ヴァーチャルな殺人
ネット上のヴァーチャルな殺人をくりかえしてるご仁も、ごたぶんにもれませんね。
まさか、あなたもチームの一員ですか?まさかねぇ。…まさかちがうとは思いますが。
ここで言及されている「ネット上のヴァーチャルな殺人をくりかえしてるご仁」というのは、たんぽぽのなみだ~運営日誌のこちらのエントリーに付いたコメントから察するに、ブログ主のたんぽぽさんのことを言っておられるのであろう。以下はその前提に立って三つの視点からこのコメントについて批判したい。
まず一つ目。ブログを一つの生命として捉え、開設と閉鎖を誕生と死亡に喩えるというのはそう珍しい発想ではない。だが、ブログの書き手(中の人)をブログと同一視し、ブログの閉鎖を書き手の死と捉えるのはどうであろうか? ブログの”死”と人の”死”はだいぶ違うはずだ、何しろ書き手は生きていさえすれば再度別のブログを立ち上げることができる。仮に同じ名前では差し障りがあるということであれば別の名前をつけることだって出来るのだ。一度閉鎖した後、そうやって復活したブログだってあるだろう。
そういう意味でブログの閉鎖を中の人の死と同一視することには違和感があるし、また個人的な理由ではあるが強い嫌悪感もある。嫌悪感の理由は実際に何度か声を交わしたことのあるブロガーの訃報に接したことがあるためで、たかが閉鎖くらいのことを”死”と表現されるのは不快なのだ。まあ、不快感の方は個人的な体験から来る物なので、同意してもらえなくてもしかたがないことであるが。
次に二点目である。仮に第一点については問わない、ということにしたとして、誰か他人のブログを閉鎖に追い込んだ、ということは無条件に責められることなのだろうか? ここで、他人のブログを閉鎖に追い込む手段について考えてみよう。
まず一つの方法としては、ブログの運営会社に訴えてやめさせるように圧力をかける方法である。これが正当になるかどうかは、どのような理由でやめさせられたかによるはずだ。例えば、誰か個人に対する誹謗中傷やストーカー行為をブログを使って行なっていれば、被害者が運営会社に訴え出るのは当然であり、その結果ブログをやめさせられても自業自得という物であろう。
逆にそう言う事実が無く、全く不当な圧力であったとしたら、これはやめさせた側に問題があるということになる。言論弾圧とまでは行かないまでも、運営会社の見識が問われるケースだね。
もう一つ、ブログの書き手を追い詰めて、自分から閉鎖するように追い込むというケースもある。この場合、閉鎖それ自体は一応自分の意思ではあるものの、そこまで追い込んだことへの責任がどのくらい問われるかということになる。そしてこれもまたケースによって議論が分かれるはずなのだ。例えばここに、酷いヘイトスピーチを撒き散らしているブログがあるとしよう。それに対して正面から批判を行い、相手が返答できなくなるところまで追い詰めた結果、そのブログ主が閉鎖を選択した場合、追い込んだ側を問い詰めることは正当だろうか? 私はそうは思わないのだ。
そしてこれもまた、逆に追い込んだ側が責任を問われるケースも存在する。いわゆる”荒らし”行為によって、精神的に追い詰め、閉鎖に追い込むという手段だ。これはもう一種の暴力といっていいだろう。具体的には、ブログ主に対する誹謗中傷を繰り返す、罵倒コメントをしきりに投稿する、関係ないエントリーに対してまで連続的に攻撃的なトラックバックを送る、などの行為のことだ。こういう行為によって閉鎖に追い込んだのであれば、当然責めを負うのは追い込んだ側であろう。
さて、最後の点だ。上記のように、ふぉっくすさんの言うところの「ヴァーチャルな殺人」は少なくとも実際にどういう経緯を取ったかによって、評価は大きく異なるはずだ。であるならば、具体的にどういうことがあったかについては、ほのめかすだけで何も伝えず、単に「閉鎖に追い込んだから殺人」などという主張ははっきり言ってただの誹謗中傷、荒らし行為に他ならない。
少しは恥を知るが良い。
誹謗中傷 > クソ野郎!
罵倒コメント > 白痴
トラックバックどころか、キャッシュまで取ってコメント欄に因縁付けてくるゲスもいたな。
まずは、汝自身を知りなさい。どうせ恥を知るような心はないだろうから。
ところであなた、彼女できても続かないでしょ。ヘタで。あなたのお喋りの姿勢見てたらよくわかる。
2008.07.05 (Sat) | gon #bLNrjBuk | URL | Edit