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科学は宗教の代用品にはなれない

 このエントリーの非国民さんのコメントに対して、「科学”だけ”ではカルトに対する耐性としては弱い」と書いた。そのとき頭にあったのは一月くらい前のこのエントリーのことだった。
 科学を「正義の味方」と勘違いしない
 ここに書かれているのように、科学の方法論が信頼できるというだけで、科学自体は正義でも悪でもない。もうちょっと言うと科学は正義の味方にはなってくれないんだ。こういった科学の方法論というのは、確かに似非科学やカルトへの耐性になる、が「正義の味方にはなってくれない」という性格は科学の限界でもあるんだ。
 一方で宗教というのはそうではない。少なくともその出発点は「人を救う」というところにある。それも民衆とか人類とかいう抽象的なものではなく、今目の前で苦しんだり悩んだりしているその人を救おうとする、という性格を持つ(その救いがこの世で行われるとは限らない)。これは教典宗教だけでなく、自然崇拝みたいなものでも同じだ。
 自然というのは本当は非情なものだ。これは人に優しくないとか、厳しいとかいうことではない。擬人的な言い方をすれば「人間のことなんか知ったこっちゃない」ということだ。無関心というのは一番応えるから、大きな災害で人がたくさん死んだりした場合なんか、たとえタタリのようなものでも、そういう理由がついたほうが救いになる。無意味に死んでしまったということにはならないから。
 これは多くの似非科学で実際以上に人間の存在が重要視されていることの説明にもなる。「水からの伝言」なんてのが好例だよね。

 このように、科学と宗教とで性格が異なるから、科学的な教育を受けた人間が宗教的な救いを求めることは不思議ではない。特に、苦しいときや悩んでいるとき、救いの手というのはやはりありがたいものだ。問題はそれが本当に救いなのか、それともそうではないのか、ということを見極めるのが結構厄介なことなんだ。単純にね、相手を食い物にしようとしている連中であればまだ簡単なのだけど。ことはそれで終わらないからねぇ。それについては、もう少し考えてみたい。

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