阪神淡路大震災30年

 1995年1月17日火曜日の早朝、ニュース映像を見た時の衝撃は鮮烈に覚えています。大きな自然災害を経験したことがない私にとって、日本は災害大国なのだとあらためて思い知るきっかけとなりました。この震災を心に刻もうと、その後、神戸の震災モニュメントや、神戸港震災メモリアルパークや、神戸の慰霊と復興のモニュメントや淡路島の野島断層保存館などを訪れて感想を拙ブログに上梓しました。よろしければご照覧ください。
 そして亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、被災地の復興を心より祈念いたします。

 さて私たちにできること、すべきことは何か。これほど大きな犠牲と被害があったのは何故か、政治・経済・社会のシステムに瑕疵はなかったのかについてしっかりと調査や分析をすることです。そしてそれを教訓としてシステムを改善して対策をたてること。また被災者や被災地に対する復興の支援等は十全であったのか。以上の諸点を東日本大震災(2011)や熊本地震(2016)や能登半島地震(2024)について検証し、対策や改善にフィードバックしていく。この永遠の繰り返しが、災害大国・日本の宿命だと考えます。
 そういう視点で阪神・淡路大震災をふりかえると、政府や自治体の対応や対策はきわめて不十分であると言わざるを得ません。残念なことにこうしたポイントについてきちんと取り上げるメディアはたいへん少ないのですが、『しんぶん赤旗』(25.1.17)が二つの記事でまとめてくれています。ぜひ紹介します。

【きょうの潮流】
 宝物と呼んで大切にしていたワープロ、大学の課題で制作したパラパラ絵本…。展示された遺品からは、突然「生」を絶たれた無念の思いが伝わってきます▼神戸大学が催している「震災犠牲者の追憶」。阪神・淡路大震災の被災大学として記憶を継承していく責務があると。訪れた学生は「多くの先輩が亡くなられた。あの後に生まれた自分たちにとって震災の教訓を学べれば」▼大都市圏のライフラインを引き裂き、あまたのくらしを破壊した震災から30年。神戸の街を歩けば直接の傷痕は見えませんが、被災者が思い描いた街づくりとはかけ離れた現状が横たわっています▼火災で甚大な被害を受けた長田区の復興もその一例です。昨年10月末に44棟目のビルが完成し再開発事業は終結。震災からわずか2カ月後に住民の反対を押し切って市が推し進めてきた計画ですが、立ち並ぶ商業ビルは人影もまばら。かつての商店街の活気もありません▼「被災者のため、住民の生活のため、とはいえない事業がこの状況を招いた」。地域の変ぼうを見つめてきた共産党の森本真神戸市議は県や市、そして国の大型開発優先の姿勢を批判します▼防災や社会のあり方に数々の教訓を残した30年前の震災。その後も列島では大きな災害が続きますが、避難所の環境から住まいや生業の再建まで、それは生かされてきたのか―。遺族からは命の重さを忘れないでほしいと改めて。森本さんは政治の役割を。「大事なことは明日への希望がみえるとりくみです」

【主張】 阪神大震災30年 教訓生かさない政治を変える
 1995年の阪神・淡路大震災は、住宅の損壊約64万棟、災害関連死を含めた犠牲者6434人という、都市部を襲った未曽有の災害でした。
 この30年間、政府は悲痛な教訓を受けとめ生かしてきたのか。政治の最大の課題である、国民の安心と安全に真剣に取り組んできたのか。答えは「ノー」です。
 能登半島地震では、避難所の雑魚寝、冷たい食事、断熱性のない仮設住宅など、30年前と同じ劣悪な状況が繰り返されています。
 阪神大震災では「創造的復興」の名で、震災後の10年余で、直接被害額10兆円を上回る16兆円超の復興事業費が投入されました。その約6割が高速道路、港湾、海を埋め立てた神戸空港建設、都市再開発などにあてられ、震災前からの開発計画が推し進められました。
 一方、生活や生業(なりわい)再建は「自助自立」にされ、住宅などを再建した人も二重ローンに苦しみました。住民が区画整理で追い出され、「陸の孤島」といわれた郊外の仮設住宅や高層の復興公営住宅ではコミュニティーが壊され孤独死や自殺が続きました。商店街にはビルができましたが、住民が戻れず、消費が回復せずにテナントが撤退しています。
 住民無視の「創造的復興」は、その後の震災でも被災者を苦しめています。
 震災前年、日本共産党神戸市議団は市の消防体制の弱さを指摘していました。当時も経済効率優先で病床削減や自治体リストラが行われていました。いま、それがさらにすすみ、自治体のマンパワー不足が能登の復旧を妨げています。
 南海トラフ、首都圏直下型地震の危険性が指摘されるなか、一極集中、超高層ビルの建設ラッシュ、湾岸開発など防災を無視した都市開発がすすんでいます。
 なぜ教訓が生かされないか。自公政権にとって「安全保障」とは米国の世界戦略にどう従うかが中心であり、「国土強靱化」は"投資しても安心なインフラ"の海外へのアピールだからです。こうした政治を変えなければなりません。
 そのなかで特筆されるのは、阪神大震災被災者の粘り強い運動と世論で被災者生活再建支援法を勝ち取ったことです。当時、政府は「私有財産制の国では個人財産は自己責任」と住宅再建支援を拒みました。
 議員立法を求める被災者・市民と力を合わせ、日本共産党の衆参議員らが国会議員有志に働きかけ97年に法案を提出。政府はこれを拒む一方、世論を恐れ98年に支援法を成立させましたが、阪神・淡路には適用されず、わずか百万円の「見舞金」で住宅再建には使えないというものでした。
 2000年の鳥取西部地震で住宅再建に3百万円を支給する片山善博知事(当時)の英断も受け、支援法改正の世論と運動が高揚。政府も個人の住宅再建は地域再建という公共性があると認め、07年、住宅本体の建設・改修を支援対象とする現行法が実現しました。
 住宅は憲法が掲げる生存権の保障に不可欠です。災害列島・日本。金額を引き上げ真に住宅再建可能な制度にする必要があります。政府が責任を果たしきるよう求める運動を各地で大きなうねりにしましょう。

 「スフィア基準」の"ス"の字もない避難所の劣悪さは、能登半島地震に至るまでほとんど変わっていないようです。ようやく石破首相がこの基準に言及するようになり、防災庁設置構想を打ち出していますが予断は許せません。前者については未知数ですし、後者については初期対応の改善だけで生活再建へのサポートがないとの指摘もあります(「新婦人しんぶん」[25.1.18]・岡田知弘氏)。
 住民の意向を無視しての再開発の強行は、ナオミ・クライン氏言うところの「ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)」そのものです。そう、「ショック・ドクトリン」とは、戦争やクーデター、テロ攻撃、市場の暴落あるいは自然災害といった大惨事に襲われた後、人々がショック状態に陥ったことにつけ込んで、大企業に有利な過激な経済改革を強行する手法のことです。明け透けに言えば、被災者の生活再建よりも金儲けが大事だということですね。
 その根幹には、「国益やお金や権力のために住民が犠牲になってもかまわない」という棄民政策があると思います。そして少数与党となった自民党政権がその姿勢を改める気配はありません。よって今後予想される南海トラフ地震でも首都直下型地震でも同じことが繰り返されるでしょう。劣悪な避難所と仮設住宅、被災者を犠牲にしての再開発、生活再建に対する無関心。またにわかに可能性が高まった戦争勃発に際しても、同じような棄民政策がとられることでしょう。
 なぜこんなことが続くのか。結局、自然災害や戦争や公害やコロナ禍といった危機的事態をきちんと検証せず、教訓にもせず、それに対する政治家・官僚の責任を多くの方々が見逃してきたからでしょう。
 アメリカのジャーナリスト・アンカーマン、エドワード・R・マローに「羊の国家は狼の政府を生む」という言葉がありますが、多くの方々がこれからも羊のように唯々諾々と自民党政権を支持すれば、狼は何度でも牙を剥きます。

 みんなで狼になりませんか。

 本日の一枚は、神戸東遊園地内にある「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」です。
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# by sabasaba13 | 2025-01-17 16:23 | 鶏肋 | Comments(0)

歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会 2

歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会 2_c0051620_16103282.jpg 「歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会」、前半の石田正人氏に続いて、後半は『地震と虐殺 1923-2024』(中央公論新社)の著者である安田浩一氏の講演です。まずレジュメの項立ては下記の通りです。

社会を壊す「歴史否定とヘイトスピーチ」を許さない

はじめに~
・坑口を開けろ!-「長生炭鉱」をめぐる市民団体の闘い
・デマが招いたクルド人ヘイト

1、「地震と虐殺」-なぜ殺したのか。殺されたのか。殺させたのか。
・デマにお墨付きを与える政府
・虐殺を招いたのは「地震の混乱」なのか
・虐殺までの道のり
・震災から101年、「なかったこと」にしたい人々

2、歴史否定のうごき
①柳本飛行場跡地(奈良県天理市)の「消された案内板」
・柳本飛行場とは何だったのか
・案内板はなぜ「消された」のか
・市民による新しい案内板設置
②「安重根記念碑」をめぐる宮城県の対応
・なぜ栗原市の「安重根記念碑」があるのか
・ネトウヨによる攻撃
・撤去された案内板
③右往左往する松代大本営案内板
・最初はガムテープ
・そして-「様々な意見がある」と書き換え」
④「朝鮮人労働者追悼碑」を破壊した群馬県の欺瞞
・「強制連行」を政治的発言だと問題視した県
・裁判所に押しかけるレイシスト集団
・市民による抵抗
⑤沖縄と歴史否定
・32軍地下壕の案内板取り消し
・宮古島慰安婦追悼碑への攻撃
・沖縄の慰安婦
⑥朝鮮人労働者を「いなかった」ことにする佐渡金山
・世界遺産をめぐる地元の動き
・「朝鮮人労働者」の文言がどこにもない!

最後に~歴史否定が意味するものは何か
・入管法改悪と朝鮮人差別
・米国マンザナー(カリフォルニア州)で見た「レイシズムの記憶」

 以下、私の文責で講演の内容をまとめてみます。

はじめに~ 坑口を開けろ!-「長生炭鉱」をめぐる市民団体の闘い
 海から突き出す二本のピーヤ(排気口)が印象的な海底炭鉱の長生(ちょうせい)炭鉱。
【筆者注】「ヒロシマ平和メディアセンター」というサイトにピーヤの写真が掲載されています。
 当時の保安法では、安全のために海底から40m以上深いところで石炭を掘らないといけない。しかし長生炭鉱は30m、安全性を無視して安上がりにつくられていた。そして安上がりの労働力である朝鮮人を酷使した。安全性を無視して生産をあげ、コストのために坑夫に死を強いたのである。危険なので炭坑夫は朝鮮人が中心で「朝鮮炭鉱」と呼ばれた。1942年2月3日、天井部分が落盤、浸水。これを「水非常」と言う。183人が犠牲となるが、そのうち朝鮮人・中国人が136人。戦時中、日本のインフラ建設を担わされたのは朝鮮人・中国人であった。戦後、殉難碑がつくられたが、「朝鮮人」「強制連行」の文言はなかった。それでは不十分だと、市民有志が「強制連行」と刻んだ慰霊碑を建立。皆で大喜びし、祝賀会に韓国から遺族を招いた。感謝の言葉を期待していたが、「骨はないのですか」と言われて冷水を浴びたような衝撃を受ける。そして遺骨を回収する決意を固めたのである。採炭は国策事業であり、遺骨の回収は当然国の責務である。しかし国にかけあうが動かない。「骨があるかどうかわからない、見えないものに金は出せない」というのがその理由であった。井上洋子代表は切れ、「自分たちでやる」決意。寄付を募って遺骨回収に取り組むが難行した。重機を使って坑口を探し、なんと昨日(※9月26日)発見できた。骨を見つけて国を動かしたい。
 「なぜ30年間も活動を続けてきたのか」と井上氏に問うと、「責任だから。日本社会に生きている者としての責任があるから」という答え。この国や政府にもっとも欠けているのが「責任」。責任をとろうとする市民は、国の誇り。無責任がデマやヘイトスピーチや歴史の否定を生む。

はじめに~ デマが招いたクルド人ヘイト
 埼玉県川口市におけるクルド人へのヘイトが激化している。社会の体温とも言うべきSNSには下記のような書き込みがある。

 都心から北に遊びに行くときは、かならず刃先ギザギザにしたシークレットナイフ持ち歩いてる。いつでもクルド人や中国人と喧嘩出きるように。

 クルド人は殺処分か強制送還にすべき!! 人権などクルド人にあってたまるか

 もしよければ20人ぐらいでチーム作ってクルド人をボコしに行きませんか?!手を出さずとも、クルド人が怒り狂うまで煽って撮影を続けたり。生命の保証はできません。根性のあるやつだけ来てください。

クルド人は殺していい法律がほしい

川口自警団公式Xを始動させて頂きます。

 芝のヨークマート2階のダイソーではクルド人の子どもが平気で万引きしてるのをよく見かけます。店員に声かけられてもニホンゴワカラナイと言えば済むので今後どんどんエスカレートしていく事でしょう。
 万引きの瞬間は顔を映ってしまうので割愛します。

 一番最後の事例は、幼い少女を盗撮して万引きをでっち上げた悪質なものである。このSNSは600万回以上閲覧されている。見つけたのはこの少女の中学生の姉。毎日SNSを見て、クルド人へのデマ等をチェックしている。楽しいはずの中学校生活なのに、こうしたところまで追い込むのは許し難い。その後、クルド人へのヘイトデモが、彼女の通う中学校前に押し寄せて彼女の名前を怒号した。絶対に許せない。

 なぜ「クルド人排斥」なのか。90年代末からクルド人住民が増加した。現在、日本にいるクルド人は約3000人。そのうち約2000人が関東地方南部で暮らす。難民に対する無理解、差別、偏見がその原因である。しかし、クルド人ヘイトが流布されたのは1年前から。それまでクルド人はまったく関心を持たれなかった。
【筆者注】 2022年に、埼玉県に住むクルド人一家を描いた『マイスモールランド』という映画を観ましたが、激しいヘイトのシーンはありませんでした。
1年前、入管法改悪に対して取材に応じたクルド人が苦難の声をあげた。それをきっかけにクルド人への反発や非難が急増した。もともとは西川口一帯は県内有数の歓楽街、「NH(西川口)流」と呼ばれ数千円で性交が行われていた。市が歓楽街を整理すると中国人が移り住むようになり、中国人ヘイトがはじまった。しかしクルド人ヘイトが始まると中国人ヘイトはなくなった。
 おとなしく従順な社会的弱者は許容する。しかし自己や権利を主張する、物を言う社会的弱者はヘイトの対象となる。「マイノリティはマイノリティらしくふるまえ」という差別意識。

1、「地震と虐殺」-なぜ殺したのか。殺されたのか。殺させたのか。
 震災直後、政府が自らデマを飛ばしていた。

1923年9月3日、海軍東京無線電信所船橋送信所を通して、内務所(ママ)警保局長(当時の治安トップ)は各地方長官宛に電文を送付。
「鮮人ハ各地ニ放火シ不逞ノ目的ヲ遂行セントス既ニ東京市内ニ於テハ爆弾ヲ所持シ石油ヲ注ギ放火セル者アリ」
「鮮人の行動に対しては厳密なる取り締まりを加えたし」
埼玉県内務部による通牒文(1923.9.2)
「不逞鮮人多数が川口方面より本県に入り来るやも知れず、その間、過激思想を有する者らに和し、彼等の目的を達成せんとする趣、聞き及び…町村当局は在郷軍人会、消防手、青年団等と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう、至急、相当手配相なりき…」

 四ツ木橋での虐殺を証言した伴淳三郎。

 「阿鼻叫喚の地獄絵図だった」
 「朝鮮の人と思われる死体が地面にずらーっと転がっている。その死体の頭へ、コノヤロー、コノヤローと石をぶっつけて、めちゃくちゃにこわしている。生きた朝鮮の人を捕まえると、背中から白刃を切りつける。男はどさりと倒れる。最初、白身のように見えた切り口から、しばらくしてビャーっと血が吹くんだ。俺はそれを目撃して震え上がっちゃった」
 「朝鮮の人はたまらず屋根へ逃げのびる。それを下から猟銃で、パパパーンと打ち落とす。その死体めがけて群衆が殺到する。手に手に持った石を、死体めがけて投げつける。死体はたちまちハチの巣のようにメチャメチャになってしまう」

 「朝鮮人を殺す」ではなく「朝鮮人を壊す」という表現に注目したい。襲撃に使われた鳶口は、破壊消防のための道具。それを使って朝鮮人を、さらには社会を壊した。今は、言葉とSNSを使って社会を壊している。

 「地震の混乱」が虐殺を招いたのか? ちがう。震災の前年の1922年にすでに朝鮮人虐殺事件が起きていた。新潟県中津川の信越電力工事現場で、大倉組(事件当時は日本土木、大成建設の前身)による朝鮮人労働者虐殺が起こされていた。朝鮮人を殺す準備はできていた。

 中には、こうした虐殺に対して深甚なる反省をした人物もいた。

東京市社会教育課長 大迫元繁
一、震災に於ける鮮人虐殺事件に直面して、私共は何と云つて鮮人諸君に、御詫び致したらよいかを知らないものです。餘りに惨酷無慈悲、無思慮の致し方で、天人共に長く許し難き罪悪と思ひます。そこで日本人は、根本的に生れ代つて出直さねばなりません。悔ひ改めて全く彼等に対する邪念、邪情を一掃し、謝罪の心持ちを忘れず、彼等の幸福の為凡ゆる方法を講ずる必要がありませう。

 しかし日本人は、"根本的に生れ代つて出直"すことができなかった。
 いまだに、こうした事実を否定する人たち。

 ・「虐殺は嘘であります。まったく根拠がない。不逞鮮人が略奪、強姦などをした」
 ・「(震災直後)コミュニストによる暴動があった。テロもあった。それに対する住民の自警行動があった。虐殺ではない」(鈴木信行葛飾区議)
 ・「在日朝鮮人との戦いの真っただ中にある。必ず勝利する」(ナオナチ[ママ]活動家の瀬戸弘幸氏)
 ・「(関東大震災では)朝鮮人の放火などの卑劣な犯罪によって10万人以上の尊い命が奪われた。なのに日本人だけが汚名を着せられた」(慰霊祭実行委員会代表)

 朝鮮人に対して害を加える人たち。

ウトロ地区「放火犯」の裁判における証言
・韓国が憎かった
・情報はネットで得た
・韓国による領土侵犯が許せない
・放火は間違いだったが理由は正当
・今後も同じような事件が起こるであろう

【Q&A】
Q.「強制連行」と記された長生炭鉱碑への攻撃はないのか?
A.今のところない。私有地なので非難のしようがない。
Q.「③右往左往する松代大本営案内板」とはどういうことか?
A.当初は「強制的に動員され」という文言だったが、批判を受けて「強制的に」の上に白いガムテープを貼って隠した。それに対して逆批判があったので「必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります」という曖昧な表現に改変した。
Q.ヘイトスピーチをするのは、どういう人たちか?
A.わからない。老若男女さまざまな人がおり、共通点はない。ただ社会的弱者すべてを差別するようだ。その際に、ものを言うマイノリティ、自己や権利を主張するマイノリティへの攻撃が激しい。逆に、おとなしく従順なマイノリティであれば許容する。「マイノリティなら、マイノリティらしく振る舞え」と強要する。
A.ヘイトスピーチを禁止する法律はないのか?
Q.「ヘイトスピーチ解消法」があるが、理念法なので罰則がなく、効果はほとんどない。川崎市のように、罰則をつけた条例で規制しようとする自治体が増えている。罰則をともなった法律を制定すべきである。なおヘイトスピーチは表現の自由であるとする主張もあるが、そうではない。最も表現の自由を奪われているのは差別されている側なのだということを、忘れてはいけない。
A.カウンターについてどう思うか?
Q.差別を許さず過去の歴史を忘れないということさえ押さえれば、それぞれの仕方で行ういろいろなカウンターがあっていいと思う。
最後に一言。過去の歴史を否定すれば差別と偏見がはびこり、その差別と偏見が殺戮につながる。『地震と虐殺 1923-2024』執筆のための取材をしている間、私はずっと心の中で「殺すな、殺されるな、殺させるな」と唱え続けた。

 以上、拙い要約でした。過誤等は全て私の責任です。時間の関係で後半についてのお話を聞けなかったのが残念でしたが、安田氏の思いは十二分に伝わってくるものでした。
 一番心に残ったのは、差別の醜悪さです。関東大震災時における虐殺、クルド人に対する言葉の暴力。なぜこうした醜悪な行為を平然と行えるのでしょうか。思うに、当時も今も、生活や将来に対する不安やストレスを解消するためではないでしょうか。朝鮮人と劣った存在として、日本人を優れた存在として位置づけ、根拠のない優越感を得る。そして劣ったと見なした人びとを攻撃し、痛めつけ、最悪のケースでは殺すことによって、不安やストレスを解消する。そう考えました。その不安やストレスは朝鮮人やクルド人のせいではなく、政界・財界がつくったシステムが原因であることに気づかないのですね。
 もう一つ考えたのは、日本政府の無責任さです。長生炭鉱内の遺骨収集に消極的で、クルド人へのヘイトスピーチを規制せず、関東大震災時の虐殺にも無関心な日本政府。まるで過ちを繰り返しても仕方がないと開き直っているようです。同時に、差別を黙認する態度にも疑問を持ちます。なぜ包括的な差別禁止法を制定せず、独立した人権救済機関を設立しないのか。推測するに、差別を禁止した結果、私たちが連帯して政府に抗うことを恐れているのだと思います。差別を黙認することによって私たちを分断し、無力で従順な存在として支配する。
 これに対して、過ちに対して責任をとろうとする市民たちの動きには感銘を受けました。長生炭鉱内の遺骨収集のために尽力し、寄付を募り、政府を動かそうとする井上洋子代表の言葉が耳朶に残ります。

 日本社会に生きている者としての責任があるから。

 こうした動きに連なるとともに、過去の過ちに責任を果たす政府を選出するよう努力をしていきたいと思います。
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# by sabasaba13 | 2025-01-16 07:30 | 講演会 | Comments(0)

歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会 1

歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会 1_c0051620_16103282.jpg 講演会の嬉しいところは、いろいろな講演会のチラシが手に入ることです。『地震と虐殺 1923-2024』(中央公論新社)の著者、安田浩一氏の講演会が開かれることもある講演会でいただいたチラシで知りました。また先日撤去されてしまった、群馬県における強制連行による朝鮮人犠牲者を追悼する碑を守る会の石田正人の報告もあるとのことです。これはぜひお話を伺ってみたい。
 というわけで先日、石神井区民交流センターに行き、「歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会」に参加してきました。主催は、「ヘイトスピーチを許さない・練馬/練馬教育問題交流会」、チラシの紹介文を転記します。

 いま、加害の歴史を否定する動きが強まっています。各地にある加害の歴史を刻んだ追悼碑や案内文、教科書などがターゲットになっています。群馬県による「群馬の森」朝鮮人追悼碑の撤去、小池東京都知事による関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文送付取りやめなどの官製ヘイト、レイシストグループが煽るクルド人などマイノリティへのヘイトなど、官民あげての差別煽動は、100年前の朝鮮人虐殺がたんなる過去の出来事ではないことを示しています。このような状況にどう抗していくのか。安田浩一さんの講演から考えていきます。群馬の森・追悼碑撤去について「守る会」のさんも報告に来てくださいます。ぜひご参加ください。

 まず登壇されたのが「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会の石田正人氏で、「群馬の森朝鮮人追悼碑撤去とその後」についての報告です。
拙ブログに以前掲載したのですが、『週刊金曜日』でこの追悼碑の存在を知り、高崎・川越旅行のときに立ち寄ろうとしたのですが、肝心の「群馬の森」に辿り着けずに断念しました。ところが再訪を期してまごまごしている間に、山本一太群馬県知事によって撤去されてしまった次第です。

 それでは私の文責でお話をまとめてみます。

 2024年1月29日~2月11日、群馬県は群馬の森を閉鎖して、行政代執行により追悼碑を撤去した。本来は「移動」でいいはずなのだが、あえて「破壊」したのである。
 そもそも「記憶 反省 そして友好」朝鮮人追悼碑とはどういうものか。それは、戦時中の朝鮮人強制連行・強制労働犠牲者を追悼する碑である。「群馬県立群馬の森」の東の端に位置しており、通行の邪魔になるところではなかった。
 ここにはかつて陸軍の岩鼻火薬製造所があった。板橋とならぶ代表的な火薬製造所だった。事故を最小限にするために、小さな工場を分散して配置し、随所に小山を築造した。なお火薬の爆発事故によって日本人労働者も犠牲になったことも忘れてはならない。戦争はかならず犠牲を生む。
 1995年、群馬県内で平和運動に携わっていた市民有志らによって「戦後50年を問う群馬の市民行動委員会」が結成された。県内6都市で「侵略戦争写真展」を開催し、以後各地で「平和展」を開催した。
 そして群馬県内における朝鮮人強制連行・強制労働の調査に取り組んだのである。委員会として、朝鮮人追悼碑の建立を決意し、2001年6月、群馬県議会に対して「戦時中における労務動員朝鮮人犠牲者の追悼碑建立に関する請願」を提出し、これが全会一致で採択された。そして「記憶 反省 そして友好」朝鮮人追悼碑がつくられ、2004年4月に除幕式が行われた。県知事から「追悼の言葉」が届けられ、沼田市長など自治体代表、南北の民族団体、市民らが参加した。韓国から遺族会も招いた。
 碑文は下記の通り。

追悼碑建立にあたって
 20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
 21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。
2004年4月24日
「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を建てる会
※碑文中の「朝鮮」及び「朝鮮人」という呼称は、動員された当時の呼称をそのまま使用したもので、現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、及び両国の人達に対する呼称である。

【筆者注】「TOKYO ART BEAT」というサイトに、碑の写真が掲載されています。なお二つの碑にそれぞれスリットがあり、これらを通すと朝鮮半島の方角となるというお話がありました。「犠牲者に故国の方角を教えてあげたかった」ということです。

 以後、毎年追悼集会が行われるが、「強制連行」という発言が政治活動にあたるという指摘は、県側からは全く無かった。
 しかし2012年以降、「碑文の内容は事実ではなく、碑は撤去すべきだ」と主張するグループが抗議活動を展開。群馬県(山本一太知事)は、追悼式の集会で「強制連行」への言及があったことを県は問題視し、追悼碑の撤去を決定した。撤去の根拠は、「強制連行」という発言が政治活動にあたるという一事のみである。県有地なので政治活動はしないと約束していた。会としては、撤去を食い止めようと様々な運動や裁判闘争を行ったが、守りきれなかった。

 群馬県における強制連行と強制労働は歴史の事実である。その証拠は数多く残っている。調査の結果、さまざまな事実が判明した。
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 月夜野の地下工場は、朝鮮人によって掘られた。
 間組による岩本水力発電所の建設における難工事に強制連行された朝鮮人は約1000人、中国人は606人であった。固い岩盤に朝鮮人がつくらされた長さ15kmの水路橋が今も残る。その過酷な労働環境の様子は、社史「間組百年史」にも記録されている。

「…当時食料は非常に粗悪で、カボチャ、トウモロコシ、サツマイモなどが主食であったが、それすら満足に食べられない慢性的な飢餓状態」
「…食事の内容はコウリャンと糠で作った饅頭を一食につき二個支給されただけ」

かつて日本が朝鮮人に対して与えた多大の損害と苦痛を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明すること。そして過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていくこと。そのためにも追悼碑は絶対に必要なものである。

【Q&A】
Q.撤去費用はどうなったのか?
A.はじめは、嫌がらせのためか2000万円を請求された。その後音沙汰はない。
Q.「守る会」はどうなったのか、また今後の活動予定は?
A.追悼碑が撤去されたので「守る会」は解散。しかし寄付を募って同じデザインの追悼碑を再建したい。できるだけ群馬県庁の近くで、さらに碑文には撤去を決めた山本一太群馬県知事の名前を明記したい。
Q.現在、追悼碑のあったところはどうなっているのか?
A.更地になっている。そこへ行けばバーチャルで追悼碑を見られるアプリを製作中。

 最後にどうしても一言つけくわえたい。「朝鮮人労働者がすべて強制連行ではなかった」という見解もあるし、それは事実だ。ただ当時日本は朝鮮を植民地としており、土地調査事業・漁業令・会社法などで朝鮮人の生業を奪っていった。その結果、朝鮮人は日本に行って低賃金で働かざるを得なかった。巨視的に見ると、これは事実上の「強制連行」である。

 以上、拙い要約ですが、私なりにまとめました。過誤等がありましたら全て私の責任です。
 お話を聞いて、日本が犯した過ちを真摯に反省し、二度と過ちを繰り返すまいと決意し、アジア諸国と相互の友好と理解を深めていこうとする群馬市民の方々に心から敬意を表します。そして過去の過ちをなかったことにしようとする歴史修正主義者の方々、およびそれに同調する地方行政の方々には、もっと深く考えてほしいと思います。過ちを認めて反省しない国が、周囲から信頼を得られるわけがありません。日本の安全保障にとって最も重要なのは、軍事費を激増することでも、アメリカの*を舐めることでもなく、アジア諸国との友好と信頼関係を築くことにあると確認します。負の歴史から目を逸らす自慰史観は、著しく"国益"に反する考えではないでしょうか。
 そして目から鱗が落ちてコンタクトレンズをはめたように視界がクリアになったのが、朝鮮人は、日本による植民地化によって日本に行き低賃金で働かざるを得なかったという指摘です。使い捨てのできる低賃金労働力を確保するために、琉球やアイヌなど国内の植民地化、次にアジアの植民地化を推し進めたという言い方もできますね。近代日本の経済発展を支えた最も大きな要素が、この「使い捨てられる安上がりの労働力」だと気づきました。さらに考えると、労働者を犠牲にして経済を発展させるというこの構造は、高度経済成長期には不可視化されていましたが、バブル崩壊後の経済低迷のなかで再び露呈しているのが現在だと考えます。非正規雇用や外国人技能実習生が典型的な例ですね。もちろん、安価な労働力を使い捨てて経済を発展させるという構造は、かつてはある程度世界共通のものだったのでしょうが徐々に改善されつつあると思います。しかしなぜいまだに日本ではあまり変わらないのか、考えて生きましょう。
歴史否定とヘイトスピーチに抗う練馬の集会 1_c0051620_16135314.jpg

# by sabasaba13 | 2025-01-15 07:14 | 講演会 | Comments(0)

言葉の花綵291

 何かをなすことによって学ぶ。(ジョン・デューイ)

 自分自身のアーティストであれ、そして自分のやっていることに常に自信を持て。(アレサ・フランクリン)

 最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気です。心と直感はあなたがほんとうは何になりたいかをなぜか知っているからです。(スティーブ・ジョブズ)

 ここに放射性廃棄物を埋める。未来の君たちにこのような負の遺産を残すことを本当に申し訳なく思う。我々の科学技術では放射性廃棄物を無害化することはついにできなかった。以下の期間、慎重に管理し続けることを願う。安全レベルの目安、放射性セシウム三〇年、プルトニウム二万四千年、ウラン235七億三八〇〇万年。(『明日のハナコ』 玉村徹)

 演劇は言葉やもがきを使って客につかみかかる身体表現です。(鈴江俊郎)

 民衆のスポーツへの熱狂、効率よく働く労働者の身体、船倉でしっかり戦う兵士という3側面で、スポーツは権力に都合が良い。(井谷聡子)

 「過つは人間の性」こそ、われわれがもっとも熟知している真理である。(チャールズ・サンダース・パース)

 議会政治は総ての場合に「総てか、然らずんば無か」の態度を許さぬ。常に妥協であり、譲歩であり、漸進である。(石橋湛山)

 日本の学界には禁欲主義みたいなものがあって、学問とはつらいこととみつけたり、ということでないといけないような空気がありますが、私はいやいややる学問にろくなものなしと考えております。(桑原武夫)

 戦争は嫌でございます。散らかりますから。(岡本文弥)

 一つ、月謝、自由気ままなるべし。
 二つ、ともに師、ともに弟子たるべし。
 三つ、出欠各自勝手なるべし。(松下村塾の誓い)

 やらかしても怒る人なんていませんよ、みんなやらかすから。(吉田知那美)

# by sabasaba13 | 2025-01-14 08:02 | 言葉の花綵 | Comments(0)

雲仙観光ホテル・軍艦島編(16):雲仙地獄(18.9)

 遊歩道を歩き終え、ホテルや土産屋がある小さな町を散策していると、古い門柱がありました。
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 その由緒についての解説を転記します。

 この古びた門柱は、大正後期に造成された「新湯ガーデン」という外国人避暑客向けの庭園の入口の門柱でした。
 何度かの移転を経て、当地に旧雲仙観光協会のインフォメーションセンターが整備された際に、その門柱として移転して来ました。
 雲仙温泉街の歴史をひっそりと眺めてきた、旅する門柱です。

 元商店だったような家には、写真とともに、下記の悲しい説明文がありました。今はどうなっているのでしょうか。再建ができるよう祈念します。

 当店は7月21日未明に雲仙市水道排水管の爆発的な破裂100トンもの水吹き出し泥とともに店に流入しました 復旧予定が未完で胸を痛めている次第です 皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが只今再建に向けて努力しておりますので何卒よろしくお願いします
 平成30年8月 店主
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 以上で散歩は終わり。前述の『ナガサキの郵便配達』(ピーター・タウンゼント SUPER EDITION)に次のような一文がありました。

 衝撃的な秘密開示を行い、できれば、自分がその後で花嫁との間に成立させなければならない難しい和解を結ぶために、スミテルが選択できる場所として、これ以上の所はなかった。この小規模な雲仙の観光地は、スコットランドやサセックス、オーストリアやアルプスの湖水地方などのヨーロッパの小さな町に匹敵する場所だった。(※緑屋旅館) (p.209)

 過分な称賛にも思えますが、落ち着いた雰囲気の観光地であることには違いありません。近くにあった土産屋で、ナイト・キャップ用の地酒を購入。それにしても風が強い、明日の軍艦島クルーズが欠航になったらどうしよう。

# by sabasaba13 | 2025-01-13 08:12 | 九州 | Comments(0)