2017年には、初の著書『アナウンサーは足で喋る』(桜山社)を出版した。
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岡山県総社市出身。鉄道ファン。関西大学社会学部を卒業後の1982年、開局したばかりのテレビ大阪へ新卒の1期生として入社した。同期入社のアナウンサーに、広島ホームテレビから移籍した沢田尚子(現在はフリーアナウンサー)がいる。 テレビ大阪への入社後は、スポーツ中継の実況を中心に、報道・情報・バラエティ番組の司会など幅広く活動。プロ野球中継への実況デビューは横浜スタジアムでの横浜大洋ホエールズ対阪神タイガース戦で、当初は阪神側のベンチリポートを担当する予定だったが、実況担当の先輩アナウンサーが体調不良で緊急入院を余儀なくされたことから、急遽実況を任されたという。また、入社2年目の1983年から始まった在阪民放テレビ5局による御堂筋パレードのリレー中継には、テレビ大阪を代表して、第1回から他局の看板アナウンサーと並んで参加していた。 1989年から1998年までは、ロードレース世界選手権(WGP)の中継で実況を担当した。1993年には原田哲也のGP250クラスチャンピオン決定の舞台となったFIM GP(ハラマ・サーキット)での実況の際、隣のブースにいたWOWOWの中継映像に音声が飛び込んでしまったことがある。この際解説を務めた山田純によれば、レース直前になって日本との間の回線が切れてしまい、急遽国際電話で実況音声を送ることになったが、その影響でヘッドセットが使えず自分の声の大きさが把握できなくなり、しかもレース展開も相まって最後は絶叫状態となってしまったのが原因だという。 2008年4月にアナウンスルームから企画宣伝部へ異動したことを機に、アナウンサー職を一時退いていた。2012年に編成局次長へ就任。2013年4月1日に、編成局次長兼アナウンス部長として、6年振りにアナウンサーとしての活動を再開した。 2019年3月31日付で、テレビ大阪を定年で退職。この退職によって、テレビ大阪開局当時からの現役アナウンサーが、同局から姿を消した。翌4月1日からフリーアナウンサーに転身。退職前の2018年4月からキャスターを務める『やさしいニュース』については、月・火曜日担当で引き続き出演する。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 07:35 UTC 版)
福岡県立小倉高等学校・日本大学を卒業後、1982年 KBCに入社。入社後は、スポーツアナウンサーとして長く活躍した。特に、テレビ朝日系が担当していた『大相撲ダイジェスト』では、九州場所担当として取材・力士インタビュー・番組出演を担当し、全国に顔を知られていた(後任は草柳悟堂)。 その後、KBC恒例の全社的異動によりアナウンス現場を離れ、番組制作、ラジオ営業部長などを歴任したが、2007年4月、管理専門ながらアナウンス部長となり、久々のアナウンス部復帰となった。 2009年6月11日の福岡ソフトバンクホークス対東京ヤクルトスワローズのセ・パ交流戦(ヤフードーム)で久しぶりに実況を担当した。その後KBCを退職。
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1997年、関西大学文学部中国文学科に入学。在学中1999年に1年間現地留学したこともあり、2002年に卒業してFBS入社。同期は若林麻衣子である。 入社後、報道記者業務を兼務するが、悪性リンパ腫にかかり、現場を離れ長期間入院し療養していた時期があった。快復後は本人の報道志望とは裏腹にバラエティー分野で起用されることも多くなり、生放送での失敗が全国番組で紹介されることも少なくなかった。 また、同期の若林(現在は3年後輩の仲谷亜希子)が地上デジタル放送推進大使となったこともあり、地元の女性タレントと「デジタル・ハニー」を結成し、自社番組で地上デジタル放送のPRを行っていた。現在はエリアが福岡県内の大半の地域に広がったことからその役目を終えている。 2008年7月、社内の人事異動によりアナウンス業務を離れ、報道記者専念となった。
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東京都北区出身。祖父は国語学者の平山輝男。明治大学卒業後、UTYテレビ山梨に入社。 1994年にKBCへ移籍、福岡ソフトバンクホークス戦をはじめとするスポーツ実況を中心に活動していたが喉の調子が悪くなり、2007年の夏ごろからアナウンス部デスクに異動したため、2007年6月2日に行われた福岡ソフトバンクホークス対中日ドラゴンズの交流戦(この試合は東海ラジオ放送にもネット)のラジオ中継を最後にプロ野球の実況を行っていない(テレビでは同年5月22日の福岡ソフトバンクホークス対阪神タイガースの交流戦が最後)。その後も時折ベンチリポート担当として引き続き野球中継には出演していた。 テレビ朝日系列のプロ野球中継はABCテレビのアナウンサーが担当する関西地区の試合を除いてキー局テレビ朝日のアナウンサーが実況を担当することがほとんどであるが、2004年10月10日に福岡ドームで行われたパ・リーグプレーオフ第2ステージ第4戦、福岡ダイエーホークス対西武ライオンズ戦ではテレビの全国中継の実況を担当した。 その後、北九州支社営業部を経て、現職。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 07:06 UTC 版)
福岡県福岡市出身。筑紫女学園高等学校を経て筑紫女学園短期大学を卒業して1990年入社。主にラジオ制作を中心に、テレビのナレーションなども担当。 RKBには短大生のときから出演していてラジオ番組『HiHiHi』のアシスタント集団「象足シスターズ」の一人。当時の名義は富永倫子(とみなが みちこ)。また、学生時代は自分を「りんこ」と呼んでいた。 どちらかといえば明るいキャラクターであり得意なものまねは松田聖子。毎年秋に催行されている「RKBラジオ祭り」では松田聖子の物真似をよく披露するが当時ラジオ番組にて共演している会社の先輩・安藤豊に「ハイ、ハイ」と一蹴されることが多かった。安藤とはレギュラー番組でも緊張関係にあった。 早くに結婚し中高生の息子2人を持つ母親。また公式プロフィールに記述しいている趣味・特技もまた多彩。親戚に声優の冨永みーながいる。実は涙もろい。2015年4月5日、「2015年3月下旬に離婚した」と2015年4月5日に担当番組「大庭宗一の博多熱風塾」にて発表。
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小学生の終わり頃から聴き始めた『オールナイトニッポン』のDJに憧れ、本人曰く「深夜放送のDJになるため」にアナウンサーを目指したとのこと。 日本大学商学部卒業後、1978年アナウンサーとして入社。同期の久村洋子、芦間恵子、後庵継丸は退職や配置転換などで既にKBCアナウンス部から離れた。 テレビでは情報番組、ラジオでは主に音楽・芸能番組を担当し、KBCを代表するアナウンサーのひとりとして活躍している。2007年10月、人事異動でラジオ局ラジオ制作部に移り、ラジオ制作部担当部長を歴任、ラジオパーソナリティとして一部出演を継続。4年後の2011年、人事異動でアナウンサーに復帰した。 学生時代からの友人にタレントの関根勤がいる。関根とは一緒に物真似をやったこともあり、関根が学生時代に結成していたグループ「目黒五人衆」のものまね歌謡ショーの司会をしたり、関根に付いて『ぎんざNOW!』(TBSテレビ)の「素人コメディアン道場」の応援に行ったりした仲ということである。関根が浅井企画社長の浅井良二にスカウトされたその場にも同席しており、また関根が芸能界デビューした後も良く一緒に付いて浅井企画の事務所に行っていたことがあって、そんな様子を浅井に目を付けられ「君は良く関根と一緒に来てるけど、芸能界志望なの?」と話しかけられたことがある。そんな時に関根が「こいつは局アナ志望なんです」と浅井に話したことで本人曰く、この時に芸能界の道は無くなったということだが、逆にこの言葉に後押しされ、退路を断って本格的に進路を局アナ一本に絞って頑張ろうと奮起するようになったという。 ザテレビジョンでコラムを書いていた時があった。 航空ファンで、ジェットエンジンの音を聞くだけで機種を当てるという特技を持っていたことがあった。 2021年3月31日をもって 九州朝日放送を定年退職。 口癖は「いやいやいやいや~」、Fax番号を言う時には「なにに、よによに」(722-4242)とコメントする。かつては多くのパーソナリティが用いていた語呂合わせであるが、現在恒常的に使うのは富田くらいである。 2021年10月より一部の番組で「コンシェルジュ富田」名義での活動を開始。
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