3・11から14年

 東日本大震災と福島第一原発事故から14年。復興庁によると、全国の避難者は27,615人、事故収束の道筋は見えていません。(『しんぶん赤旗』 25.3.11) 多くの人びとから、故郷を、生業を、命を奪った未曾有の大事故。その責任は誰にあるのか? ま、当然、東京電力と国にあると思いますが、司法はそれを認めません。『東京新聞』(25.3.6)の記事です。

国も無罪、東京電力幹部も無罪「じゃあ誰が原発事故の責任をとるの?」 自宅には除染廃棄物…被害者の嘆き

 誰も責任を取らずに終わるのか―。未曽有の被害をもたらした東京電力福島第1原発事故を巡る刑事裁判は、旧経営陣の無罪が確定することになった。強制起訴を実現させた市民は最高裁の判断に落胆し、今も避難を続ける被災者らは憤りをあらわにした。(井上真典、片山夏子)
 「最高裁の正義にいちるの望みをかけてきたのに残念」。6日、旧経営陣を告訴・告発した「福島原発告訴団」の武藤類子団長(71)=福島県三春町=は、最高裁の上告棄却決定を受けた記者会見で、悔しさをにじませた。
 刑事告訴するための準備を含めて13年間を費やしてきた。「夢中で走ってきた。振り返る間もなかった」と話す。事故から14年が迫る中での決定に「目前での判断は、被害者の気持ちを踏みにじる。冷酷さを感じる」と涙を拭った。
 検察官役の指定弁護士を務めた石田省三郎弁護士は「国の機関である地震本部の見解を軽視し、原子力行政におもねった不当な判断。検察審査会が示した民意を生かせず、残念でならない」と肩を落とした。
 「無罪って。じゃ、誰が責任を負うの」と声を震わせたのは根本常子さん(85)=同県いわき市。福島第1原発から1.5キロにある同県大熊町の自宅は、300年以上続く旧家だが、いまは除染廃棄物の中間貯蔵施設の敷地となっている。「原発は安全だと説明されてきた。なのに国も無罪、東電幹部も無罪。ふるさとを追われ、家を失った私らみたいな被災者は、どこに憤りをぶつけたらいいのか」
 原発30キロ圏内で事故後も同県広野町で唯一診療を続けた高野病院の高野己保前理事長(57)は、ニュースを見て「結局、誰も事故の責任を取らずに終わるのか。事故後の自分たちの苦闘は何だったのか」とつぶやいた。長らく常勤医1人で病院を支えた父英男さん=享年81歳=は、過労の末、亡くなった。
 最高裁は、避難者の集団訴訟では国に賠償責任はないとの判決を下した。「国策で進めたのに、責任を取らない国って何なんだろう」と無力感にかられた。そして今回、原発事故を起こした当事者の東電旧経営陣も無罪。「国でも企業でも、責任を取れば後世に原発事故を伝えるときにその教訓は残る。でも、誰も責任を取らない。この原発事故は何だったのか」

 はい、東京電力の旧経営陣に責任はないそうです。それでは国の責任は? すでに判決が出ています。『東京電力の変節』(後藤秀典 旬報社)から引用します。

 全国で行われている原発事故被害国賠訴訟のうち「『生業を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟」(生業訴訟)、「福島原発被害群馬訴訟」(群馬訴訟)、「福島第一原発事故被害者集団訴訟」(千葉訴訟)、「福島原発事故損害賠償愛媛訴訟」(愛媛訴訟)の四訴訟が先行していた。
 2022年3月、いずれの訴訟も最高裁が東京電力の上告を不受理にしたことにより、東京電力の敗訴、損害賠償の支払いが確定した。
 一方、国の責任と損害賠償については、四つの訴訟をまとめて、2022年6月17日、最高裁第二小法廷で、判決が言い渡されたのである。

 仮に、経済産業大臣が、本件長期評価を前提に、…規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に浸入し、本件非常用電源設備が浸水によりその機能を失うなどして本件各原子炉施設が電源喪失の事態に陥り、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にあるといわざるを得ない。…
 したがって、…被上告人らに対し、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を負うということはできない。

 端的に言えば、「想定を超える規模の津波が来たので、たとえ国が、事故前の予測に基づいて東京電力に対策を取らせていたとしても、事故の発生を防ぐことがきなかった可能性が高い。だから国に責任はない」ということだ。(p.112~3)

 はい、国にも東京電力にも責任はないそうです。国策の過誤によって私たちが甚大な被害を受けても、国に責任はない、"受忍"しろということなのでしょう。やれやれ。よって以後、再び大規模な原発事故が起きても、激烈な自然災害が起きても、戦争の勃発によって多大な犠牲が出ても、国は責任を取らないでしょう。やれやれ。でも国は悪くありません。悪いのは…

# by sabasaba13 | 2025-03-11 08:27 | 鶏肋 | Comments(0)

琵琶湖湖疏水船編(15): 琵琶湖湖疏水船(18.11)

 そして第二トンネルへ。ここは最も短い全長124mのトンネルです。東口洞門の扁額は、井上馨揮毫による「仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」で、「仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶ」という意味だそうです。老婆心part2ながら、ホームページの琵琶湖疏水運航ルート解説に、井上は初代内務大臣とありますが、彼は初代外務大臣です。
 西口洞門の扁額は、西郷従道揮毫による「随山到水源(やまにしたがいて、すいげんにいたる)」で、「山に沿って行くと水源にたどりつく」という意味だそうです。
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 第三トンネルの手前にある第11号橋は、日本最初の鉄筋コンクリートで、1903(明治36)年に技師の田邉朔郎がつくったものです。
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 最後となるのが全長850mの第三トンネル。東口洞門の扁額は、松方正義揮毫の「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」で、「時雨が過ぎると、いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」という意味だそうでし。西口洞門の扁額は、三条実美揮毫の「美哉山河(うるわしきかなさんが)」で、「なんと美しい山河であろう」という意味だそうです。
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 第三トンネルを抜けると蹴上乗下船場に着眼、これでクルーズはお仕舞。ああ楽しかった。今度は桜が咲く頃に乗ってみたいですね。
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 なお2024年の春からは琵琶湖・大津港まで航路が延伸され、大津閘門を通過することができるそうです。運河に水位差がある時に、二対の閘門で閉じられる閘室に水を出し入れして舟を上下させる仕組みで、言うなれば「水のエレベーター」。われわれは以前に、オランダのマーストリヒト付近の運河で体験したことがありますが、おおはしゃぎするほど楽しいものでした。老婆心patr3ながら申し添えると、富山にある富岩運河の中島閘門でも体験できます。

# by sabasaba13 | 2025-03-10 09:04 | 京都 | Comments(0)

琵琶湖湖疏水船編(14): 琵琶湖湖疏水船(18.11)

 その先では、天井から水が滴り落ちていました。ガイドさん曰く、華厳の滝(栃木)・那智の滝(和歌山)・袋田の滝(茨城)と合わせて日本四大瀑布と言われるそうです。ツルッ
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 そして第一トンネルを抜けて、船は陽光の中へ。このコントラストが良いですね。
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 なお写真に撮れませんでしたが、西口洞門扁額は、山県有朋揮毫による「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」で、「疏水をたたえる大地は、奥深くひろびろとしている」という意味だそうです。老婆心ながら、ホームページの琵琶湖疏水運航ルート解説に、山県は初代外務大臣とありますが、彼は初代内務大臣です。
 すこし進むと、阪神淡路大震災の経験から、大地震による堤防決壊時に水流を自動停止する緊急遮断ゲートがあります。設置は1999(平成11)年だそうです。
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 その先の藤尾橋は疏水工事で最初にできた橋で、赤レンガと石造りの土台は当時のまま今も現役です。
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 二つ目のトンネルは、JR湖西線工事で 1970(昭和45)年に新設された諸羽トンネル(520m)です。再び闇の世界へ。
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 そして再び光の世界へ。すぐ見えてくる橋は安朱橋で、毘沙門堂の参道となります。なおこのあたりは、春に桜と菜の花の見事な競演が楽しめるところです。
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 夕陽を浴びながら船はさらに進みます。疏水に斜めにかかる朱塗りの橋は、日蓮ゆかりの本圀寺に向かう正嫡橋。本圀寺は元々は「本国寺」と書きましたが、徳川光圀(みつくに)の帰依を得て現寺号になったそうです。
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 このあたりの左手が天智天皇陵だとガイドさんが教えてくれました。「藤原かたまりと大化の改新をした方ですね」 ツルッ あまり滑ってばかりでは可哀そうなので「鎌足でしょ」と突っ込んであげました。

# by sabasaba13 | 2025-03-09 09:21 | 京都 | Comments(0)

琵琶湖湖疏水船編(13): 琵琶湖湖疏水船(18.11)

 おっと、その前に琵琶湖疏水についての解説が蹴上にあったので転記しておきます。

いのちの水 琵琶湖疏水

 明治14年(1881)に就任した京都府三代目知事・北垣国道は、明治2年(1869)の東京遷都で急激に衰退した京都経済の復興策として、琵琶湖から京都に水を引き、水車動力、舟運、かんがい、精米水車、防火、井泉、衛生を目的とした念願の疏水工事を計画しました。およそ4年にわたる政府、水源滋賀県、下流大阪府等関係先との折衝を経て、田邉朔郎技師、嶋田道生測量師ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民とともに京都発展を考えて、不退転の決意のもとで、明治18年8月(1885)に着工しました。
 工事区間の中でも、当時の土木技術では、極めて困難とさえ言われた大津山科間の第1トンネル(延長2,436m)の工事は、硬岩と湧水との闘いの中での大変な難工事となりました。
 疏水工事は明治初期の土木工事の最先端をいくものばかりで、沿線の人々は驚異の目で工事を見守りました。着工してから4年8ヶ月後の明治23年(1890)4月、就労者数400万人、125有余円という莫大な費用をかけて大津の琵琶湖疏水取水地点から鴨川落合まで11.1kmの疏水が完成しました。
 この工事途中の明治21年(1888)、田邉技師、高木文平調査委員がアメリカコロラド州アスペンの銀鉱山の水力発電を視察した結果、水力利用計画を発電に変更し、事業用としては我が国初の水力発電所を蹴上に建設することにしました。この水力発電により世界最長のインクラインの動力源が確保され、街には電灯が灯り、市電が走るなど、京都の産業の近代化が進みました。この疏水は京都市民と産業人に希望と勇気を与え、京都の近代化を根底的に支えた歴史的大事業として、今日の京都の中に脈々と活き続ける、まさに百年の大計であり、京都の街を救った「いのちの水」と言えます。
 その後、明治27年(1894)9月には伏見区堀詰町までの延長約20kmが開通し、北陸、近江から大阪に至る物資と旅客の舟運ルートが完成しました。やがて、明治45年(1912)には京都三大事業と称された「第2疏水」「蹴上浄水場による給水」「道路拡築と市電軌道敷設」が完成し、今日の京都の都市基盤がほぼできあがりました。

 なおラッキーなことに、船の先頭に座ることができました。さあ出航。まずは第一トンネル(2436m)へと入りますが、東口洞門の扁額(へんがく)に記されている言葉は伊藤博文の揮毫による「気象萬千」。「様々に変化する風光はすばらしい」という意味だそうです。
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 そしてトンネルに突入、暗闇の中をライトをつけた船が進んでいきます。


 途中で船は止まり、ガイドさんが懐中電灯で、疏水工事を計画した京都府知事・北垣国道の扁額を照らしてくれました。その言葉は「寶祚無窮(ほうそむきゅう)」で、「皇位は永遠である」という意味だそうです。
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# by sabasaba13 | 2025-03-08 07:59 | 京都 | Comments(0)

琵琶湖疏水船編(12):天授庵・永観堂(18.11)

 そして南禅寺の塔頭、天授庵へ行って紅葉狩り。
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 風が出てきたのか、はらはらと舞い散るも紅葉がきれいでした。


 まだ時間があるので永観堂へ行きましょう。途中にある馴染の喫茶店「サンタムール」で珈琲と卵サンドをいただき、永観堂へ。
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 さすがは紅葉の名所、多くの観光客でごった返していました。そろそろ集合時刻ですので駆け足で紅葉狩り。
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 そして急いて集合場所、南禅寺のトイレ前へ。少し遅刻してしまいました、添乗員さん、ごめんなさい。バスに乗り込んで三井寺に到着、ここで下車して乗下船場まで徒歩で移動。こちらにあるホールで紹介VTRを視聴し、ガイドさんによるレクチャーを受けます。なおガイドさんのお名前は、吉川と書いてトム・クルーズと読むそうです。ツルッ、滑りましたよ。そして救命具をつけベンチコートを着て、さあ琵琶湖疏水船に乗船です。
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# by sabasaba13 | 2025-03-07 08:28 | 京都 | Comments(0)