雲仙観光ホテル・軍艦島編(11):雲仙(18.9)

 それでは雲仙に向かいましょう。島原駅に戻って自転車を返却し、雲仙行きのバスに乗り込みました。左手に海と天草、右手に山なみが見える風景を楽しんでいると、50分ほどで雲仙に着きました。
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 そして雲仙観光ホテルへ、並木道の向こうに三角屋根の正面部分が見えました。はやる気持ちをおさえながら歩を進めると、並木が終わり、ホテルの全貌が姿を現わしました。気分を高揚させる上手いアプローチですね。(※最初の一枚は翌日の朝に撮った写真です)
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 まずは雲仙観光ホテルの公式サイトからホテルの歴史について引用しましょう。

 日本初の国立公園に指定された雲仙は、古くから外国人避暑地として親しまれて参りました。
 昭和7年、外国人観光客誘致を目的に、国策として外国人向けのホテルが日本各地に建設されることになりました。良質な温泉に恵まれ、豊かな自然に恵まれたこの地にも洋風建築のホテルが建てられることになり、雲仙観光ホテルは開業いたしました。
 昭和10年10月10日午前10時に、ハーフティンバーのスイスシャレー様式を取り入れた象徴的な建築は、 竹中工務店の設計・施工第一号ホテルで、その完成に全力を注いだ彼らの熱き思いと高い理想は、現在もなお当ホテルの滞在スタイルの中に現れています。(設計者:早良俊夫氏)
 設立当時、雲仙はもとより長崎県内にもこの様な豪華絢爛かつ近代設備が整った建物はありませんでした。この地を訪れたハンガリー文化使節団メゼイ博士は、「雲仙の自然は素晴らしい。南欧チロルの山の美にリビアの海の美を加えたようなものだ。崇高な世界美というものは、東洋的美と西洋的美が一体となったものだと思うが、雲仙でこれを発見することができた。東洋的であり、西洋的であり、しかもなんら不自然さがない」と、称賛されたと記されています。
 客船をイメージした館内には、客室61室、メインダイニング、バー、売店、図書館、理容室、会議室、ビリヤード場、硫黄泉浴室男女1室が完備されており、現在も館内には当時の面影がそこはかとなく息づいております。
 昭和21年、駐留米軍に接収され「休暇ホテル」として利用されていましたが、昭和25年の接収解除後に営業再開。同年、国際観光整備法に基づき政府登録ホテルに登録されました(第ホ29号)。昭和54年、「建てられた時代を象徴する総合芸術であると共に歴史を伝えるモニュメントである」と、日本建築学会により近代日本の名建築に選ばれました。平成15年1月31日、「貴重な国民的財産である」とされ、国(文化庁)の登録有形文化財に登録されました(登録有形文化財 第42-0019号)。また平成19年、長崎県「まちづくり景観資産」に登録、経済産業省「近代化産業遺産」に認定されました。

# by sabasaba13 | 2024-12-28 07:07 | 九州 | Comments(0)

雲仙観光ホテル・軍艦島編(10):島原(18.9)

 それではもうしばらく街を彷徨しましょう。
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 鏝絵のある古い商家は猪原金物店
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 島原市のホームページから引用します。

猪原金物店
 猪原金物店は、由緒ある島原街道に面するこの地に明治10年(1877年)に創業しました。金物店としては九州で2番目に歴史の長い老舗というだけあり、とてもおもむきのある町屋造りの建物で、2003年には国の登録有形文化財になりました。
 平成の普賢岳噴火後は、昔ながらの金物店を大改装して、お店の奥に茶房&ギャラリー「速魚川」を併設。さらに平成10年3月、お店の横に井戸の湧水を利用した人口の小さな川「速魚川」を生み出しました。速魚川には突き井戸(地下110メートル)から自噴する、毎分150リットルの湧き水が流れています。軟水でマイナスイオンをおびているので甘くて美味しく、あらゆるお料理にも最適で、お肌もつるつるになるという速魚川の水は自由に飲んだり持ち帰ったり出来ます。

 落ち着いた雰囲気の「鯉の泳ぐまち」では、水路に鯉が放流されていました。
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 そして「四明荘」へ、島原市のホームページから引用します。

 明治後期から大正初期ごろに伊東元三氏(当時開業医師)が別邸(宅地187.8坪、木造瓦葺約40坪)として建築され、四方の眺望に優れていることから「四明荘」と名付けられました。
 庭園は昭和初期に禅僧を招いて造られたと言われ、色とりどりの鯉が泳ぐ庭園の池へは一日に約3000トンもの清水が流れているそうです。
そのため豊かな湧水を利用した庭として市民に親しまれてきました。
 座敷は正面と左側面の二方が池へ張り出して縁を廻しており、一段高い屋敷から庭園を見下ろすと座敷と庭園が一体となり、ここでしか見られない独特の美しい景観が広がります。
 また、居室棟裏手に位置する四角形の池には、四つの中島があり、表の庭園とはまた違った趣があります。澄んだ水の周りは低い石積で護岸され、池底はいずれも砂敷き、池の中には沢飛石が配置されています。
 平成20年7月28日に国の登録記念物、平成26年4月25日に国の登録有形文化財となり、「鯉の泳ぐまち」の一角にある人気の観光スポットとなっています。

 こちらは素敵な邸宅でした。二面が清らかな水を湛えた池に開かれている開放的な座敷に座って池や木々を眺め、鳥の声や微かな街の音に耳を傾け、静謐な空気に包まれていると、すべての人に親切をしてあげたい気持ちになってきます。今日はかなり暑かったので係の方が出してくれた冷たいお茶が身と心にしみじみと沁みました。どうもありがとうございました。
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# by sabasaba13 | 2024-12-27 08:23 | 九州 | Comments(0)

雲仙観光ホテル・軍艦島編(9):島原(18.9)

 そして島原武家屋敷へ。観光情報サイト「ENJOY!しまばら」から引用します。

 武家屋敷は、島原城の西側に位置し、長さ400mほどの下級武士の住まいがあった屋敷町です。足軽・鉄砲組が住んでいたことや屋敷が碁盤の目のように綺麗に並び、造成当時、隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷が見渡せたことから"鉄砲町"とも呼ばれます。町筋の中央に流れる清水は北西の「熊野神社」を水源とし飲料水として使われ、水奉行を置いて厳重に管理されていました。

 延々と続く石塀、ところどころに見える屋敷林、中央には清らかな水路、風情のある街並みです。
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 それでは昼食を食べますか。ガイドブックで唾をつけておいた「福まん家」に行き、から揚げをいただきましょう。途中に、煉瓦造りの煙突がある大きな家がありましたが、酒蔵でしょうか。
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 さらに歩いていくと、飲むことができる湧水「めだかの学校」がありました。それにしてもなぜ「めだかの学校」? 同名の童謡の舞台となったのがこの湧水? 調べてみると、神奈川県小田原市にある荻窪用水を舞台に茶木滋が作詞をしたそうです。(作曲は中田喜直) ご教示を乞う。
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 その先には、「ヨーロッパの花ひらかせたセミナリオ」というモニュメントがありました。セミナリオ! 懐かしいなあ、高校時代に一途に取り組んだ受験日本史を思い出してしまいました。日本に来たイエズス会宣教師バリニャーノが、日本人聖職者を育成するために開設した学校ですね。なお出典は「しまばらふるさといろはかるた」、島原を愛する二人のおじさん(榊原武之、松尾卓次両氏)の合作で、子供たちに楽しみながら郷土史を覚えて貰いたいという情熱のこもったものだそうです。
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 そして「福まん家」に到着。同社のホームページから引用します。

長崎から揚げ
 福まん家のから揚げは、雑味のない上品な味わいの「あご出汁」と、貴重な長崎・五島列島の「椿油」を使い、少し甘めの味付けで丁寧に仕込みます。こうした、長崎ならではの食材や味付けにこだわった福まん家のから揚げは、あご出汁と椿油でサクサクつやつや、揚げ色はカステラ色。冷めても固くならず、おいしく召し上がっていただける「長崎から揚げ」です。
 もともと、から揚げ(唐揚げ)は、「とう揚げ」とも呼ばれ、油で揚げた唐人(中国人)料理がルーツ。鎖国時代の長崎、貴重な油を使った美味なる唐人料理は、好奇心旺盛な長崎商人たちにも大変好まれたといいます。当時は、こちらも貴重であった砂糖をふんだんに使うことでおもてなしの心を伝えた先人たち。福まん家のから揚げには、こうした歴史と長崎で花開いた食文化が息づいています。

 あご出汁唐揚げをいただきましたが、能書きにたがわず美味しい逸品でした。
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 しかし食欲を失わせるような画像がテレビに映されていました。はい、今は亡き安倍晋三氏が石破茂氏と争った自民党総裁選挙のニュースです。
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 せっかくの唐揚げの風味が落ちてしまいました。『週刊金曜日』(№1200 18.9.14)で、北原みのり氏が書いておられたことに満腔の意をもって賛同いたします。

日本の男社会が育てた構造的暴力の象徴としての自民党 北原みのり

 (安倍晋三でございます。まさに、いわば、その上で、はっきり申し上げたいのでございます。あの、あの、あのですね、委員長、ヤジがうるさいので注意して下さい!)
 すっかりあの喋り方に慣れてしまった6年間。言葉使いは丁寧なのに、攻撃的で、中身なく、嘘くさく、質問者が女性だとにたにたと笑う醜悪さと暴力性を漂わせるあの人の言葉。限られた人生だというのに、6年も、こんな人が権力を振るう世界に生きてしまっている。いったいどこからやりなおせば、よかったのだろう。(p.20)

 死者に打つ鞭ではありませんが、この方の業績には批判すべき点が多々あると思います。そしてその負の遺産が、いまも私たちを苦しめていることも銘肝しましょう。もし"戦争が廊下の奥に立ってゐた"ら、それは間違いなく安倍氏が勝手に決めてしまった「集団的自衛権」のせいです。

# by sabasaba13 | 2024-12-26 08:44 | 九州 | Comments(0)

クリスマス・キャロル

クリスマス・キャロル_c0051620_13381116.jpg 先日、劇団昴の劇『クリスマス・キャロル』を、練馬文化センター小ホールで山ノ神といっしょに観てきました。そう、チャールズ・ディケンズの名作です。脚色はジョン・モーティマー、翻訳は石川麻衣、台本・演出は菊池准[演劇企画JOKO]です。
 お恥ずかしい話ですが、ディケンズの小説で読んだことがあるのは『デイヴィッド・コパフィ-ルド』と『オリバー・ツイスト』だけで、『二都物語』も『大いなる遺産』も未読です。『クリスマス・キャロル』については、おおまかなストーリーは知っているのみ。どんな劇に仕上がっているのか楽しみです。
 チラシからあらすじを引用しましょう。

 クリスマス・イブの夜。けちで頑固、偏屈な老人スクルージは死んだ同僚マーレイの幽霊と過去・現在・未来の聖霊たちに導かれ、時空を超え不思議な時間を過ごす。彼がそこに見たものは孤独だった少年時代、温かな家族の営み、そして未来に待つ怖ろしい光景。すべての時間が過ぎた朝、スクルージの心にあたたかな光が差し込む。

 導入部、スクルージの冷酷な守銭奴ぶりが印象的に演じられます。従業員を安い給料で酷使し、クリスマスの寄付にも頑として応じず、クリスマスを愚かな馬鹿騒ぎとして蔑視します。さらには「貧しい連中が死んでしまえば人口が減って結構だ」とうそぶく始末。貧乏人には生きている価値がなく、他者を蹴落として豊かになった者が尊いという社会。ここから経済成長を軸とする近代化が始まったのでしょう。カール・ポランニーも『大転換』(東洋経済新報社)の中でこう語っています。

 19世紀的文明は、人類社会史上健全なものとはみなされたことのほとんどなかった動機、しかも、以前には日常生活における活動や行動の正当化原理に高められたことなど絶対になかった動機、すなわち利得動機に基礎を置くことを選んだのだった。自己調整的市場システムは、ほかならぬこの原理から導出されたのだ。
 利得動機のつくりだしたこのメカニズムに、効力の点で歴史上匹敵しうるのは、最も狂暴に噴出した宗教的熱狂以外にはありえない。一世代のあいだに、人類世界全体がこのメカニズムの圧倒的な影響力のもとにさらされてしまった。(p.39)

 その時代精神の体現者とも言うべきスクルージを、どこか憎めない人物として宮本充が見事に演じていました。反感を覚えると同時に、なぜこんな人間になってしまったのか知りたくなります。
 その夜彼の前に現れたのは、7年前に死んだ同僚マーレーの亡霊。彼は鎖でがんじがらめとなっていますが、生前に金儲けのために他人を蹴落としたことが鎖となって、自分を苛ましていると告げます。そしてスクルージがそうならないように、過去・現在・未来の三人の聖霊を遣わして彼に反省を促します。スクルージを少年時代や壮年時代に立ち返らせて、なぜ彼が強欲な人間になったのか、その結果孤独に陥ったかを思い起こさせる。現在、彼は周囲からどう思われているかを、さまざまな人びとから語らせる。そして将来、彼はどんな悲惨なことになるのかを暗示する。歌や踊りを交えながら、スピーディーに場面を転換していく演出はお見事でした。
自分の生き方を真摯に振り返り、反省し、生まれ変わろうとするスクルージを宮本充がコミカルな味わいとともに好演していました。
 そして強欲を捨てて周囲と和解し、充実した喜ばしき新たな人生へと踏み出すスクルージ。「親切は世界を救う」というカート・ヴォネガットの言葉を思い起こさせる後味の良い幕切れでした。

演技や演出も良かったのですが、何といってもディケンズの原作が秀逸です。『オーウェル研究 ディーセンシィを求めて』(佐藤義夫 彩流社)の中にこういう言葉がありました。

 ディケンズはただ、お説教を垂れているだけである。ディケンズから最終的に引き出せることは、「人間が真っ当な振る舞いをしようとすれば、この世の中は真っ当なものになるだろう」("If men would behave decently, the world would be decent.")ということだけである。ディケンズが今も人気があるのは、人々の記憶に残るような仕方で庶民の「ネイティブ・ディーセンシィ」(生まれつき持っている人間の真っ当さ)を表すことができたからである。ディケンズの顔とはいつも何かと闘っている人の顔であり、恐れずに正々堂々と闘っている人の顔であり、静かに怒っている人の顔である、とオーウェルは述べている。(p.192)

 強欲、金儲け、競争、不和、憎悪と不安が渦巻く今の日本、そして世界を連想させる、他人事・過去の事とは思えない、身につまされる芝居でした。でも"人間には生まれつき持っている真っ当さ"があるというディケンズのメッセージを信じ、希望をつなぎましょう。
 劇団昴のみなさま、ぜひこの芝居を衆議院第一議員会館で上演して、改心する前のスクルージのような自由民主党のみなさんに観せてあげてください。

 自民党という衣服は、政治資金という一本の糸だけで縫い合わされており。この糸に異変が起きれば、さしもの巨大な衣服も一挙に解体を余儀なくされてしまう。(田中秀征)

 追記です。この芝居のポイントはクリスマスに起きた出来事にあると思います。そう、言うまでもなくイエス・キリストが生まれた日です。彼の唱えた最も重要な教えとは何か。いろいろな意見があるかとは思いますが、富の私有・貧富の差を否定したことにあると私は考えます。彼の"行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる""金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい"という言葉が、それを如実に物語っています。[マルコ伝(10章17-31節)・マタイ伝(19章16-30節)・ルカ伝(18章18-30節)] そうそうわが敬愛するカート・ヴォネガットが『追憶のハルマゲドン』(早川書房)の中で、面白いことを書いていました。

 もし、いまの時代にイエスが生きていたら、われわれはおそらく致死注射で彼を殺したでしょう。それが進歩というものです。われわれがイエスを殺す必要にせまられるのは、はじめてイエスが殺されたときとおなじ理由。彼の思想がリベラルすぎるからです。(p.36)

 またこの思想を受け継いだ聖フランチェスコ(1181/82~1226)は、教皇イノケンティウス3世の「一切の所有を認めないというのは厳しすぎないか?」という問いに、「もし所有を認めれば、それを守る腕力が必要となりましょう」と答えたというエピソードがあります。環境破壊・戦争とテロ・経済格差・人間の疎外というアポリアを解決する鍵は、このイエスや聖フランチェスコやの言葉にあるのではないでしょうか。そしてこの大義は、人類が、どこでも、いつの世でも、掲げ受け継いできた炬火だと信じます。中国では孔子が("寡を患へずして均しからざるを患ふ。貧を患へずして安からざるを患ふ")、イタリアではダンテが("あゝ慾よ、汝は人間を深く汝の下に沈め、ひとりだに汝の波より目を擡ぐるをえざるにいたらしむ")、ロシアではドストエフスキーが("わが国の民衆のもっとも高い、そしてもっとも鮮明な特徴―それは公正の感情とその渇望である。その人間に価値があろうとなかろうと、どこででも、なにがなんでも、かきわけてまえへ出ようとする雄鶏の悪い癖―そういうものは民衆にはない")、そしてインドではガンディーが("すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、誰もの貪欲を満たすに足るものは存在しない")説いたように。
 「人間の価値は貧富で決まり、貧しい人間は生きている価値がなく、そうなったのは自業自得で、そうならないために私たちは他者を蹴落とす激甚な競争を勝ち抜かなければならない」というメンタリティとそれが支えるシステムを改変し、native decencyに満ちた世界にしていきたいものですね。

# by sabasaba13 | 2024-12-25 07:46 | 演劇 | Comments(0)

『闇に消されてなるものか』

『闇に消されてなるものか』_c0051620_13221576.jpg 「第18回被爆者の声をうけつぐ映画祭2024」のチラシを手に入れたのですが、気になる映画がありました。監督は永田浩三氏、製作は第10回江古田映画祭実行委員会の『闇に消されてなるものか 写真家樋口健二の世界』という映画です。紹介文を転記します。

 樋口健二さんは、日本人として初めて「核のない未来賞」を受けた報道写真家。1977年、原発の炉心部で働くひとびとの撮影に初めて成功しました。人海戦術なしには原発は動かないことを世に知らしめたのです。取材の原点は「四日市」の公害。その後石炭・石油・原子力というエネルギー転換の現場で苦しむ人々を取材しました。写真家を目指すきっかけは、20代半ば。ロバート・キャパとの出会いです。連れ合いの節子さんを協働者と呼び、若い写真家に熱いまなざしを注ぐ樋口さんの日々を紹介します。

 樋口健二… お恥ずかしい話、はじめて聞くお名前でした。しかし紹介文を読むと、四日市や原発など、国家や企業の犠牲にされた人々の写真を撮り続けた報道写真家であることを知りました。これは興味があります、ぜひ観てみたい。会場は東京都練馬区江古田にある武蔵大学なので自転車で行けるし、よろしい、山ノ神を誘って観にいきましょう。
 なお監督の永田浩三氏のプロフィールも紹介します。

 武蔵大学社会学部教授。ジャーナリスト。プロデューサーとして、「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」「ETV2001」等を制作。ギャラクシー賞・農業ジャーナリスト賞などを多数受賞。映画『命かじり』『闇に消されてなるものか』『60万回のトライ』のプロデューサー。

 映画は、永田氏とスタッフが、国分寺にある樋口氏のお宅を訪問するところから始まります。そして自ら撮影した写真をかざしながら、これまでの人生や仕事を熱く語る樋口氏を、カメラは記録していきます。並行して、野村瑞枝氏のナレーションによる補足や時代背景などの説明がなされます。
 故郷である長野県富士見町で掃苔をする樋口氏。貧しい農家の出身で、赤痢で母を失い、農地を手放して父と上京。日本鋼管の工員として住み込みで働きますが、隣室の工員が重篤な喘息で夜も眠れません。ある日、真っ黒い痰を吐きこのままでは死んでしまいと退職。そんな時に出会ったのがロバート・キャパとの出会いの写真でした。スペイン内戦やノルマンディー上陸作戦を写したダイナミックな写真、そしてドイツ兵の子を出産して周囲の怒りと憎しみを買い、丸坊主にされて晒し者にされるフランス人女性の写真に衝撃を受けて写真家をめざします。
 そして四日市ぜんそくで自殺に追い込まれた人のことを知り、この公害を撮影のテーマとすることを決意。ある患者の提案で、入院患者の隣のベッドが空きベッドに寝泊まりして撮影をおこなう樋口氏。患者の苦痛と苦悩、そして遺影を持つ家族たち。「ひょっとしたら日本でもっともたくさんの遺影を撮影した人かもしれません」とのナレーションで、樋口氏の立ち位置が伝わってきます。国家や企業に殺された側に立ち、その事実を写真で人びとに伝える。ある時、土地の青年から「おまえらのおかげで、俺らが結婚もできねえんだ。いい迷惑だ、余計なことしないでくれ」と罵倒されますが樋口氏は「被害者が大きな声をださないと、あんた方が勝てるなんてあり得ないんだぞ」と逆に迫ります。被害者の声を社会に届ける、それこそがジャーナリストの責務だということですね。
 そうした中、戦時中に毒ガスを製造していた大久野島の取材に行き、いまでも後遺症に苦しむ労働者たちの存在を知ります。そこで被害者の治療に当たっている医師の行武正刀氏から「樋口さん、この問題をやってくれませんか?」と頼まれます。四日市での撮影が途中であるために逡巡しますが、患者の治療に尽力する行武の依頼は断れずに応諾。二つの撮影を同時にこなしていきます。
 国家や企業の犠牲にされた人々を撮影して世に知らしめることを生涯のテーマとした樋口氏は、次のテーマとして原子力発電所を選びます。自ら炉心に入りそこで働く労働者を世界で初めて撮影することに成功し、その過酷な労働、そして下請け・孫請け・曾孫請け・口入れで集めた労働者に犠牲を強いる「原発の差別構造」を暴きます。また、はじめて原発労働者の被害に対する損害賠償の裁判に起こした岩佐嘉寿幸氏の姿も記録していきます。大阪大学医学部が作成した診断書を証拠として提出したにもかかわらず敗訴。「いつか岩佐さんの仇をとる」と誓う樋口氏に、国家や大企業から理不尽な仕打ちを受けた人々と共に闘い、その姿を写真にして社会に伝えるのだという強い信念を感じます。なお被曝した原発労働者が起こした裁判では、一件の勝訴もないという衝撃の事実も知りました。
 そして1999年、東海村でJOC臨界事故が起こるとすぐに駆けつけて、住民の不安や恐怖、そして被曝した住民の姿を撮影。その際に自らも被曝をして白血球の減少をまねいてしまいます。2011年に東日本大震災と福島第一原発事故が起きると、ドクター・ストップを振り切って現地へ、原発事故の撮影に取り組みます。2001年には「核のない未来賞」を受賞、アイルランド・カーンソー岬で行われた授賞式に長年、彼を支えてきた妻の節子氏と共に出席します。
 しかしその節子氏は重い腎臓病を患ってしまいます。貧しい時も一つのチキン・ラーメンを分け合い、「お金になる仕事に追われては(あなたの)魅力が無くなっちゃう。やりたいことをやっているときがいちばん生き生きとしている。だからやりたいことに専念したらどう?」と励ました節子氏。彼女のことを氏は「協働者」と呼びます。亡くなった際の死に顔を、心をこめて写した写真が深く心に残りました。
 最後に、写真学校の教え子や若い学生に、ジャーナリストの責務について語る樋口氏。その印象的な言葉をぜひ紹介します。

 ジャーナリズムは、ただひたすら事実報告するだけで、本質は見えてきませんから疑ってかかるように。ジャーナリストにとって一番重要なことは、ジャーナリストの前に人間でなければいけないということ。差別は絶対にしてはならない。むしろ差別される側に自分を置いてみないと、真実は見えてきません。

 国家や大企業と闘う、理不尽さを問うこと、表現の自由とはそういうことだと思う。背中を向けたらおじゃんなんだよね。動物と同じ。人間も。小さいけど集団でうわぁーとライオンに向かっていったら、ライオンが逃げてった映像があったよね。動物見て下さい、野生動物。背中を見せない。毅然としている。堂々と真実を追究していったら、自分を信じるしか無いじゃないですか。誰が何と言おうと。そういう意気をもっていれば、正しいジャーナリストになれるね。

 うーん、以前に聞いた小倉寛太郎氏の言葉と共振します。

 アフリカのサバンナにはバッファローとヌーという動物がいる。バッファローは、ライオンに襲われると必ず群れで立ち向かう。数頭でライオンに体当たりをし、数頭が傷ついた仲間の傷をなめる。一方、ヌーはチーターに襲われると、バラバラに逃げまどう。チーターの弱点は足なので、数頭のヌーで立ち向かえば被害は減らせるはずなのに、それをしない。そして、仲間の一頭がチーターに食いちぎられているその前で、「ああ今日は俺の番じゃなくてよかった」とばかりに平然と草をムシャムシャ食べている。言い古されたことだが、団結しかない。労働者はバッファローになるしかない。そして個人個人が自分の弱さを克服しようと努力すること。

 勇気づけられる、力をもらえる素晴らしい映画でした。労働者に犠牲を強いる国家と大企業。それに対して声をあげ、毅然とし、連帯して立ち向かうことの重要性を痛感しました。なかなか観る機会はない映画かと思いますが、もし上映されたらぜひ観ていただきたい逞しい映画です。
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 映画の終了後、永田浩三氏のトークがありました。樋口健二は現在85歳。ほんとうはこの場に来てくださるはずだったのですが、直前に動脈瘤が破裂して現在入院中とのことです。ご回復を心からお祈りいたします。
 そしてこの映画をつくるきっかについて。韓国の安世鴻氏が従軍慰安婦の写真展をニコン・ギャラリーで開催しようとした際に、在特会からの電話やネットによる攻撃でニコンの腰が砕けて中止にしてしまいました。東京地裁の裁定で開かれることになりましたが、会話の禁止や金属探知機の設置など異様な雰囲気だったそうです。これではあまりに酷いと、永田氏らが中心となって武蔵大学の前にあるギャラリー「古藤(ふるとう)」で写真展を開催しました。(知らなかった! 観たかった!) その時に来店して、安世鴻氏を激励したのが樋口健二氏だったそうです。永田氏らはこれをきっかけに、ぜひ樋口氏を取り上げたドキュメンタリー映画をつくろうと決意したそうです。"徳は孤ならず 必ず鄰り有り"ですね。そして“闘うギャラリー”をこれからも応援します。

 なお女優の斉藤とも子氏も来場されており、最後に簡単なスピーチをしてくれました。

# by sabasaba13 | 2024-12-24 08:04 | 映画 | Comments(0)