宗教的情操教育よりも宗教リテラシー教育を
こちらの記事によると、教育基本法の”改正”案に「愛国心」「宗教的情操の涵養(かんよう)」を明記したがっているそうだ。私は、以前に書いたようにこれらは食いつきやすいようにまかれた餌だと思っているのだけど、こう懸命になるということは、もしかしたら入れられたら入れたいというのも本音かもしれない。
愛国心に関しては「馬鹿言ってんじゃねえ」なのだけど、宗教に関しては教育基本法で定めるかどうかは別にして、公教育の中である程度教える必要があると考えている。ただし、情操教育などではなくリテラシーということで。
日本にいると、宗教に関してはかなり無頓着でいられる。なにしろ、メリークリスマスとか言っていた一週間後に除夜の鐘を聞きながら二年参りで神社に賽銭上げてお祈りしていてもちっとも不思議に思ったりしないのだから。それにはいいところもあるのだけど、一面で宗教に関してあまり深く考えないでいると、そこからくる不都合も多い。どうも日本の学校教育って、必要以上に宗教から距離を置こうとしているために、かえってつけ込まれているんではないだろうか。
ひとつは、まっとうな宗教と変なカルトとを見分ける力が不足する。宗教と聞くとひたすら忌避するか、逆に簡単にカルトにひっかかるか。両極端になってしまいがち。
あと、変に誤解しているところも多い。あの、「一神教は狭量で多神教は寛容」という俗説とか。イスラムなんてのもかなり誤解されてると思う。ここは他の宗教に対する寛容さを養うためにも主要な宗教の歴史と教義については教えておいたほうが良いんじゃないかな。
もうひとつ、これはひとつめにも関連するのだけれど、科学を偽装した宗教(大抵は変なカルトみたいなもの)が教育に入り込んでこようとしていること。「水からの伝言」とか「インテリジェンスデザイン」とか「純潔教育」とか。こういうのって信仰として話してくるのであればいいんだ(もちろんその場合でも公教育の中で教えることは駄目)。でもそれだと現行の基本法では違反になるから、科学を偽装することで学校教育の中に入り込もうとする。実はこれが一番厄介なんじゃないかな。科学という言葉にはそれが正しいものだと勘違いさせる力がある。
こういうことを防ぐためにも、まっとうな宗教というのはどういうものか、ということは、公教育の中で教えておくべきだろう。あと、できるかどうかはわからないけれど、本当は宗教の持つ負の部分も教えておいたほうが良い。
最後に「宗教的情操」について、これってどこかの宗教に偏らないような最大公約数的なものにしてしまったら、今の学校道徳とどこが違うんだろうというのがひとつ。それから宗教っていうのは非常に個人的なもので、「宗教的情操」というのは個々人が普段の生活の中で身に付けるものだと思う。だから公教育では変な宗教もどきにだまされないための教育だけをして、そのあとどんな宗教に出会って、どう自分と折り合いをつけるかは個人にまかせたほうがいいと思うよ。
はじめまして。
宗教的情操教育に付いて、ググっておりましたらこのHPにたどり着きました。
私自身は僧侶では無く、フリーライターなのですが若手僧侶とコラボしてフリーペーパー発行などを通じて、若い人と若手僧侶を繋げるプロジェクト「フリースタイルな僧侶たち」を運営しております。
その中で「宗教リテラシーの必要性」という文章を書かせて頂いているのですが、本当におっしゃっておられる通り…と思って、おもわず長々と書込みをさせて頂きました。
一定の宗教を教えるのではなく、宗教の概念を教える教育は必要不可欠だと思います。
失礼致しました。
2010.05.07 (Fri) | 仲西俊光 #JalddpaA | URL | Edit