『勝ちゃん』

『勝ちゃん』_c0051620_10082303.jpg 辺野古新基地の建設を強行する政府、それを後押しする司法。沖縄に過重な基地負担を押し付け、さらに他国による攻撃に晒させようとする、許し難い所行です。できる限り沖縄に関することを知り、連帯していきたいと常日ごろ考えています。よって沖縄を取り上げた映画もできうる限り観るようにしておりますが、『勝ちゃん -沖縄の戦後』がポレポレ東中野で上映されていることを知りました。監督は藤本幸久氏と影山あさ子氏、『琉球弧を戦場にするな』の監督もされていましたね。先日、山ノ神とともに観てきました。チラシに掲載されていた紹介文を転記します。

 沖縄本島北部の事を「やんばる」と呼びます。勝ちゃん(山城善勝さん)は、やんばるの漁師です。『一人追込み漁』を編み出し、数百キロのグルクン(タカサゴ)の群れをたった一人で捕る世界でただ一人の人です。
 勝ちゃんの漁をささえるのは、多様性豊かな、やんばるの海です。光が差し込む浅い海域には、サンゴ礁に守られて、青や黄色のたくさんの小さな魚たちが泳ぎ、イソギンチャクの茂みにはカクレクマノミもいます。少し大きな赤や黄色の魚たちは、群れになって漂うように泳いでいます。岬近くの岩にはたくさんのイセエビが、一匹に一つずつ巣穴を構え、海底には子供の頭ほどもある夜光貝がゴロ、ゴロと鎮座しています。
 勝ちゃんは、1944年10月4日生まれ。生まれて6日後が、沖縄戦の最初の大規模空襲、10・10空襲でした。県民の4人に一人が亡くなった沖縄戦をゼロ歳で生き延びました。
 沖縄戦を生き延びた人たちのことを沖縄では「艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽうぬくぇーぬくさー)」と言います。「艦砲射撃の喰い残し」と言う意味です。勝ちゃんもその一人です。逃げ込んだガマで日本兵に『子供を黙らせろ(殺せ)』と言われた勝ちゃんの両親は、勝ちゃんを抱いてガマを出て米軍の捕虜となり、生き延びました。
戦後、焼け野原となった沖縄で、人々は自らの力で生き延びるしかありませんでした。土地も畑も、米軍基地にとられていました。食べるものは海の物しかありません。漁師、勝ちゃんの原点です。米兵相手のタクシー運転手、米軍基地の物資を盗み出す「戦果アギヤー」などをしながら生きてきました。
 米軍の占領下の沖縄では、6歳の少女が米兵に殺された由美子ちゃん事件(1955年)、宮森小学校米軍機墜落事故(1956年)、コザ暴動(1970年)、辺野古新基地建設(2004年~)など、さまざまな事件、事故が起きます。それらは全て、勝ちゃん自身の体験でもありました。
 作品は、勝ちゃんの人生と重ね合わせて、戦後の沖縄を描きます。
 どんな時代も勝ちゃんの人生を支えてきたのは、海でした。優れた漁師の豊かな海の世界、「海」そのものもまた、この作品の主人公と言えるでしょう。

 映画は、勝ちゃんの語りが中心となって進行していきます。まず勝ちゃんという人間の魅力に引き込まれます。日焼けした小麦色の肌、引き締まった身体、屈託のない笑顔。野球帽にGジャンにジーンズにイヤリングという小粋なファッションも決まっています。
 そして戦後沖縄で、米軍が関連したさまざまな事件や事故について淡々と語る勝ちゃん。由美子ちゃんは、勝ちゃんの弟といっしょにいた時に連れ去られたそうです。小学校米軍機墜落事故では、当時中学生だった勝ちゃんのいた校舎に米軍機が接近し、そのコクピットもよく見えたそうです。また当時宮森小学校の教員だった方も登場し、木炭のごとくに黒焦げになった子供を見た親の慟哭を声を詰まらせながら語ります。そう、亡くなった小学生は11人。でも彼ら/彼女らは数字ではありません。一人ひとりに家族がいて友がいてそれぞれの人生があった、生のある一人の人間なのだということを肝に銘じましょう。
 コザで"暴動"が起きていると聞くとすぐに現場に飛んでいき一部始終を見届けた勝ちゃん。それに加わっている者たちの間で、「黒人には手を出すな」という不文律があったと証言してくれました。当時、白人兵による黒人兵への人種差別は凄まじく、沖縄人は自分たちと同じく差別されていた黒人兵に同情と共感を持っていたのですね。
 辺野古新基地建設問題では、仲間の漁師とともに現地に駆けつけ、工事を阻止するために海上にロープを張った勝ちゃんたち。
 しかしその直後、肛門の悪性腫瘍という大患におそわれた勝ちゃん。数カ月入院して幸い快方に向かい、ふたたび海へ出て漁をはじめることができるようになりました。その時の歓喜にあふれた表情や仕草をフィルムは余すところなく収めています。見ているこちらまで頬が緩んできました。そして海中での漁のシーン。多種多様な魚たちの群れ、見事なサンゴ礁、美しい海。その中で、魚たちと会話をするがごとくその通り道に網を張り、大漁に微笑む勝ちゃん。人を生かす海と、人を殺す軍隊。なるほど、この映画のもう一つの主人公は海なのですね。

 そして忘れ難いラスト・シーン。ひとり、三線を爪弾きながら「艦砲の喰えー残さー」を唄う勝ちゃん。五番の歌詞が心に残ります。(作詞・作曲 比嘉恒敏)

 我親喰わたるあの戦我島喰わたるあの艦砲 生まれて変わても忘らりゆみ誰があの様しいいんじゃちゃら 恨でん悔やでん飽きざらん子孫末代遺言さな

 私の親を食べたあの戦争 私の故郷を食べたあの艦砲射撃 生まれ変わっても忘れることができようか? 誰があのようなことをしはじめたのか 恨んでも悔やんでも飽きたりない 子孫末代まで遺言したいねえ

 誰があの戦争を始めたのか。そして今また、誰が戦争を始めようとしているのか。臓腑を抉るような痛みをもって、勝ちゃんとともに、沖縄の人たちとともに、考え詰めていきたいと思います。

 追記です。『週刊金曜日』(№1495 24.11.1)に、藤本幸久監督へのインタビューが掲載されていたので紹介します。たくさんの人がこの映画を観て勝ちゃんの船の修理ができますように。

 勝ちゃんの船のエンジン故障もある。何とか11月から始まる沖縄の上映会で、一人でも多くの人に見てもらって、船の修理資金にしようというのが今の目標です。(p.51)

# by sabasaba13 | 2024-12-07 07:50 | 映画 | Comments(0)

『風がふくとき』

 最近、『サイレント・フォールアウト』や『オッペンハイマー』や『アトミック・カフェ』や『リッチランド』など、アメリカと核兵器の関わりを描いた映画を立て続けに観てきました。しかしまだまだ続きそうです。核兵器による惨禍を描いた『風がふくとき』というアニメーション映画が、傑作の誉高いという話は漠然とですが知っており機会があれば観てみたいものだと思っていましたが、再公開されることになりました。公式サイトからイントロダクションとあらすじを引用します。

 アニメーション映画『風が吹くとき』は、1986年に英国で制作され、翌1987年に日本でも劇場公開された。「スノーマン」や「さむがりやのサンタ」で知られる作家・イラストレーターのレイモンド・ブリッグズが、マンガのようなコマ割りスタイルで描いた同名の原作「風が吹くとき」(あすなろ書房刊)を、自らも長崎に住む親戚を原爆で亡くした日系アメリカ人のジミー・T・ムラカミ(『スノーマン』)が監督。音楽を元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズが手掛け、主題歌「When the Wind Blows」をデヴィッド・ボウイが歌っている。さらに『戦場のメリークリスマス』(1983)で生まれたボウイとの友情から、日本語(吹替)版を大島渚監督が担当。また、主人公の夫婦ジムとヒルダの声を森繁久彌と加藤治子が吹き替えたことでも大きな話題を呼んだ一作だ。

 イギリスの片田舎で暮らすジムとヒルダの平凡な夫婦。二度の世界大戦をくぐり抜け、子供を育てあげ今は老境に差し掛かった二人。ある日ラジオから、新たな世界戦争が起こり核爆弾が落ちてくる、という知らせを聞く。ジムは政府のパンフレットに従ってシェルターを作り始める。先の戦争体験が去来し、二人は他愛のない愚痴を交わしながら備える…。そして、その時はやってきた。爆弾が炸裂し、凄まじい熱と風が吹きすさぶ。すべてが瓦礫と化した中で、生き延びた二人は再び政府の教えにしたがってシェルターでの生活を始めるのだが…。

 相変わらず山ノ神は多忙なので、一人で「アップリンク吉祥寺」に行ってきました。
 まず特筆すべきは、実写映像の挿入、ミニチュア模型の使用、クローズ・アップ、変化に富んだアングルとさまざまな技法を駆使したアニメーションであることです。これらによってリアリティや緊迫感がよく表現されていました。
 ジムとヒルダという仲睦まじい老夫婦というキャラクター設定もいいですね。しかし二人の言動は対照的です。核戦争勃発という政府の発表に対して、その勝利を確信し、ひたすら政府を信頼してその指示に従おうとするジム。戦争は所詮他人事で、日常の生活を大切にするヒルダ。
 政府が作成したパンフレットに愚直に従い何も考えずに簡易なシェルターを作り、窓ガラスに白いペンキを塗るジムの姿には、うすら寒さを覚えました。ドアを二枚取り外して壁に60度に立てかけ、その前にクッションを積み上げる、これだけです。こんなもので放射能の影響を防げるわけがないのに… 驚いたのは、購入したパンフレットによると、イギリス政府は1980年に実際にこの小冊子「PROTECT AND SURVIVE」を出版して国民に配布したとのことです。核兵器の所有と使用を正当化するため、核攻撃には対処が可能であるというプロパガンダなのでしょうか。
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 この小冊子は、あなたの家と家族を可能な限り核攻撃から守る方法を紹介しています。
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次は室内避難
 まだ大きな防御が必要です。特に攻撃後の最初の2昼夜は、放射線の危険が大きく致命的です。そのために室内に核シェルターを作る必要があります。放射線に耐えるよう高密度の厚い素材で裏打ちし、外壁から離れたところに建てる必要があります。

いくつかのアイデアを紹介しましょう。上の階の部屋から取ってきた鎧戸や丈夫な板を内壁に斜めに立てかけます。床に沿って長めの木材を固定し、滑らないようにします。シェルターの斜面に、土や砂の入った袋や箱、本や衣類を置き、滑らないように固定します。開いている2つの端の一部を土や砂の入った箱や重い家具で塞ぎます。

 そしてソ連による原子爆弾の投下。二人の家は倒壊は免れますが、凄まじい爆風によって家の内部は破壊されてしまいます。しかし幸いにもジムとヒルダに怪我はなく、無事でした。水道も電気もガスもとまり、二人は買い置きしてあった食料をキャンピング・ガスで調理し、雨水を溜めて飲料として、とりあえず生き延びます。そうしたなか「お上が助けてくれる」「お上が何とかしてくれる」と、政府に絶大な信頼感を抱くジム。
 そして本当の恐怖はここから始まります。『「黒い雨」訴訟』(小山美砂 集英社新書1122)から引用します。

 原爆が「非人道兵器」であり、その存在を許してはならない理由は、熱線や爆風による殺傷能力だけではない。他の兵器と比べた最大の特徴は、放射線を放出する点にあるだろう。放射線は細胞を傷つけ、壊し、出血や脱毛といった急性障害の他、がんなどの深刻な病を引き起こす。原爆の惨禍を生き延びた人にも、被ばくの影響がいつ、どのようなかたちで表出するかわからない。放射線の人体に対する影響は完全に解明されてはおらず、今も研究と議論が続く中、被害者の心身は蝕まれ続けている。そして、その影響に対する不安は世代を超え、放射線による被害に「終わり」は見えない。(p.24)

 原爆が放出した放射線は、大きく分けて二つある。一つは核爆発から約一分以内に出た「初期放射線」だ。最大2・5キロまで届いたとされ、初期放射線を浴びた人は、「外部被ばく」の影響を受けた。
 もう一つは、「残留放射線」と呼ばれるものだ。放射線は地上に到達し、それを浴びた土壌や建物に含まれる金属を放射化(放射線を放つ物質に変化すること)した。原爆炸裂後、分単位以上の長期に及ぶ放射線被ばくを起こした。なお、残留放射線には原爆の燃料で未分裂のまま飛び散ったウランなどの放射性物質が放出するものも含まれている。こうした放射性物質を体内に取り込んだ場合、「内部被ばく」した。
 原爆炸裂後時は郊外にいたが、その後に爆心地付近を通過・滞在した人(入市被爆者)や救護に従事した人(救護被爆者)にも、発熱や脱毛など直接被爆者と似た症状が現れた。その要因は、爆心地近くに滞留、または被爆者の衣服や髪の毛などに付着していた放射性微粒子(エアロゾルを含む)を吸い込んだり、水や食べ物とともに取り込んだりすることで内部被ばくしたものと考えられている。(p.24~5)

 そして、呼吸などを通して取り込んだ放射性微粒子は、排出されるまで体内にとどまり、内部から細胞や組織を壊し続ける。
日本で原発が積極的に導入された1970年代から反原発を唱えていた原子核物理学者の水戸巌(1986年に53歳で死去)は、当時から内部被ばくの危険性を訴えていた。妻の喜世子さんによると、生涯、次のような言葉をたびたび口にしていた。

 外部被ばくは、機関銃を外から撃たれたようなもので、一過性。だが、内部被ばくは体の中に機関銃を抱えて、内部から絶えず弾丸を打ち出されているようなものだ。(p.27)

 そう、おそらく雨水を飲んだことにより、二人は内部被ばくをしてしまったのでしょう。徐々に放射線が二人の体を蝕んでいきます。発熱、体のだるさ、下痢、歯茎からの出血、脱毛、紫斑… 二人が衰弱していく過程のリアルな描写には、身の毛がよだちました。しかし内部被ばくのことについて何も知らない/知らされていないジムは、「気のせい」「齢のせい」「明日薬局で薬を買ってこよう」と悲しいくらいに楽観的です。そして相変わらず「お上が助けてくれる」「お上が何とかしてくれる」と、政府に全幅の信頼を寄せるジム。もちろん政府は何もしてくれません、何も… ヒルダはひたすら受け身で、苦痛を受忍し続けます。やがて衰弱して動けなくなる二人、悲劇のラスト・シーン。

 核兵器による先制攻撃が現実となりそうな今こそ観るべき映画です。他国・自国の市民を犠牲にして核兵器の保有と使用にこだわる国家権力、それに翻弄される市民。
 そして何よりも放射線による内部被爆の恐ろしさ。あらためて核兵器は「悪魔の兵器」であることを痛感しました。映画では描かれませんでしたがいつ発病するかわからない、そして子孫も発病するかもしれないという不安と恐怖も忘れてはなりません。内部被爆の実相をリアルに描き、伝えてくれる稀有なる映画です。全世界の人びとに、特に各国の政治指導者諸氏に観てほしい。
 もう一つ肝に銘じましょう。この内部被ばくは、核兵器実験や核(原子力)発電所の稼働・事故によっても起こり得ることです。誰かが、核兵器は暴走した原発、原発はコントロールされた核兵器と言っていました。「原発は自国に向けられた核兵器」と言われた方もいます。人間の手ではコントロールできない核、私は手を切るべきだと思います。

 No Nukes !

 放射線に蝕まれながらも互いを労わりあう二人を演じた吹き替えの森?久彌と加藤治子もいい味でした。
 ピンク・フロイドの中心メンバーであるロジャー・ウォーターズがつくったエンディングの曲「風がふくとき」も佳曲。デヴィッド・ボウイの迫力あるシャウトが聴きどころです。なお核戦争の顛末を暗示するような歌詞は「洋楽和訳 Neverending Music」というサイトで知ることができます。ぜひご覧ください。
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# by sabasaba13 | 2024-12-06 08:22 | 映画 | Comments(0)

あの少女の隣で

あの少女の隣で_c0051620_10120837.jpg 時々、練馬区の江古田にある「ギャラリー古藤」に立ち寄って催しもののチラシを物色しています。ある日ある時、手に入れたチラシが一人芝居「あの少女の隣で」。脚本と演出はるくみざわしん氏、出演は川口龍氏。くるみざわ氏と言えば、「精神病院つばき荘」というたいへん面白い芝居を書かれた方ですね。本作も期待していいでしょう。チラシに掲載されていた紹介文を引用します。

ないことにしてしまわぬように-
 敗戦直後の日本につくられた米軍向けの慰安施設RAA。戦時中の日本軍の慰安所でも、戦後の米軍向け慰安施設RAAでも性暴力の犠牲になった女性たち。その女性たちの口を封じ、責任を逃れようとする国と男たちの姿を掘り下げる異色の一人芝居。加害の手口と論理を暴き、光りにさらす-

 うん、これはますます面白そう、さっそく「マートルアーツ」にメールを送って公演の予約をしました。山ノ神は最近とても忙しく、今回も誘いに乗ってくれませんでした。仕方ないですね、独立独歩。
 酷暑の昼下がり、ブロンプトンに乗って江古田にある「ギャラリー古藤」へ。開演二十分前でしたが、すでに狭い館内はほぼ満員で熱気に満ち満ちていました。暑い… 冒頭、くるみざわ氏の簡単な挨拶、そして大きなバッグを背負った正体不明の男(川口龍)が後方のドアから現われて舞台へ、そこには二脚の椅子が並んで置いてあります。そして男はバッグから拳銃、鉄兜、迷彩服、軍靴、水筒と乾パンを取り出して椅子の上に置いていきます。なお500円で販売されていた脚本を購入したので、台詞は正確に再現出来ました。関係者各位のご尽力に感謝します。これはすべての芝居で行なってほしいですね。

 これみんな戦争の道具。で、これで全部、じゃなくて、ひとつ大事なものが抜けている。(客席に問いかける) 女ですよ、女。…兵士といえば圧倒的に男。若く元気。女が欲しい。厳しい訓練、命がけの戦闘から離れたらパーッとうさを晴らしたい。挫けたこころに慰めが欲しい。

 そして男は、近代日本における国家の管理による買春の歴史を、その中心となった人物になりかわり紐解いていきます。まずは近代日本の警察制度の基礎を築いた山路という薩摩出身の官僚です。なお彼は川路利良という実在した官僚をモデルにしています。政府に派遣されてヨーロッパを視察した山路は、兵士への性病蔓延を防ぐための警察による買春管理を日本に導入します。

 なんで警察が買春を管理するのか。まさか厚生労働省ではできんでしょ。国の事業で買春をしていることがばれる。だから、買春したがる女たちがいる、警察がそれを取り締まっているふうを装い、性病検査を強制し、免許なしに買春している女をとっつかまえる。この一番のご褒美がなんだかわかる。…お金ですよ。買春をしている皆さんから税金をとるようなことはしたくないけど、仲間外れはかわいそう。特別に受け取ってあげましょうという憐みを装ってかき集める。で、売春婦から搾り取った金で自由民権運動を弾圧。くっくっく(笑う)。政府にたてつく民権派を、からだを売らないと生きていけない貧乏な女からまきあげた金で叩き潰す。多少の金はお小遣いとしてポケットへ。うまくできてるでしょ。

 やがてこの国家管理買春というシステムとそれを動かす男たちは増殖し、植民地に散らばり、従軍慰安婦制度へと帰結していきます。

 日本は戦争に勝つ。強い軍隊がいる。女がいる。基地のまわりに遊郭が出来る。山路だった私は死んで、次の私が現れる。私は数を増やし、何人もの私が我が国の四方八方に散らばって、日清日露で戦って手に入れた台湾、朝鮮、満州にまで国家管理買春を広げ、そこでほら、お隣の国の少女がイスに座って訴えている従軍慰安婦にたどり着く。思い付きや偶然で従軍慰安婦はできたんじゃない。ナポレオン戦争に始まる長い歴史があって生まれたんだ。

 そして戦争に敗れ、占領軍(アメリカを中心とした連合国軍)がやってきます。政府はアメリカ兵による性暴力から日本人女性を守るために、米兵のための慰安所を設置します。それを運営する組織がRAA(Recreation and Amusement Association)、特殊慰安施設協会で、その責任者が警視庁の課長、高山です。ここで山路は、高山になりかわります。ある目的や利益のために女性を犠牲にするというシステム、「大日本帝国」的なもの、言い換えれば大和魂は生き延びることになりました。

 戦争に負けて占領軍がやってきても大日本帝国は生き延びた。今ものうのうと隣の国の少女を嘘つき呼ばわりしてでかい顔だ。この私が張本人。人を変え、姿を変え、時を超えて、大和魂は死なず、ピンピンしてる。不思議だね。この国で私たちは生き延び、女たちはどこへ行ったのか。

 高山は従軍慰安婦制度の運営に携わり、そのノウハウを生かすためにRAAの責任者に抜擢されたのですね。そのノウハウを彼はこう打ち明けます。

 はいはい、書類は残っておりませんがやり口は私の頭のなかに。簡単です。まず貧乏な女を金で集める。で、女が自分の意志でやっているかのごとく見せかけて、お国は責任を逃れる。で、あなた方の大切な父親、夫、息子を売春婦が誘惑してますよと言いたてて上流階級のご婦人方をたきつける。女をバラバラに分断。ひとつにさせない。コツはこのぐらいで。ええ、いっぺん売春婦になってしまえば借金はある、周りからは白い目で見られる、からだもこころもボロボロ、助けてくれる人はいない、ほかの仕事を身に付ける余裕はない、帰る家はない。そのうち病気で死にますから。戦争には負けましたけど、この勝負には勝つ。がはははは(笑う)。

 この台詞にもあるように、女性を犠牲にするシステムのキーワードは「無責任」です。このシステムを立ち上げ稼働させた男たちが責任を取らずに済むように、周到に運営されています。

 私も今、口に出してみて初めてわかった。一本筋が通った。私たちが生きていく道は、徹底的な無責任だよ、よーし。

 このシステムを支えているのは"権威"です。戦前・戦中では"お国"と"天皇"、そして戦後は"アメリカ"です。

 え、なんでまたって、それはお前、お国のためだよ。

 今まで通りお国のため、天皇陛下のために御奉公ができる。それにアメリカを付け足すだけじゃないか。

 そしてこのシステムは今も機能・稼働しています。その一例として男は、2013年5月13日に大阪市長(当時)・橋下徹による「軍隊に『慰安婦』制度は必要であった、沖縄海兵隊司令官に風俗業を活用してほしい」という発言を引き合いに出します。山路、高山、そして橋下徹という連綿としたつながり…
 最後に高山は女子大学の教授となり、従軍慰安婦やRAAに関する講義を、女子大生を相手に行ないます。

 国家管理買春というのは軍隊のためにある。これだけでいい、覚えて帰って。従軍慰安婦もRAAもそう。今は国家管理に見えないけれど、女性の給料を安くしたり、出世させなかったり、入学試験で差をつけたりして、地位を低く保ち、買春をしないと生きていけない女性を作り続けている。いつまでたってもこの仕組みは変わらない。私が作ったんだよ。あれ、笑う。ホントなんだよ。でも私の手にはもう負えない。どうしたらいいのか。それが言いたいんだ私。どうにもならない。この私にもせめて。この仕組みを作り上げた私がどんな人間かをここでさらして、皆さんに考えてもらいたい。

 いま、あらためて読み返すと、含蓄の深い台詞だと痛感します。このシステムは自然にできたもの、悠久の昔から存在するものではなく、ある時に誰かが作り上げた人工のものなのだ。それは女性を貧しくして犠牲を甘受させるシステムなのだ。そう考えると、これは女性だけが対象ではなく、原発立地帯や軍事基地のある地域、非正規労働者などにも該当します。あえて貧困に追い込むことによって国策の犠牲となることを甘受させるシステム… そして男は、若者に対して、このシステムを誰が作ったのか、このままでよいのかについて考えて欲しいと訴えます。考えて欲しい、と。

 私、こうみえても女子大の先生。でたらめをしゃべっているみたいだけれど、けっこうホントもしゃべってる。どこがホントでどこがウソか調べてね。そして考えて。

 うーん、深い深い、そしていろいろなことを考えさせてくれる芝居でした。脚本・演出のくるみざわしん氏に敬意を表するとともに、このシステムを体現した男を90分にわたって、時には滑稽に、時には卑屈に、時には悩む男を一人で熱演した川口龍氏に拍手をおくります。

 なお劇中、従軍慰安婦やRAAといった言葉が出てくるときに、ポワンという短い電子音が流れました。あれはなんだったのか。帰る際に、出口のところに川口氏が挨拶のためにおられたので尋ねると、「女性たちの声です」とのこと。なるほど。

# by sabasaba13 | 2024-12-05 08:05 | 演劇 | Comments(0)

石橋氏と石破氏

 石破茂首相が、所信表明演説で石橋湛山の演説を引用したそうですね。『西日本新聞』(24.11.30)から転記します。

 約2カ月前の所信表明演説とは様変わりした。「真摯に」「謙虚に」-。石破茂首相は「少数与党」で迎える臨時国会の本格論戦を前に、29日の演説で野党への配慮を全開にした。戦後首相を務めた石橋湛山の演説を引用し、与野党で合意形成を図らざるを得ない現状を「民主主義のあるべき姿」と肯定。就任60日を迎えたが、政策面で打ち出せる成果は乏しく「石破カラー」は引き続き控えめとなった。
 冒頭、石橋の言葉から始めた首相は「力を合わせるべきことについては相互に協力を惜しまず、世界の進運に伍(ご)していくようにしなければならない」。
 首相が生まれた1957年2月4日に行われた石橋内閣の施政方針演説を読み上げ強調した。「他党にも丁寧に意見を聞き、可能な限り幅広い合意形成を図る」

 石破政権はこれまでのところ、歴代の自民党政権と大差はないようですが、「スフィア基準」に言及した点と、湛山の演説を引用した点については評価します。
 石橋湛山…日本近現代史において、私が尊敬する政治家・ジャーナリストの一人です。批判や異論を大切にし、合理性を尊重し、不撓不屈の精神を持つ稀有なる人物。現在の政治家やジャーナリストの鑑に値する方です。
 石破首相も彼を尊敬しているとのことですが、できればこの言葉を引用してほしかったなあ。『戦後史の正体 1945‐2012』(孫崎享 創元社)から転記します。

 ではそうした国際政治の現実のなかで、日本はどう生きていけばよいのか。
 本書で紹介した石橋湛山の言葉に大きなヒントがあります。終戦直後、ふくれあがるGHQの駐留経費を削減しようとした石橋大蔵大臣は、すぐに公職追放されてしまいます。そのとき彼はこういっているのです。
 「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」
 そうです。先にのべたとおり、米国は本気になればいつでも日本の政権をつぶすことができます。しかしその次に成立するのも、基本的には日本の民意を反映した政権です。ですからその次の政権と首相が、そこであきらめたり、おじけづいたり、みずからの権力欲や功名心を優先させたりせず、またがんばればいいのです。自分を選んでくれた国民のために。
 それを現実に実行したのが、カナダの首相たちでした。まずカナダのピアソン首相が米国内で北爆反対の演説をして、翌日ジョンソン大統領に文字どおりつるしあげられました。カナダは自国の10倍以上の国力をもつ米国と隣りあっており、米国からつねに強い圧力をかけられています。しかしカナダはピアソンの退任後も、歴代の首相たちが「米国に対し毅然と物をいう伝統」をもちつづけ、2003年には「国連安全保障理事会の承認がない」というまったくの正論によって、イラク戦争への参加を拒否しました。国民も七割がその決断を支持しました。
 いま、カナダ外務省の建物はピアソン・ビルとよばれています。カナダ最大の国際空港も、トロント・ピアソン国際空港と名づけられています。カナダ人は、ピアソンがジョンソン大統領につるしあげられた事実を知らずに、外務省をピアソン・ビルとよんだり、自国で最大の飛行場をピアソン空港と呼んでいるわけではありません。そこには、
 「米国と対峙していくことはきびしいことだ。しかし、それでもわれわれは毅然として生きていこう。ときには不幸な目にあうかもしれない。でもそれをみんなで乗りこえていこう」
 という強いメッセージがこめられているのです。(p.171~2)

 こちらの言葉でも結構です。『従属の代償 日米軍事一体化の真実』(布施祐仁 講談社現代新書2754)から転記します。

 岸信介首相が1960年1月に署名した新日米安全保障条約の批准をめぐって国会が大紛糾していた頃、湛山はマスコミの取材に応えて次のように語っています。
 「米ソにはさまった日本のような国では平和と安全を守るためには東西間の緊張増大をできるだけ避けるようにする以外生きる道がないのに東西の関係は悪化し、日本は一方の陣営にばかり深入りしていく。もちろん世界のなかで日本にもっとも好意的なのは米国であり、対米協調は必要だが、一番大切なのは日本自体の安全と平和であり、対米一辺倒は危険だ」 (朝日新聞、1960年5月20日夕刊) (p.238~44)

 アメリカとは協調的な関係を保ちながらも、言うべきことについては毅然と言う。石破首相には、この湛山の姿勢を学んでほしいと思います。「中国との緊張を煽るのはやめてほしい」「在日米軍が日本の法律に従うよう、日米地位協定を改定すべきだ」「もうアメリカ製兵器の爆買いはしない」、石橋湛山が首相だったら必ずやこう主張するのではないでしょうか。

 あまり期待はしないで、その行動を見張っていきましょう。もしこれらを実現すれば、成田・石破国際空港に改名してもいいですよ。

# by sabasaba13 | 2024-12-04 08:09 | 鶏肋 | Comments(0)

伊勢志摩編(15):名古屋(18.9)

 四日市駅に行く途中で、珍しい意匠の透かしブロックを発見。
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 自転車を返却して、近鉄四日市駅から特急に乗り30分ほどで名古屋に到着。名古屋ときたら、あーた、あれしかないでしょあれしか。いやいやいや、エビフリャーでも味噌カツでもひつまぶしでもなく、「コンパル」のエビフライサンドです。名古屋駅の地下街にある「コンパル」に入店し、アイスコーヒーとエビフライサンドを注文。・ 一瞬、目が点になりました。テーブルの上に鎮座されているのは灰皿… 禁煙でも分煙でもなく、威風堂々と煙草が吸えるんだ。ワシントン条約で保護されていない希少生物として嬉しい限りです。紫煙をくゆらして旅の疲れを癒しました。そしてエビフライサンドがご来臨。海老のうま味とクリスピーなころもとタルタルソース、味のトリコロールを堪能しました。山ノ神と自分のためのお土産としてエビフライサンドを二つ購入しました。
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 それでは教会建築を三つ見て帰郷することにしましょう。名古屋駅からタクシーに乗って日本福音ルーテル復活教会へ。スレート葺きの三角屋根と瀟洒な尖塔が愛らしい教会です。
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 そしてカトリック主税町教会と信者会館へ。屋根の形がユニークな教会です。信者会館は下見板張りの白亜の洋館。
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 ふたたびタクシーで地下鉄市役所前駅まで連れていってもらいました。すぐ目の前に恰幅のよい煉瓦造りの建物がありましたが、元々は名古屋地方裁判所で現在は名古屋市市政資料館として公開されています。何気なく写真を撮ったのですが、実は人気沸騰のNHK朝の連続ドラマ「虎に翼」のロケ地になっています。さらに主人公のモデルとなった三淵嘉子さんが赴任して仕事をしていた所だというオマケつき。再訪を期しましょう。
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 地下鉄を乗り継いで新栄町駅へ。少し歩いたところにある名古屋カテドラル聖ペトロ聖パウロ大聖堂を撮影。天に伸びるようなゴシック様式の教会です。
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 ふたたび地下鉄に乗って栄駅で下車し、テレビ塔を撮影。
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 そして三越(オリエンタルビル)の屋上にある現存最古級の観覧車を見物しようとしたのですが工事中のため入れませんでした。無念。地上からかろうじてその片鱗が見えたので諒としましょう。
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そして名古屋駅へ戻り、新幹線で帰郷。東京駅で顔はめ看板を撮影して帰宅の途につきました。
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# by sabasaba13 | 2024-12-03 08:16 | 中部 | Comments(0)