往生際の悪い敗者
Posted: 2010.10.08 (Fri) by うちゃ in 意見など
疑似科学批判が行われ、疑似科学側の旗色が悪くなってくるとどういうわけか必ずといっていいほど、認識論だのなんだの科学哲学的な話を持ち出して来る人たちがいる。それには、たいがい「疑似科学を信じてるわけではない」とか「擁護するわけではない」とかいうエクスキューズがついているものだ。自分では気の利いたことを言ってるつもりだろうが、毎度のように聞かされる側としてはもううんざりというか、なにピント外れのこと言ってるんだこいつは、という感想しか持てないのである。 夏頃から話題になっているホメオパシーに関する議論がだいぶ下火になりつつもいまだに続いているのは、この手合いがめんどくさいこと言ってるからだろう。
このホメオパシーというやつは、題材的にその手の議論のピント外れっぷりが良くわかるので、そんな話をする価値などないということを示してみようかと思った。
既に指摘されているように、今では科学者たちから荒唐無稽という評価を受けているホメオパシーもその創立当初は立派な科学的仮説であった。それも当時の主流派に比べて治療の実績も良かったのである。その当時にあっては紛れもなく”西洋近代科学”だったんだよね。ホメオパシーには「あらゆる事象を説明することが出来るシンプルなルールの存在を求める」といういかにも”19世紀的な西洋近代科学”の香りがするのだが、なぜかこのあたりはスルーして近代科学批判に走るのがまず滑稽。
さて滑り出しはまずまずだったホメオパシーだったが、やがて生物学や化学における新しい発見が続き、その仮説には疑問符がつけられることになる。「いくらなんでも薄めすぎだろ」というのはその一つだけど、実のところそちらよりも、「そんな単純な理屈で全部説明していいのか?」という方が重要だったように思う。「事象のすべてを説明できる黄金律」や「あらゆるものを解決する銀の弾丸」の否定は近代科学が成熟していく過程で通らずにはいられない道だったはずだ。そして最終的にホメオパシーは誤った科学的仮説として棄却されることになる。本来なら科学におけるホメオパシーの役割はここで終わり。あとは退場するだけだったのだ。
勘違いしてはいけないのは、結果的に間違っていたからと言ってホメオパシーには価値がない、とはならないことだ。誤った仮説というのは科学を前に進める原動力である。今の科学は無数の誤った仮説の上に築かれているのだ。だからここで退場したからと言って別に不名誉なことではなかったのだが……。
そうは思わなかった人たちがいたわけだよね。彼らは自分たちの仮説を守ることを選んだ。そこまではいい。だがどうやらそこで目的が変わってしまったのだろう。仮説を守ることを最優先とし、本来の目的であったはずの病気の治療はそのための手段になってしまった。なぜそう断言できるかって? それは彼らが病気の治療の役にはたつが、彼らの仮説を脅かすような科学の分野に背を向けるようになったことからわかる。生物学とか疫学とかね。そのくせ自分にとって都合が良さそうだとなると、量子論には手を出してみるという無節操さを見せたりする。
こうして科学とは袂を分かったことでホメオパシーは治療術としては歩みを止めてしまった。すでにダメ出しをされた自分たちの「黄金律」のみに頼っている以上、扱う症例を増やすことは出来たとしても治癒率の延びは望めない。結局発達したのは自分たちの主張を取り繕うための言い訳の数と、あれもできますこれもできますという、もはや万能に近いものとなってしまい、かえって説得力を無くした効能書きというていたらくである。
さて一方の通常医療の方はホメオパシー側がこうやって足踏みしている間も前進を続けていた。仮説を立てて検証し、誤ったものは棄却し、使えるものは取り入れ
、とにかく病気を治療するための科学と技術を磨いてきた。その結果当然のことではあるが、両者の実力には天と地ほどの差が出てしまっている。もはやまともに比較したのではホメオパシーには全く勝ち目など無いわけだ。
そうなればホメオパシー側が生き残ろうとしてやることは出来るだけ相手を貶め、自分を持ち上げて、なんとかして自分たちを選んでもらおうとすることだけだ。今回問題になったのはこの部分であって、彼らが自分たちの仮説を主張してるだけであればそれこそ文字通り「毒にも薬にならない」んだからたいして問題視されなかっただろう。結局のところ彼らの首を絞めたのは競合する他者に対する語り口のひどさであった。そのあたりは科学とか哲学なんて話では全くない。人の欲望と恐怖をコントロールして錯誤を起こさせるという技術ですね。いろいろ呼び方はあるけれど。
19世紀に科学的仮説として棄却されたときに素直に退場していればここまで醜態を晒すことはなかったろうに。
このホメオパシーというやつは、題材的にその手の議論のピント外れっぷりが良くわかるので、そんな話をする価値などないということを示してみようかと思った。
既に指摘されているように、今では科学者たちから荒唐無稽という評価を受けているホメオパシーもその創立当初は立派な科学的仮説であった。それも当時の主流派に比べて治療の実績も良かったのである。その当時にあっては紛れもなく”西洋近代科学”だったんだよね。ホメオパシーには「あらゆる事象を説明することが出来るシンプルなルールの存在を求める」といういかにも”19世紀的な西洋近代科学”の香りがするのだが、なぜかこのあたりはスルーして近代科学批判に走るのがまず滑稽。
さて滑り出しはまずまずだったホメオパシーだったが、やがて生物学や化学における新しい発見が続き、その仮説には疑問符がつけられることになる。「いくらなんでも薄めすぎだろ」というのはその一つだけど、実のところそちらよりも、「そんな単純な理屈で全部説明していいのか?」という方が重要だったように思う。「事象のすべてを説明できる黄金律」や「あらゆるものを解決する銀の弾丸」の否定は近代科学が成熟していく過程で通らずにはいられない道だったはずだ。そして最終的にホメオパシーは誤った科学的仮説として棄却されることになる。本来なら科学におけるホメオパシーの役割はここで終わり。あとは退場するだけだったのだ。
勘違いしてはいけないのは、結果的に間違っていたからと言ってホメオパシーには価値がない、とはならないことだ。誤った仮説というのは科学を前に進める原動力である。今の科学は無数の誤った仮説の上に築かれているのだ。だからここで退場したからと言って別に不名誉なことではなかったのだが……。
そうは思わなかった人たちがいたわけだよね。彼らは自分たちの仮説を守ることを選んだ。そこまではいい。だがどうやらそこで目的が変わってしまったのだろう。仮説を守ることを最優先とし、本来の目的であったはずの病気の治療はそのための手段になってしまった。なぜそう断言できるかって? それは彼らが病気の治療の役にはたつが、彼らの仮説を脅かすような科学の分野に背を向けるようになったことからわかる。生物学とか疫学とかね。そのくせ自分にとって都合が良さそうだとなると、量子論には手を出してみるという無節操さを見せたりする。
こうして科学とは袂を分かったことでホメオパシーは治療術としては歩みを止めてしまった。すでにダメ出しをされた自分たちの「黄金律」のみに頼っている以上、扱う症例を増やすことは出来たとしても治癒率の延びは望めない。結局発達したのは自分たちの主張を取り繕うための言い訳の数と、あれもできますこれもできますという、もはや万能に近いものとなってしまい、かえって説得力を無くした効能書きというていたらくである。
さて一方の通常医療の方はホメオパシー側がこうやって足踏みしている間も前進を続けていた。仮説を立てて検証し、誤ったものは棄却し、使えるものは取り入れ
、とにかく病気を治療するための科学と技術を磨いてきた。その結果当然のことではあるが、両者の実力には天と地ほどの差が出てしまっている。もはやまともに比較したのではホメオパシーには全く勝ち目など無いわけだ。
そうなればホメオパシー側が生き残ろうとしてやることは出来るだけ相手を貶め、自分を持ち上げて、なんとかして自分たちを選んでもらおうとすることだけだ。今回問題になったのはこの部分であって、彼らが自分たちの仮説を主張してるだけであればそれこそ文字通り「毒にも薬にならない」んだからたいして問題視されなかっただろう。結局のところ彼らの首を絞めたのは競合する他者に対する語り口のひどさであった。そのあたりは科学とか哲学なんて話では全くない。人の欲望と恐怖をコントロールして錯誤を起こさせるという技術ですね。いろいろ呼び方はあるけれど。
19世紀に科学的仮説として棄却されたときに素直に退場していればここまで醜態を晒すことはなかったろうに。