散歩の変人 http://sabasaba13.exblog.jp 地球を彷徨し、本と音楽の海を漂う ja sabasaba13 2024 Sat, 28 Dec 2024 07:07:12 +0900 2024-12-28T07:07:12+09:00 hourly 1 2013-06-01T12:00:00+00:00 散歩の変人 https://pds.exblog.jp/logo/1/200502/06/20/c005162020080128060644.jpg http://sabasaba13.exblog.jp 80 80 地球を彷徨し、本と音楽の海を漂う 雲仙観光ホテル・軍艦島編(11):雲仙(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33648515/ http://sabasaba13.exblog.jp/33648515/ <![CDATA[ それでは雲仙に向かいましょう。島原駅に戻って自転車を返却し、雲仙行きのバスに乗り込みました。左手に海と天草、右手に山なみが見える風景を楽しんでいると、50分ほどで雲仙に着きました。
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 そして雲仙観光ホテルへ、並木道の向こうに三角屋根の正面部分が見えました。はやる気持ちをおさえながら歩を進めると、並木が終わり、ホテルの全貌が姿を現わしました。気分を高揚させる上手いアプローチですね。(※最初の一枚は翌日の朝に撮った写真です)
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 まずは雲仙観光ホテルの公式サイトからホテルの歴史について引用しましょう。


 日本初の国立公園に指定された雲仙は、古くから外国人避暑地として親しまれて参りました。
 昭和7年、外国人観光客誘致を目的に、国策として外国人向けのホテルが日本各地に建設されることになりました。良質な温泉に恵まれ、豊かな自然に恵まれたこの地にも洋風建築のホテルが建てられることになり、雲仙観光ホテルは開業いたしました。
 昭和10年10月10日午前10時に、ハーフティンバーのスイスシャレー様式を取り入れた象徴的な建築は、 竹中工務店の設計・施工第一号ホテルで、その完成に全力を注いだ彼らの熱き思いと高い理想は、現在もなお当ホテルの滞在スタイルの中に現れています。(設計者:早良俊夫氏)
 設立当時、雲仙はもとより長崎県内にもこの様な豪華絢爛かつ近代設備が整った建物はありませんでした。この地を訪れたハンガリー文化使節団メゼイ博士は、「雲仙の自然は素晴らしい。南欧チロルの山の美にリビアの海の美を加えたようなものだ。崇高な世界美というものは、東洋的美と西洋的美が一体となったものだと思うが、雲仙でこれを発見することができた。東洋的であり、西洋的であり、しかもなんら不自然さがない」と、称賛されたと記されています。
 客船をイメージした館内には、客室61室、メインダイニング、バー、売店、図書館、理容室、会議室、ビリヤード場、硫黄泉浴室男女1室が完備されており、現在も館内には当時の面影がそこはかとなく息づいております。
 昭和21年、駐留米軍に接収され「休暇ホテル」として利用されていましたが、昭和25年の接収解除後に営業再開。同年、国際観光整備法に基づき政府登録ホテルに登録されました(第ホ29号)。昭和54年、「建てられた時代を象徴する総合芸術であると共に歴史を伝えるモニュメントである」と、日本建築学会により近代日本の名建築に選ばれました。平成15年1月31日、「貴重な国民的財産である」とされ、国(文化庁)の登録有形文化財に登録されました(登録有形文化財 第42-0019号)。また平成19年、長崎県「まちづくり景観資産」に登録、経済産業省「近代化産業遺産」に認定されました。]]>
九州 sabasaba13 Sat, 28 Dec 2024 07:07:12 +0900 2024-12-28T07:07:12+09:00
雲仙観光ホテル・軍艦島編(10):島原(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33647843/ http://sabasaba13.exblog.jp/33647843/ <![CDATA[ それではもうしばらく街を彷徨しましょう。
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 鏝絵のある古い商家は猪原金物店。
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 島原市のホームページから引用します。


猪原金物店
 猪原金物店は、由緒ある島原街道に面するこの地に明治10年(1877年)に創業しました。金物店としては九州で2番目に歴史の長い老舗というだけあり、とてもおもむきのある町屋造りの建物で、2003年には国の登録有形文化財になりました。
 平成の普賢岳噴火後は、昔ながらの金物店を大改装して、お店の奥に茶房&ギャラリー「速魚川」を併設。さらに平成10年3月、お店の横に井戸の湧水を利用した人口の小さな川「速魚川」を生み出しました。速魚川には突き井戸(地下110メートル)から自噴する、毎分150リットルの湧き水が流れています。軟水でマイナスイオンをおびているので甘くて美味しく、あらゆるお料理にも最適で、お肌もつるつるになるという速魚川の水は自由に飲んだり持ち帰ったり出来ます。

 落ち着いた雰囲気の「鯉の泳ぐまち」では、水路に鯉が放流されていました。
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 そして「四明荘」へ、島原市のホームページから引用します。


 明治後期から大正初期ごろに伊東元三氏(当時開業医師)が別邸(宅地187.8坪、木造瓦葺約40坪)として建築され、四方の眺望に優れていることから「四明荘」と名付けられました。
 庭園は昭和初期に禅僧を招いて造られたと言われ、色とりどりの鯉が泳ぐ庭園の池へは一日に約3000トンもの清水が流れているそうです。
そのため豊かな湧水を利用した庭として市民に親しまれてきました。
 座敷は正面と左側面の二方が池へ張り出して縁を廻しており、一段高い屋敷から庭園を見下ろすと座敷と庭園が一体となり、ここでしか見られない独特の美しい景観が広がります。
 また、居室棟裏手に位置する四角形の池には、四つの中島があり、表の庭園とはまた違った趣があります。澄んだ水の周りは低い石積で護岸され、池底はいずれも砂敷き、池の中には沢飛石が配置されています。
 平成20年7月28日に国の登録記念物、平成26年4月25日に国の登録有形文化財となり、「鯉の泳ぐまち」の一角にある人気の観光スポットとなっています。

 こちらは素敵な邸宅でした。二面が清らかな水を湛えた池に開かれている開放的な座敷に座って池や木々を眺め、鳥の声や微かな街の音に耳を傾け、静謐な空気に包まれていると、すべての人に親切をしてあげたい気持ちになってきます。今日はかなり暑かったので係の方が出してくれた冷たいお茶が身と心にしみじみと沁みました。どうもありがとうございました。
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九州 sabasaba13 Fri, 27 Dec 2024 08:23:31 +0900 2024-12-27T08:23:31+09:00
雲仙観光ホテル・軍艦島編(9):島原(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33647213/ http://sabasaba13.exblog.jp/33647213/ <![CDATA[ そして島原武家屋敷へ。観光情報サイト「ENJOY!しまばら」から引用します。


 武家屋敷は、島原城の西側に位置し、長さ400mほどの下級武士の住まいがあった屋敷町です。足軽・鉄砲組が住んでいたことや屋敷が碁盤の目のように綺麗に並び、造成当時、隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷が見渡せたことから"鉄砲町"とも呼ばれます。町筋の中央に流れる清水は北西の「熊野神社」を水源とし飲料水として使われ、水奉行を置いて厳重に管理されていました。

 延々と続く石塀、ところどころに見える屋敷林、中央には清らかな水路、風情のある街並みです。
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 それでは昼食を食べますか。ガイドブックで唾をつけておいた「福まん家」に行き、から揚げをいただきましょう。途中に、煉瓦造りの煙突がある大きな家がありましたが、酒蔵でしょうか。
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 さらに歩いていくと、飲むことができる湧水「めだかの学校」がありました。それにしてもなぜ「めだかの学校」? 同名の童謡の舞台となったのがこの湧水? 調べてみると、神奈川県小田原市にある荻窪用水を舞台に茶木滋が作詞をしたそうです。(作曲は中田喜直) ご教示を乞う。
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 その先には、「ヨーロッパの花ひらかせたセミナリオ」というモニュメントがありました。セミナリオ! 懐かしいなあ、高校時代に一途に取り組んだ受験日本史を思い出してしまいました。日本に来たイエズス会宣教師バリニャーノが、日本人聖職者を育成するために開設した学校ですね。なお出典は「しまばらふるさといろはかるた」、島原を愛する二人のおじさん(榊原武之、松尾卓次両氏)の合作で、子供たちに楽しみながら郷土史を覚えて貰いたいという情熱のこもったものだそうです。
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 そして「福まん家」に到着。同社のホームページから引用します。


長崎から揚げ
 福まん家のから揚げは、雑味のない上品な味わいの「あご出汁」と、貴重な長崎・五島列島の「椿油」を使い、少し甘めの味付けで丁寧に仕込みます。こうした、長崎ならではの食材や味付けにこだわった福まん家のから揚げは、あご出汁と椿油でサクサクつやつや、揚げ色はカステラ色。冷めても固くならず、おいしく召し上がっていただける「長崎から揚げ」です。
 もともと、から揚げ(唐揚げ)は、「とう揚げ」とも呼ばれ、油で揚げた唐人(中国人)料理がルーツ。鎖国時代の長崎、貴重な油を使った美味なる唐人料理は、好奇心旺盛な長崎商人たちにも大変好まれたといいます。当時は、こちらも貴重であった砂糖をふんだんに使うことでおもてなしの心を伝えた先人たち。福まん家のから揚げには、こうした歴史と長崎で花開いた食文化が息づいています。

 あご出汁唐揚げをいただきましたが、能書きにたがわず美味しい逸品でした。
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 しかし食欲を失わせるような画像がテレビに映されていました。はい、今は亡き安倍晋三氏が石破茂氏と争った自民党総裁選挙のニュースです。
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 せっかくの唐揚げの風味が落ちてしまいました。『週刊金曜日』(№1200 18.9.14)で、北原みのり氏が書いておられたことに満腔の意をもって賛同いたします。


日本の男社会が育てた構造的暴力の象徴としての自民党 北原みのり

 (安倍晋三でございます。まさに、いわば、その上で、はっきり申し上げたいのでございます。あの、あの、あのですね、委員長、ヤジがうるさいので注意して下さい!)
 すっかりあの喋り方に慣れてしまった6年間。言葉使いは丁寧なのに、攻撃的で、中身なく、嘘くさく、質問者が女性だとにたにたと笑う醜悪さと暴力性を漂わせるあの人の言葉。限られた人生だというのに、6年も、こんな人が権力を振るう世界に生きてしまっている。いったいどこからやりなおせば、よかったのだろう。(p.20)

 死者に打つ鞭ではありませんが、この方の業績には批判すべき点が多々あると思います。そしてその負の遺産が、いまも私たちを苦しめていることも銘肝しましょう。もし"戦争が廊下の奥に立ってゐた"ら、それは間違いなく安倍氏が勝手に決めてしまった「集団的自衛権」のせいです。
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九州 sabasaba13 Thu, 26 Dec 2024 08:44:31 +0900 2024-12-26T08:44:31+09:00
クリスマス・キャロル http://sabasaba13.exblog.jp/33646534/ http://sabasaba13.exblog.jp/33646534/ <![CDATA[_c0051620_13381116.jpg 先日、劇団昴の劇『クリスマス・キャロル』を、練馬文化センター小ホールで山ノ神といっしょに観てきました。そう、チャールズ・ディケンズの名作です。脚色はジョン・モーティマー、翻訳は石川麻衣、台本・演出は菊池准[演劇企画JOKO]です。
 お恥ずかしい話ですが、ディケンズの小説で読んだことがあるのは『デイヴィッド・コパフィ-ルド』と『オリバー・ツイスト』だけで、『二都物語』も『大いなる遺産』も未読です。『クリスマス・キャロル』については、おおまかなストーリーは知っているのみ。どんな劇に仕上がっているのか楽しみです。
 チラシからあらすじを引用しましょう。


 クリスマス・イブの夜。けちで頑固、偏屈な老人スクルージは死んだ同僚マーレイの幽霊と過去・現在・未来の聖霊たちに導かれ、時空を超え不思議な時間を過ごす。彼がそこに見たものは孤独だった少年時代、温かな家族の営み、そして未来に待つ怖ろしい光景。すべての時間が過ぎた朝、スクルージの心にあたたかな光が差し込む。

 導入部、スクルージの冷酷な守銭奴ぶりが印象的に演じられます。従業員を安い給料で酷使し、クリスマスの寄付にも頑として応じず、クリスマスを愚かな馬鹿騒ぎとして蔑視します。さらには「貧しい連中が死んでしまえば人口が減って結構だ」とうそぶく始末。貧乏人には生きている価値がなく、他者を蹴落として豊かになった者が尊いという社会。ここから経済成長を軸とする近代化が始まったのでしょう。カール・ポランニーも『大転換』(東洋経済新報社)の中でこう語っています。


 19世紀的文明は、人類社会史上健全なものとはみなされたことのほとんどなかった動機、しかも、以前には日常生活における活動や行動の正当化原理に高められたことなど絶対になかった動機、すなわち利得動機に基礎を置くことを選んだのだった。自己調整的市場システムは、ほかならぬこの原理から導出されたのだ。
 利得動機のつくりだしたこのメカニズムに、効力の点で歴史上匹敵しうるのは、最も狂暴に噴出した宗教的熱狂以外にはありえない。一世代のあいだに、人類世界全体がこのメカニズムの圧倒的な影響力のもとにさらされてしまった。(p.39)

 その時代精神の体現者とも言うべきスクルージを、どこか憎めない人物として宮本充が見事に演じていました。反感を覚えると同時に、なぜこんな人間になってしまったのか知りたくなります。
 その夜彼の前に現れたのは、7年前に死んだ同僚マーレーの亡霊。彼は鎖でがんじがらめとなっていますが、生前に金儲けのために他人を蹴落としたことが鎖となって、自分を苛ましていると告げます。そしてスクルージがそうならないように、過去・現在・未来の三人の聖霊を遣わして彼に反省を促します。スクルージを少年時代や壮年時代に立ち返らせて、なぜ彼が強欲な人間になったのか、その結果孤独に陥ったかを思い起こさせる。現在、彼は周囲からどう思われているかを、さまざまな人びとから語らせる。そして将来、彼はどんな悲惨なことになるのかを暗示する。歌や踊りを交えながら、スピーディーに場面を転換していく演出はお見事でした。
自分の生き方を真摯に振り返り、反省し、生まれ変わろうとするスクルージを宮本充がコミカルな味わいとともに好演していました。
 そして強欲を捨てて周囲と和解し、充実した喜ばしき新たな人生へと踏み出すスクルージ。「親切は世界を救う」というカート・ヴォネガットの言葉を思い起こさせる後味の良い幕切れでした。


演技や演出も良かったのですが、何といってもディケンズの原作が秀逸です。『オーウェル研究 ディーセンシィを求めて』(佐藤義夫 彩流社)の中にこういう言葉がありました。


 ディケンズはただ、お説教を垂れているだけである。ディケンズから最終的に引き出せることは、「人間が真っ当な振る舞いをしようとすれば、この世の中は真っ当なものになるだろう」("If men would behave decently, the world would be decent.")ということだけである。ディケンズが今も人気があるのは、人々の記憶に残るような仕方で庶民の「ネイティブ・ディーセンシィ」(生まれつき持っている人間の真っ当さ)を表すことができたからである。ディケンズの顔とはいつも何かと闘っている人の顔であり、恐れずに正々堂々と闘っている人の顔であり、静かに怒っている人の顔である、とオーウェルは述べている。(p.192)

 強欲、金儲け、競争、不和、憎悪と不安が渦巻く今の日本、そして世界を連想させる、他人事・過去の事とは思えない、身につまされる芝居でした。でも"人間には生まれつき持っている真っ当さ"があるというディケンズのメッセージを信じ、希望をつなぎましょう。
 劇団昴のみなさま、ぜひこの芝居を衆議院第一議員会館で上演して、改心する前のスクルージのような自由民主党のみなさんに観せてあげてください。


 自民党という衣服は、政治資金という一本の糸だけで縫い合わされており。この糸に異変が起きれば、さしもの巨大な衣服も一挙に解体を余儀なくされてしまう。(田中秀征)

 追記です。この芝居のポイントはクリスマスに起きた出来事にあると思います。そう、言うまでもなくイエス・キリストが生まれた日です。彼の唱えた最も重要な教えとは何か。いろいろな意見があるかとは思いますが、富の私有・貧富の差を否定したことにあると私は考えます。彼の"行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる""金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい"という言葉が、それを如実に物語っています。[マルコ伝(10章17-31節)・マタイ伝(19章16-30節)・ルカ伝(18章18-30節)] そうそうわが敬愛するカート・ヴォネガットが『追憶のハルマゲドン』(早川書房)の中で、面白いことを書いていました。


 もし、いまの時代にイエスが生きていたら、われわれはおそらく致死注射で彼を殺したでしょう。それが進歩というものです。われわれがイエスを殺す必要にせまられるのは、はじめてイエスが殺されたときとおなじ理由。彼の思想がリベラルすぎるからです。(p.36)

 またこの思想を受け継いだ聖フランチェスコ(1181/82~1226)は、教皇イノケンティウス3世の「一切の所有を認めないというのは厳しすぎないか?」という問いに、「もし所有を認めれば、それを守る腕力が必要となりましょう」と答えたというエピソードがあります。環境破壊・戦争とテロ・経済格差・人間の疎外というアポリアを解決する鍵は、このイエスや聖フランチェスコやの言葉にあるのではないでしょうか。そしてこの大義は、人類が、どこでも、いつの世でも、掲げ受け継いできた炬火だと信じます。中国では孔子が("寡を患へずして均しからざるを患ふ。貧を患へずして安からざるを患ふ")、イタリアではダンテが("あゝ慾よ、汝は人間を深く汝の下に沈め、ひとりだに汝の波より目を擡ぐるをえざるにいたらしむ")、ロシアではドストエフスキーが("わが国の民衆のもっとも高い、そしてもっとも鮮明な特徴―それは公正の感情とその渇望である。その人間に価値があろうとなかろうと、どこででも、なにがなんでも、かきわけてまえへ出ようとする雄鶏の悪い癖―そういうものは民衆にはない")、そしてインドではガンディーが("すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、誰もの貪欲を満たすに足るものは存在しない")説いたように。
 「人間の価値は貧富で決まり、貧しい人間は生きている価値がなく、そうなったのは自業自得で、そうならないために私たちは他者を蹴落とす激甚な競争を勝ち抜かなければならない」というメンタリティとそれが支えるシステムを改変し、native decencyに満ちた世界にしていきたいものですね。
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演劇 sabasaba13 Wed, 25 Dec 2024 07:46:03 +0900 2024-12-25T07:46:03+09:00
『闇に消されてなるものか』 http://sabasaba13.exblog.jp/33645852/ http://sabasaba13.exblog.jp/33645852/ <![CDATA[_c0051620_13221576.jpg 「第18回被爆者の声をうけつぐ映画祭2024」のチラシを手に入れたのですが、気になる映画がありました。監督は永田浩三氏、製作は第10回江古田映画祭実行委員会の『闇に消されてなるものか 写真家樋口健二の世界』という映画です。紹介文を転記します。


 樋口健二さんは、日本人として初めて「核のない未来賞」を受けた報道写真家。1977年、原発の炉心部で働くひとびとの撮影に初めて成功しました。人海戦術なしには原発は動かないことを世に知らしめたのです。取材の原点は「四日市」の公害。その後石炭・石油・原子力というエネルギー転換の現場で苦しむ人々を取材しました。写真家を目指すきっかけは、20代半ば。ロバート・キャパとの出会いです。連れ合いの節子さんを協働者と呼び、若い写真家に熱いまなざしを注ぐ樋口さんの日々を紹介します。

 樋口健二… お恥ずかしい話、はじめて聞くお名前でした。しかし紹介文を読むと、四日市や原発など、国家や企業の犠牲にされた人々の写真を撮り続けた報道写真家であることを知りました。これは興味があります、ぜひ観てみたい。会場は東京都練馬区江古田にある武蔵大学なので自転車で行けるし、よろしい、山ノ神を誘って観にいきましょう。
 なお監督の永田浩三氏のプロフィールも紹介します。


 武蔵大学社会学部教授。ジャーナリスト。プロデューサーとして、「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」「ETV2001」等を制作。ギャラクシー賞・農業ジャーナリスト賞などを多数受賞。映画『命かじり』『闇に消されてなるものか』『60万回のトライ』のプロデューサー。

 映画は、永田氏とスタッフが、国分寺にある樋口氏のお宅を訪問するところから始まります。そして自ら撮影した写真をかざしながら、これまでの人生や仕事を熱く語る樋口氏を、カメラは記録していきます。並行して、野村瑞枝氏のナレーションによる補足や時代背景などの説明がなされます。
 故郷である長野県富士見町で掃苔をする樋口氏。貧しい農家の出身で、赤痢で母を失い、農地を手放して父と上京。日本鋼管の工員として住み込みで働きますが、隣室の工員が重篤な喘息で夜も眠れません。ある日、真っ黒い痰を吐きこのままでは死んでしまいと退職。そんな時に出会ったのがロバート・キャパとの出会いの写真でした。スペイン内戦やノルマンディー上陸作戦を写したダイナミックな写真、そしてドイツ兵の子を出産して周囲の怒りと憎しみを買い、丸坊主にされて晒し者にされるフランス人女性の写真に衝撃を受けて写真家をめざします。
 そして四日市ぜんそくで自殺に追い込まれた人のことを知り、この公害を撮影のテーマとすることを決意。ある患者の提案で、入院患者の隣のベッドが空きベッドに寝泊まりして撮影をおこなう樋口氏。患者の苦痛と苦悩、そして遺影を持つ家族たち。「ひょっとしたら日本でもっともたくさんの遺影を撮影した人かもしれません」とのナレーションで、樋口氏の立ち位置が伝わってきます。国家や企業に殺された側に立ち、その事実を写真で人びとに伝える。ある時、土地の青年から「おまえらのおかげで、俺らが結婚もできねえんだ。いい迷惑だ、余計なことしないでくれ」と罵倒されますが樋口氏は「被害者が大きな声をださないと、あんた方が勝てるなんてあり得ないんだぞ」と逆に迫ります。被害者の声を社会に届ける、それこそがジャーナリストの責務だということですね。
 そうした中、戦時中に毒ガスを製造していた大久野島の取材に行き、いまでも後遺症に苦しむ労働者たちの存在を知ります。そこで被害者の治療に当たっている医師の行武正刀氏から「樋口さん、この問題をやってくれませんか?」と頼まれます。四日市での撮影が途中であるために逡巡しますが、患者の治療に尽力する行武の依頼は断れずに応諾。二つの撮影を同時にこなしていきます。
 国家や企業の犠牲にされた人々を撮影して世に知らしめることを生涯のテーマとした樋口氏は、次のテーマとして原子力発電所を選びます。自ら炉心に入りそこで働く労働者を世界で初めて撮影することに成功し、その過酷な労働、そして下請け・孫請け・曾孫請け・口入れで集めた労働者に犠牲を強いる「原発の差別構造」を暴きます。また、はじめて原発労働者の被害に対する損害賠償の裁判に起こした岩佐嘉寿幸氏の姿も記録していきます。大阪大学医学部が作成した診断書を証拠として提出したにもかかわらず敗訴。「いつか岩佐さんの仇をとる」と誓う樋口氏に、国家や大企業から理不尽な仕打ちを受けた人々と共に闘い、その姿を写真にして社会に伝えるのだという強い信念を感じます。なお被曝した原発労働者が起こした裁判では、一件の勝訴もないという衝撃の事実も知りました。
 そして1999年、東海村でJOC臨界事故が起こるとすぐに駆けつけて、住民の不安や恐怖、そして被曝した住民の姿を撮影。その際に自らも被曝をして白血球の減少をまねいてしまいます。2011年に東日本大震災と福島第一原発事故が起きると、ドクター・ストップを振り切って現地へ、原発事故の撮影に取り組みます。2001年には「核のない未来賞」を受賞、アイルランド・カーンソー岬で行われた授賞式に長年、彼を支えてきた妻の節子氏と共に出席します。
 しかしその節子氏は重い腎臓病を患ってしまいます。貧しい時も一つのチキン・ラーメンを分け合い、「お金になる仕事に追われては(あなたの)魅力が無くなっちゃう。やりたいことをやっているときがいちばん生き生きとしている。だからやりたいことに専念したらどう?」と励ました節子氏。彼女のことを氏は「協働者」と呼びます。亡くなった際の死に顔を、心をこめて写した写真が深く心に残りました。
 最後に、写真学校の教え子や若い学生に、ジャーナリストの責務について語る樋口氏。その印象的な言葉をぜひ紹介します。


 ジャーナリズムは、ただひたすら事実報告するだけで、本質は見えてきませんから疑ってかかるように。ジャーナリストにとって一番重要なことは、ジャーナリストの前に人間でなければいけないということ。差別は絶対にしてはならない。むしろ差別される側に自分を置いてみないと、真実は見えてきません。

 国家や大企業と闘う、理不尽さを問うこと、表現の自由とはそういうことだと思う。背中を向けたらおじゃんなんだよね。動物と同じ。人間も。小さいけど集団でうわぁーとライオンに向かっていったら、ライオンが逃げてった映像があったよね。動物見て下さい、野生動物。背中を見せない。毅然としている。堂々と真実を追究していったら、自分を信じるしか無いじゃないですか。誰が何と言おうと。そういう意気をもっていれば、正しいジャーナリストになれるね。

 うーん、以前に聞いた小倉寛太郎氏の言葉と共振します。


 アフリカのサバンナにはバッファローとヌーという動物がいる。バッファローは、ライオンに襲われると必ず群れで立ち向かう。数頭でライオンに体当たりをし、数頭が傷ついた仲間の傷をなめる。一方、ヌーはチーターに襲われると、バラバラに逃げまどう。チーターの弱点は足なので、数頭のヌーで立ち向かえば被害は減らせるはずなのに、それをしない。そして、仲間の一頭がチーターに食いちぎられているその前で、「ああ今日は俺の番じゃなくてよかった」とばかりに平然と草をムシャムシャ食べている。言い古されたことだが、団結しかない。労働者はバッファローになるしかない。そして個人個人が自分の弱さを克服しようと努力すること。

 勇気づけられる、力をもらえる素晴らしい映画でした。労働者に犠牲を強いる国家と大企業。それに対して声をあげ、毅然とし、連帯して立ち向かうことの重要性を痛感しました。なかなか観る機会はない映画かと思いますが、もし上映されたらぜひ観ていただきたい逞しい映画です。
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 映画の終了後、永田浩三氏のトークがありました。樋口健二は現在85歳。ほんとうはこの場に来てくださるはずだったのですが、直前に動脈瘤が破裂して現在入院中とのことです。ご回復を心からお祈りいたします。
 そしてこの映画をつくるきっかについて。韓国の安世鴻氏が従軍慰安婦の写真展をニコン・ギャラリーで開催しようとした際に、在特会からの電話やネットによる攻撃でニコンの腰が砕けて中止にしてしまいました。東京地裁の裁定で開かれることになりましたが、会話の禁止や金属探知機の設置など異様な雰囲気だったそうです。これではあまりに酷いと、永田氏らが中心となって武蔵大学の前にあるギャラリー「古藤(ふるとう)」で写真展を開催しました。(知らなかった! 観たかった!) その時に来店して、安世鴻氏を激励したのが樋口健二氏だったそうです。永田氏らはこれをきっかけに、ぜひ樋口氏を取り上げたドキュメンタリー映画をつくろうと決意したそうです。"徳は孤ならず 必ず鄰り有り"ですね。そして“闘うギャラリー”をこれからも応援します。


 なお女優の斉藤とも子氏も来場されており、最後に簡単なスピーチをしてくれました。
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映画 sabasaba13 Tue, 24 Dec 2024 08:04:20 +0900 2024-12-24T08:04:20+09:00
『パリのちいさなオーケストラ』 http://sabasaba13.exblog.jp/33645193/ http://sabasaba13.exblog.jp/33645193/ <![CDATA[_c0051620_12042569.jpg 音楽が好きだし、映画も好きなので、音楽をテーマにした映画には食指をそそられます。新聞の映画評で『パリのちいさなオーケストラ』が好評なので、山ノ神を誘って観にいってきました。公式サイトから紹介文とあらすじを転記します。


 本作は現在も精力的に活躍の場を広げているディヴェルティメント・オーケストラを立ち上げた一人の少女と仲間たちの物語。指揮者を目指すアルジェリア系のザイア・ジウアニが、パリの音楽院への編入をきっかけに、巨匠セルジュ・チェリビダッケに指導を受け、時に厳しく時に温かく対話を重ね、音楽を学ぶ。そして、貧富の格差なく誰もが楽しめるように、パリ市内の上流家庭出身の生徒たちと移民の多いパリ近郊の地元の友人をまとめ、垣根を超えたオーケストラを結成した。この実話を映画化したのは『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』の監督マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール。主要キャスト以外の配役は現役音楽家を抜擢。数々の美しい有名クラシック音楽が、実際に演奏しながら撮影され、ライブ感溢れ心躍る感動作が完成した。

 本作の2023年フランス公開によって存在が注目されたザイア・ジウアニは2024年パリ・オリンピックの聖火ランナーを務め、さらに閉会式では大会初の女性指揮者としてザイア・ジウアニ指揮、ディヴェルティメント・オーケストラによるフランス国歌"ラ・マルセイエーズ"が演奏された。

 パリ近郊の音楽院でヴィオラを学んできたザイアは、パリ市内の名門音楽院に最終学年で編入が認められ、指揮者になりたいという夢を持つ。だが、女性で指揮者を目指すのはとても困難な上、クラスには指揮者を目指すエリートのランベールがいる。超高級楽器を持つ名家の生徒たちに囲まれアウェーの中、ランベールの仲間たちには田舎者とやじられ、指揮の練習の授業では指揮台に立っても、真面目に演奏してもらえず、練習にならない。しかし、特別授業に来た世界的指揮者に気に入られ、指導を受けることができるようになり、道がわずかに拓き始める-。

 アップリンク吉祥寺に行ったのですが、けっこう席がうまっていました。かなり前評判は高いようですね。
 映画は、ザイアに対する、裕福な白人男性学生による陰湿ないやがらせと侮蔑から始まります。彼女はアルジェリアからの移民で貧しいということもあり、彼らから「貧しい」「移民」「女性」であることを理由に差別的な眼差しを向けられます。そして彼女が指揮者に選ばれたことにも反発し、練習中にもさまざまな嫌がらせやからかいが行われます。手を抜く、指示に従わない、半畳を入れる、練習をさぼる、などなど。しかし「音楽は人生だ」という強い信念をもつ彼女の心は折れません。地下鉄の轟音や、母の使う包丁のリズミカルな音などにも音楽を聴きとる場面によく描かれていました。
 そして巨匠チェリビダッケとの劇的な出会い。公開レッスンで指名した男子学生がいきなりオーケストラに対して指揮棒を振り降ろした瞬間に、演奏をやめさせて舞台から降りるよう命令します。「まずは挨拶だ、奏者に対する敬意を忘れるな」との一喝から、音楽に対して真摯に向き合うチェリビダッケの姿勢がビシビシと伝わってきました。代わりに自ら進んで舞台に上がったザイアの情熱的な指揮にチェリビダッケは心動かされ、彼女の指導をすることになります。
 以後、彼の厳しい指導に加えて、ブザンソン国際若手指揮者コンクールへのエントリー、自らのオーケストラの設立など、生活のすべてを音楽に捧げ、めきめきと腕を上げていくザイア。その姿勢に共感して、昔からの仲間に加えてこれまで侮蔑していた学生たちの何人かもこのオケに馳せ参じてきます。この間の指揮の上達ぶりと音楽にかける情熱を、ウーヤラ・アマムラが見事に演じていました。
 この間に、さまざまなエピソードが挿入されて、映画を豊かなものにしていきます。楽器に興味をひかれるダウン症の少女イザベルのために、優しくチェロを教える双子の妹フェットゥマ。刑務所を慰問した際に、収監されている父を前に切々とクラリネットを独走するディラン。その曲目がフォーレの「夢のあとに」ですから、泣かせますね。音楽をこよなく愛し、娘たちのために手作りの防音室をつくった父親もいい味でした。
 やがて指揮者としての壁にぶつかり苦悩するザイア。「孤独だと感じるうちは奏者と離れている。皆と一体だと感じられたら奇跡が起こるはずだ」と励ますチェリビダッケ。しかしコンクール予選を通過できなかったザイアは落ち込み、ベッドに伏せってしまいます。すると外から… はい、後は観てのお楽しみ。私の涙腺はこのラスト・シーンで決壊寸前となりました。


 なお購入したパンフレットによると、実際に楽器を演奏できる方々を配役したとのことです。彼ら/彼女らが奏でる素晴らしい音楽が、映画全編を飾るのも見どころ。ラヴェルの「ボレロ」、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」、ビゼーの「アルルの女」、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」、ベートーヴェンの交響曲第7番、サン=サーンスの「バッカナール」、ハイドンの「ディベルティメント」などで楽しませてくれました。ちなみにザイアが立ち上げたオーケストラの名前がディベルティメント管弦楽団、つまり"喜び"管弦楽団です。


 いつも思うのですが、オーケストラとは不思議かつ素晴らしい存在です。音色も奏法も形状も異なる楽器を持った個性豊かな奏者たちが集まり、心合わせて美しい音楽を紡ぎ出す。人間の営為として理想的なかたちだと思います。憎悪や対立や暴力にあふれる今の世界、オーケストラのように調和できないものでしょうか。ザイアのこの言葉に、世界の人びとは耳を傾けてほしいと思います。


 世界が変わるかは知らない。でも演奏や音楽の力で、人は変わると思います。]]>
映画 sabasaba13 Mon, 23 Dec 2024 09:16:02 +0900 2024-12-23T09:16:02+09:00
『アナウンサーたちの戦争』 http://sabasaba13.exblog.jp/33644401/ http://sabasaba13.exblog.jp/33644401/ <![CDATA[_c0051620_21250396.jpg アップリンク吉祥寺で映画『アナウンサーたちの戦争』を観てきました。公式サイトからあらすじと紹介文を転記します。


 太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。ナチスのプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。そしてそれを行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。戦時中の彼らの活動を、事実を基に映像化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。
 国民にとって太平洋戦争はラジオの開戦ニュースで始まり玉音放送で終わった。奇しくも両方に関わったのが 天才と呼ばれた和田信賢アナ(森田剛)と新進気鋭の館野守男アナ(高良健吾)。1941年12月8日、大本営からの開戦の第一報を和田が受け、それを館野が力強く読み、国民を熱狂させた。以後、和田も館野も緒戦の勝利を力強く伝え続け国民の戦意を高揚させた。同僚アナたちは南方占領地に開設した放送局に次々と赴任し、現地の日本化を進めた。和田の恩人・米良忠麿(安田顕)も"電波戦士"として前線のマニラ放送局に派遣される。一方、新人女性アナウンサーの実枝子(橋本愛)は、雄々しい放送を求める軍や情報局の圧力で活躍の場を奪われる。やがて戦況悪化の中、大本営発表を疑問視し始めた和田と「国家の宣伝者」を自認する館野は伝え方をめぐって激しく衝突する。原稿を読む無力さに苦悩する和田。妻となった実枝子はそんな和田を叱咤し、自ら取材した言葉にこそ魂は宿ると激励する。しかし和田は任された学徒出陣実況をやり遂げようと取材を深めるもその罪深さに葛藤するのだった。そして館野もインパール作戦の最前線に派遣され戦争の現実を自ら知る事になる。戦争末期、マニラでは最後の放送を終えた米良に米軍機が迫る。そして戦争終結に向け動きだした和田たちにも…。

 戦争を語る人がますます少なくなっている現代、 本作を通してまた新しいアプローチの考察と共感、そして感動を呼び起こし、決して風化させてはいけない戦争の事実に目を向けてほしいと願い、映画化の運びとなった本作。先人の苦悩は、現代を生きる私たちにとって学びになっているのか。政治・経済・社会状況、そしてエンターテイメントにおいても、なお連綿と受け継がれる「不都合な真実の隠蔽」と「不条理な大衆扇動」がまだそこには、ある。
 本作が映画化となり、戦時中における放送と戦争の知られざる関わりを通して、そこに関与する人間たちの苦悩を私たちは突き付けられるだろう。

 日本放送協会(現NHK)が戦争に協力した/協力させれた事実はある程度知っていましたが、この映画を観てずぶずぶに戦争協力していたことを知り驚きました。例えば占領地に設置した放送局は、現地住民を日本軍に協力させるためのプロパガンダ放送をしていただけでなく、日本軍の動きに関する誤情報を流して敵国軍を攪乱しようとしていたのですね。
 そしてメディアの戦争協力に対するアナウンサーたちの態度にあらわれた違いについても、映画はきちんと描いていました。積極的かつ自発的に協力する者、事なかれ主義を貫く者、内心では反対しつつもやむを得ず協力する者、そして可能な範囲で協力する者。主人公の和田信賢アナ(森田剛)のモットーは「虫めがねで調べて、望遠鏡でしゃべる」、取材対象について徹底的に調べ、聴く者の心に届くように話すということでしょう。当初は心に届く言葉を駆使して戦意高揚に協力していた和田ですが、よく調べているうちにこの戦争について疑問をもちはじめます。神宮外苑球場での学徒出陣壮行会の実況を任された和田でしたが、戦場に送られる早稲田大学野球部員を取材しているうちにその疑問は決定的となります。一番心に残った場面でした。はじめのうちは「御国のため」「陛下のため」と勇ましい決意を述べていた彼らがやがて苦渋の表情で「死にたくない」「生きたい」「野球がしたい」と絞り出すような声で告白していきます。雨の当日、衝撃を受けた和田は実況を交代してもらい、そぼ降る驟雨のなかでひとり嗚咽をもらします。このあたりの森田剛の演技は見事でした。


 権力が人びとをある方向に誘導していく時にいかにメディアを利用するのか、そしてその歯車が動き出すともうメディアは抗うことができなくなるのか、よくわかる映画でした。その歯車が動き出す前に、メディアは本来の役割に徹してそれを止めなければならないか、あらためて痛感しました。そう、権力を監視することと、弱者・少数者・被害の声を人びとに届けることです。そしてそうした硬骨のメディアと連帯し支えるのは私たちです。しっかりとメディアを監視しましょう。


 ところでNHKのみなさん、この映画で描かれたような戦争協力に対する真摯な反省はされていますか。どうも政権与党に尻尾を振る幇間メディアに堕して、覆轍を踏もうとしているように思えるのですが。そんな茶坊主メディアに受信料を払って、戦争遂行の片棒を担ぐなんて真っ平御免です。
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映画 sabasaba13 Sun, 22 Dec 2024 08:03:47 +0900 2024-12-22T08:03:47+09:00
雲仙観光ホテル・軍艦島編(8):島原(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33643776/ http://sabasaba13.exblog.jp/33643776/ <![CDATA[ 島原駅を出発して島原城へ。時間の都合でお城の観光は省略。
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 途中に鐘撞堂(時鐘楼)がありました。
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 島原市のホームページから、その由来を引用します。


 延宝3年(1675年)9月、初代島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである。」と、鐘楼を建立しました。
 巨鐘は豊後国中島の藤原正次に鋳造させたもので、純金を鋳こんだ高さ1.3メートル、代遥か遠くまで響き渡り、西風の日は熊本県沿岸まで28キロの海をわたって聞こえたと伝えられています。堂の下は空洞で、音を共鳴さ銀401匁の青銅製の鐘が吊り下げられ、これを毎時間ごとに撞き鳴らして時刻を知らせていました。 ひときわ美しく澄んだ音色はせる特殊な構造になっていたそうです。
 明治維新後も、島原の人たちに「お上の鐘」として親しまれ続け、飯塚家がここに住み着き3代にわたって鐘つきをしました。しかし、生活に溶け込んでいた時鐘も太平洋戦争の金属供出命令によって昭和19年(1944年)に運び去られ、270年間もの長い歴史の余韻を残したままその行方はさだかではありません。
 鐘楼だけは昭和48年まで残っていましたが破損もひどかったので、昔をしのぶ人たちの寄付によって復元されました。現在の鐘は、直径69センチメートル、高さ132センチメートル、重さ375キログラムほどあります。銘文や模様は北村西望氏の労作によるものです。

 へえー、金属供出で国家に奪われたのか。そして弁償も謝罪もせずに放置したままなのですね、やりたい放題の泥棒国家です、ほんとにこの国は。なお戦時中に、♪夕焼け小焼けで陽が暮れて山のお寺の鐘鳴らない♪という替え歌が唄われたと聞いたことがあります。
 北村西望氏は、長崎平和祈念像をつくった彫刻家ですね。
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九州 sabasaba13 Sat, 21 Dec 2024 08:35:24 +0900 2024-12-21T08:35:24+09:00
雲仙観光ホテル・軍艦島編(7):島原(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33643305/ http://sabasaba13.exblog.jp/33643305/ <![CDATA[ 島原守護神の「しまばらん」というマスコット・キャラクターを撮影し、島原駅にあった観光案内所で「めぐチャリ」という電動アシスト自転車を借り、それではしばし島原の街を徘徊しましょう。
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 まずは「ウィキペディア」から、島原の歴史について引用します。


 江戸時代初期の1618年(元和4年)から7年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城したが、石高の規模の見合わない大城であったため松倉家の財政は破綻し、松倉家はこれを補うため日本史上で類例がない九公一民の重税をかけ、その減免を訴えた農民を一揆勢であると偽称して次々と拷問にかけ殺した。さらにはキリシタン弾圧などの悪政を続け、1637年(寛永14年)に島原の乱が起こる。これにより旧来の住民はほとんど全滅し、代わって藩を統治した高力忠房の移住政策により復興していくことになる。学者の説では現代の島原市民はその大半が農民による大規模な島原の乱以降の移住者であり、江戸期以前に伝統的に島原で居住してきた人間の子孫はほぼ存在しないとされるが根拠が無くて歴史的にその事実が確認できない。しかし忠房の後を継いだ隆長は藩の体制確立に躍起になったためか失政が多く、幕府より咎を受け寛文8年(1668年)に改易となった。
 代わって丹波国福知山藩より深溝松平氏の松平忠房が藩主となる。松平氏は5代にわたって島原を統治したが、寛延2年(1747年)に下野国宇都宮藩の戸田忠盈が入り、入れ替わりで松平氏は宇都宮へ移封。戸田氏は2代続いたが、安永3年(1774年)に宇都宮へ移封されていた松平氏が再び戻ってくる。戸田氏も入れ替わりで宇都宮へ戻る。以後、松平氏が8代にわたって統治した。この間、島原では産業が発達し、文化が進み、人口も伸びていった。当時、難しいと言われた島原の地であるが、忠房公以来、領内は安定しており、「土芥寇讎記(ドカイコウシユウキ)」によればその治世の評価は高い。
 明治時代、廃藩置県によって一時的に島原県が設立され県庁所在地となったが、島原県はすぐに長崎県に編入された。その後島原城も廃城となり、破却された(1964年に復元)。
 半島の中央部にある雲仙普賢岳は噴火を繰り返す活火山として有名である。1792年(寛政4年)の噴火の際には眉山の山体崩壊により島原大変肥後迷惑と呼ばれる日本史上最悪の火山災害が起こり現在の島原市域に大打撃を与え、肥前、肥後両国で1万5千人以上の死者が発生している。また最近の平成時代の災害では1990年(平成2年)11月17日に普賢岳が噴火した平成の島原災害がある。翌年の1991年(平成3年)6月3日には火砕流が発生して、報道関係者や世界的に有名な火山学者クラフト夫妻など43人が亡くなった。1996年(平成8年)6月3日に火山活動の終息が宣言され、それ以降は現在まで復興へ向けた取り組みが続けられている。

 なお島原は日本有数の湧水の街で、一日に22万㌧もの湧水量をほこることも申し添えておきましょう。
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九州 sabasaba13 Fri, 20 Dec 2024 15:15:00 +0900 2024-12-20T15:15:00+09:00
雲仙観光ホテル・軍艦島編(6):島原(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33641783/ http://sabasaba13.exblog.jp/33641783/ <![CDATA[ 待ち合わせのためにしばらく列車は駅で停車したのでホームに出て紫雲をくゆらしました。眼前はたわわに実った稲穂、風が強いのでまるで波頭のように波打っていました。そこに飛来してきた一羽の白鷺。絵になるなあ、動画で撮っておきました。





 一時間ちょっとで島原駅に到着。駅には、動物駅長史上初の鯉駅長「さっちゃん」がいらっしゃいました。水槽が駅長室というのが面白いですね。
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 それにしてもなぜ鯉? 島原は街中に水路がはりめぐらされており、鯉が放流されているからかな。なお『長崎新聞』によると、2019年12月に退職されたそうです。御役目、ご苦労様でした。


 長崎県島原市新町2丁目の観光名所「鯉の泳ぐまち」に市が整備した観光交流センター「清流亭」で16日、ニシキゴイ18匹の放流があった。このうちの1匹は、島原鉄道島原駅で"鯉駅長"を務めた雌の黄色いコイ「さっちゃん」。同社は「3年間ありがとう。今後は鯉の泳ぐまちの一員として、コイとしての幸せをつかんで」とコメントした。
 同社によると、さっちゃんは2016年に島原駅の鯉駅長に就任。改札口近くの水槽で執務し、観光客や通勤通学客に親しまれていた。
 同社は、狭い環境で長期間飼育するのは困難と判断。さっちゃんは12日付で職を退き、市に寄贈された。後任の予定はなく、イメージキャラクターも変えないという。

 駅前には「島原の子守歌」の銅像がありました。
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 その由来は?と気になってウィキペディアで調べてみたところ、長崎県島原市出身の作家宮崎康平の妻が家出し、一人で子育てをしていたころ(1950年ごろ)に歌って聞かせていた子守唄をベースにして彼が作詞・作曲した歌謡曲だそうです。しかし、後に山梨に古くから伝わる民謡「甲州縁故節」を原曲としていることがわかったとのこと。♪早よ寝ろ泣かんでオロロンバイ♪
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九州 sabasaba13 Wed, 18 Dec 2024 08:24:40 +0900 2024-12-18T08:24:40+09:00
雲仙観光ホテル・軍艦島編(5):島原へ(18.9) http://sabasaba13.exblog.jp/33641151/ http://sabasaba13.exblog.jp/33641151/ <![CDATA[ そして諫早に到着。こちらも少しだけ滞在したことがありますが本日はスルーします。諫早バスターミナルでバスのタイム・テーブルを尋ねると、かなり時間がかかるとのこと。島原まで島原鉄道で行き、そこからバスで雲仙に向かう方が早いそうです。萬鉄四郎としては言うことありません、よろしい、鉄道の旅を楽しみましょう。諫早駅前に周辺の観光地図があったので撮影。おおっ、干潟を殺した壮絶な公共事業、諫早湾干拓堤防が近くにあるぞ。以前に訪れたときは遠望しかできなかったのですが、地図によると島原鉄道の線路が近くを走っています。もしかすると近くから見られるかもしれないぞ。
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 駅には「日本初の蒸気機関車が走った島原鉄道」という掲示がありました。あれ? 日本初の鉄道は1872(明治5)年に開業した新橋-横浜間ではなかったっけ。解説を読むと、島原鉄道開業時に、その中古の蒸気機関車を鉄道院から購入したそうです。なるへそ。(※現在は埼玉県の鉄道博物館で保存)
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 それでは黄色い電車に乗り込んで出発進行!
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 しばらく目を皿のようにして進行方向左側の車窓を流れる風景を凝視しましたが、諫早湾干拓堤防は視認できませんでした。それはさておき、海岸線ぎりぎりに沿って走るので、素晴らしい眺望を楽しむことができます。青い島原湾、向うには熊本の山なみ、そして広い空。胸がすくような眺めでした。
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 途中にあった「大三東(おおみさき)」は、日本で一番海に近い駅だそうです。看板に偽りなし、ホームのとなりが海でした。手すりに黄色いハンカチがたくさん結び付けられていましたが、なして?
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 「朝日新聞DIGITAL」にこんな記事があったので引用します。

 ホームの電柱の間に架かる、万国旗のような布たち。よく見ると、手書きの文字が書かれた黄色いハンカチだ。後から知ったが、このハンカチは「幸せの黄色いハンカチ」というそうだ。島原鉄道では車体の黄色にちなみ、「幸せの黄色い列車王国」と名付けた町おこしプロジェクトを2016年から展開。その一環で、沿線のイベントで地元の人々が願い事を記したハンカチを、大三東駅のホームに掲げたのだという。(中略)

 「電車ができてありがとう」
 「島原鉄道いつまでも」

 100年以上の歴史を誇る島原鉄道だが、近年はマイカーの普及や少子化によって、乗客は伸び悩んできた。2008年には、現在の終点・島原港から南の区間が廃止された。しかし、ハンカチに記された言葉には、たしかに地元の人々の「島鉄」への愛があふれていた。

 うーん、いい話だなあ。がまだせ、島鉄!


 ちなみに「がまだせ」とは、島原弁で「頑張れ」という意味だそうです。この先にあった駅の自転車置場に「がまだせ! 有明の高校生 有明地区高等学校PTA連絡協議会」という看板があったので、調べてみてわかりました。余談ですがこの自転車置場はホームに直結していました。人間的だなあ。
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九州 sabasaba13 Tue, 17 Dec 2024 09:20:37 +0900 2024-12-17T09:20:37+09:00
核兵器廃絶とアメリカ http://sabasaba13.exblog.jp/33640437/ http://sabasaba13.exblog.jp/33640437/ <![CDATA[ ノーベル平和賞授賞式における被団協代表委員・田中熙巳氏のスピーチを聞いて、あらためて核兵器の残虐性と非人道性、そしてその廃絶の必要性についての思いを強くしました。どうすれば核兵器を廃絶できるのか。そのひとつの鍵を握るのが、アメリカの態度だと思います。
 広島・長崎への原子爆弾投下によって日本政府は降伏をし、日本本土上陸作戦を避けることができた。結果として多くのアメリカ兵および日本人の犠牲をなくすことができた。よって原爆投下は間違っていなかった。Q.E.D. これが戦後の、そして現在のアメリカ政府の公式見解ですね。ということは、「犠牲を減らすために核兵器を使用してもやむを得ない」という論理が、今でも通用するということです。ロシア政府が「ロシア人・ウクライナ人の犠牲を減らすため」、あるいはイスラエル政府が「イスラエル人・ガザ市民の犠牲を減らすため」に核兵器を使用しても、世界はそれを許容せざるを得ない。
 しかし本当にそうなのでしょうか。管見の限りでは、もう日本の降伏は決定的であり、原爆を投下する必要はなかったと考えられます。それでも原爆を投下した理由として、アメリカの軍事力で日本を降伏させたという印象をつくり戦後の日本を勢力範囲に入れること。すでに始まっていた冷戦下、ソ連に核兵器の威力を見せつけて優位に立つこと。莫大な予算を使ったことに対する議会へのexcuse。核兵器の破壊力や放射能の人体への影響に関するデータが欲しい、つまり人体実験。世界のウラン鉱山を支配している大財閥ロックフェラー(スタンダード石油も支配)とモルガンからの圧力。以上のような理由が考えられます。
 つまり、自国の利益と都合のために、その必要性もないのに、残虐かつ非人道的な原爆を投下したのではないか。自国の利益と都合のために他国の民衆を犠牲にするという政策は、実は原爆だけに限りません。第二次世界大戦後、アメリカが広範に行ってきた外交政策です。そのことを歯に衣着せずに真っ向から批判したのがコロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア・マルケス氏(1928‐2014)です。そう、最近彼の傑作『百年の孤独』が文庫化されて話題になりましたね。『しんぶん赤旗』(2003.2.16)によると、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領に対して、2003年2月6日に公開書簡を出しています。以下、引用します。


 どのように感じますか。戦慄が隣人の居間でなくて、あなたの庭を走っているのを見たとき、どう感じていますか。
 あなたの胸を締め付ける恐怖、耳をふさぎたくなるような騒音がもたらす大混乱、制御できない炎、倒壊する建物、肺の奥までしみとおる嫌なにおい、血と埃でおおわれて歩く無実の人々の目をどう感じますか。
 ある日あなたの家で何かわからないことが起きるかもしれないときどうしますか。
 どのようにショック状態から立ち上がりますか。そのショック状態の中で、1945年8月6日、広島の生存者たちは歩いたのです。
 アメリカ軍のエノラ・ゲイの砲撃手が爆弾を投下した後、その都市では立っているものは何もなくなりました。
 数秒にして8万人の男女、子どもたちが死にました。さらに25万人が放射能が原因でその後の数年間で死ぬことになりました。
 しかし、それはずっと遠いところの戦争で、その時はテレビもありませんでした。
 忌まわしい9月11日の事件が遠い土地で起きたのではなく、あなたの祖国で起きたことを、恐ろしいテレビの映像があなたに語るとき、今日、あなたは戦慄をどう感じるのでしょうか。
 もうひとつの9月11日、しかし28年前に、サルバドール・アジェンデという名前の大統領があなたの政府が計画したクーデターに抵抗して死にました。
 それもまた、恐怖の時でした。しかし、それは、あなたの国境から大変遠く離れた、南アメリカの無知の共和国もどきで起きたことでした。
 いくつかの共和国もどきが、あなたの裏庭にあり、あなたの海兵隊が血を流し、砲火を交え、自分たちの立場を他国に押し付けたとき、あなたは大して気にもかけませんでした。
 1824年から1994年の間に、ラテンアメリカ諸国を73回も侵略したことをあなたは知っていますか。犠牲者は、プエルトリコ、メキシコ、ニカラグア、パナマ、ハイチ、コロンビア、キューバ、ホンジュラス、ドミニカ共和国、バージン諸島、エルサルバドル、グアテマラ、グレナダでした。
 ほぼ1世紀前から、あなたの政府は戦争状態にあります。20世紀の初頭から、あなたの国防総省の人々が参加しなかった戦争は世界でほとんどありませんでした。
 もちろん、爆弾は常にあなたの国土の外で爆発しました。例外は、1941年日本の飛行機が第七艦隊を爆撃したパールハーバーの時でした。
 しかし、常に恐怖は、遠くにありました。
 ツインタワーが埃の中で倒壊したその朝、あなたはマンハッタンにいましたので、テレビの映像を見て、叫び声を聞きました。その時、あなたは、ベトナムの農民が長年にわたって感じたことを一寸たりとも考えましたか。マンハッタンでは、人々が、摩天楼から悲劇の操り人形のように落下しました。
 ベトナムでは、ナパーム弾が長い時間肉を焼き続けたので、人々は悲鳴をあげました。ちょうど空中に絶望的に身を投じて落下した人々と同じように、その死はすさまじいものでした。あなたの飛行機は、ユーゴスラビアでは工場や橋をひとつ残らず破壊しました。
 イラクでは50万人が死にました。
 50万の魂が、砂漠の嵐作戦で失われました…
 何人が、異国で、遠いところで、血を流したことでしょうか。ベトナム、イラク、イラン、アフガニスタン、リビア、アンゴラ、ソマリア、コンゴ、ニカラグア、ドミニカ共和国、カンボジア、ユーゴスラビア、スーダンで。それは、果てしないリストになります。
 それらのすべての場所で、使用されたミサイルは、あなたの国の工場で製造されたものであり、あなたの若者によって、あなたの国務省によって雇われた人々によって発射されたものです。これらは、あなたがアメリカ式生活様式を引き続き楽しむことができるようにするためだけでした。
 ほぼ1世紀前から、あなたの国は世界中で戦争状態にあります。
 奇妙なことに、あなたの政府は、自由と民主主義の名のもとに黙示録の騎士を投入します。
 しかし、世界の多くの国民にとって(この地球では、毎日2万4千人が飢えと治癒可能な病気で死んでいます)、アメリカ合衆国は自由を代表するものではないこと、そうではなくて、戦争、飢餓、恐怖、破壊をばらまいている遠くて恐ろしい敵であることを、あなたは知らなければなりません。あなたにとっては、戦争は、常に遠いものでしたが、しかし向こうに住んでいる人々にとっては、爆弾によって建物が破壊され、恐ろしい死をまのあたりにする戦争は、身近な痛ましい現実です。そして、犠牲者の90%は、住民、女性、老人、子どもでした(当然の結果ですが)。
 たとえほんの一日であっても、あなたの家の扉を恐怖が叩くとき、どのように感じますか。
 ニューヨークの犠牲者たちが、税金をきちんと納め、一匹のハエも殺せないような秘書や、証券市場のオペレーターや、清掃人であったならばどう考えますか。
 どのように恐怖を感じますか。
 アメリカ人よ、長い戦争が、最終的に9月11日にあなたの家に到着したとわかったならば、どう感じますか。
 ガブリエル・ガルシア・マルケス (新藤通弘氏訳)

 核兵器廃絶のためにも戦争や武力紛争をなくすためにも、まず止めるべきは、ロシアやイスラエルや北朝鮮や中国の暴走ではなく、アメリカの暴走だと考えます。いかがでしょう。
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鶏肋 sabasaba13 Mon, 16 Dec 2024 09:47:08 +0900 2024-12-16T09:47:08+09:00
被団協代表委員・田中熙巳氏のスピーチ http://sabasaba13.exblog.jp/33639610/ http://sabasaba13.exblog.jp/33639610/ <![CDATA[ オスロで行われたノーベル平和賞の授賞式における日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員・田中熙巳(てるみ)氏のスピーチをリアルタイムで見ていました。以下、『東京新聞』(24.12.10)からその一部を引用します。


 私たちは1956年8月に「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を再び繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張にあらがい、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、速やかに廃絶しなければならない、という運動です。

 これは絶対に忘れてはならない点です。えてしてメディア等は、後者の要求ばかりを大きく取り上げますが、日本政府に原爆被害を償わせることも被団協の掲げるもう一つの大きな要求です。私の理解では、戦争を起こした責任を日本政府に認めさせて償いをさせ、二度と戦争を起こさせないということだと思います。スピーチの中でも、被爆者に対する日本政府の向き合い方について詳しく触れられていました。


 生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の10年間を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

 こうした政府の無慈悲な態度を改めさせたのが1954年に起きたいわゆる「第五福竜丸事件」とその後に始まった「原水爆反対運動」です。もう一つ忘れていけないのが、東京原爆裁判です。被団協のホームページから引用します。


 1955年4月、広島の下田隆一ら3人が岡本尚一弁護士を代理人として、国を相手に束京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて訴訟を提起した。
 被爆者に対して国が何らの援護も行なわずに放置していた時期のことである。
 束京地裁は、1963年12月に判決を言い波した。
 判決は、原告の請求を棄却したが、「アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」とし、「被爆者個人は損害賠償請求権を持たない」が、「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府および内閻の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」と述べている。
 この裁判は、その後、被爆者援護施策や原水爆禁止連動が前進するための大きな役割を担った。訴訟提起後の1957年に原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(※1)が制定され、判決後の世論の高まりもあり、1968年9月には原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(※2)が施行されたのである。

 ちなみにこの判決を下したのは古関敏正裁判長、高桑昭裁判官、そして「虎に翼」の主人公のモデルとなった三淵嘉子裁判官です。"政治の貧困を嘆かずにはおられない"、重い言葉ですね。しかし…


 1994年12月、2法(※1と※2)を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

 戦前・戦中の日本政府が犯した国策の誤りによって亡くなった(殺された)死者に対する償いを、戦後の日本政府は果たすべきだが、それを全くしていないという強い批判だと思います。その憤りの指摘に私は固唾を呑みましたが、それに続く言葉を聞いて固まってしまいました。


 もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。

 何という激烈な日本政府への糾弾。そして日本政府の無恥と無責任を全世界の人びとに伝えようとする強靭な意思。快哉を叫ぶのも忘れて、田中氏の言葉に聞き入りました。
 このきわめて重要な田中氏のメッセージを、各メディアはどう伝えるか。この後のニュースをいくつか見ましたが、核廃絶の訴えについては大きく取り上げていましたが、もう一つの柱である日本政府への批判と糾弾についてはまったく触れません。嘘でしょ。
 しかしその二日後にこれに関する記事を掲載した『東京新聞』(24.12.12)に、ジャーナリズムの矜持を感じました。


「受忍論」を真っ向非難 戦争被害や等しく我慢 平和賞受賞被団協・田中熙巳さん 「繰り返します。原爆死者への償い 政府はしていない」

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の田中熙巳さん(92)は10日のノーベル平和賞受賞演説で、原爆被害への国家補償を拒む日本政府を、草稿にない内容を加えて真っ向から非難した。政府が根拠にするのは戦争被害は国民が等しく我慢すべきだとの「受忍論」。被爆者が求める補償への壁は厚い。専門家は、戦争責任の追及がなければ「また繰り返される」との危機感が演説ににじんだと分析する。

 「日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けている」。歴史的舞台で、田中さんはさらに草稿にない言葉を加えた。「もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていない」。正面を見据え、力強い口調だった。
 演説後も取材に「国が保証することに、どんな意味があるかを感じてほしかった」と強調。「なぜ一貫して拒否するのか。戦争の時に亡くなる命はごみと同じなのか」と怒りを隠さない。
 1945年8月の米国の原爆投下で、広島と長崎を合わせ推計約21万4千人が同年末までに死亡。その後も無数の人が後遺症で亡くなった。病気や差別を苦に自ら命を絶った人もいる。被団協が掲げる「基本要求」で、国家補償は核兵器廃絶と並ぶ重要な柱だ。政府の戦争責任を追及し、原爆死没者の遺族への年金支給なども求めている。
一方、80年に当時の厚生相の私的諮問機関が答申で受忍論を打ち出し、政府は民間の被害者への国家補償を否定した。巨額の償いや、戦争責任が蒸し返されることへの抵抗感があるのではないかと今も指摘される。
政府は被爆者援護法に基づき医療費や葬祭料などは支給している。訴訟に敗れてようやく在外被爆者を対象に加えるといった対応に、場当たり的だとの批判は尽きない。
 林芳正官房長官は11日の記者会見で原爆死没者への国家補償について問われ「戦災により亡くなった一般の方々と同様に、給付などは行っていない」と述べた。
 45年3月10日の東京大空襲で母と弟2人を亡くした河合節子さん(85)は全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)の事務局次長として国に補償を求めている。受賞演説を「非常に共感した」と評価し「国の意思による戦争の責任を国が取らないのはおかしい」と話した。
 田中さんは演説の最後に「核兵器も戦争もない世界」の実現を呼びかけた。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の国際運営委員の川崎哲さんは会場で聞き「国家補償を求めているのは重要な部分。戦争を起こした国が補償をしないとなると、戦争が繰り返されるとの思いがあるのではないか」と推し量った。(オスロ・共同)

【水島朝穂・早稲田大学名誉教授(憲法学)の話】 授賞式の演説で、被団協の代表委員田中熙巳さんは国家補償を拒む日本政府を非難した。国が始めた戦争なのに、被害を受けた民間人への補償を政府が怠り続けてきたことを知らしめた。被爆者ですらそんな粗末な扱いを受けてきたことは、世界に驚きをもって受け止められるのではないか。空襲被害者への補償も実現しておらず、立法を急ぐべきだ。戦争は究極の人災。国民は等しく我慢すべきだとの「受忍論」は克服されねばならない。被団協は全ての戦争被害への国家補償を求めてきた。戦後80年を目前とした今も、「償いがされていない」という田中さんの言葉は重い。

 なお政府が戦争責任を認めず、被害者に対する補償をしていないという問題は、被爆者だけのものではありません。『週刊金曜日』(№1466 24.3.29)から引用します。


黒風白雨 空襲被害者救済法の制定を急げ 宇都宮健児

 1945年3月10日未明の東京大空襲から79年となった。米軍の無差別爆撃で東京の下町は火の海となり、一夜で約10万人が犠牲となった。米軍の空襲は東京だけではなく、大阪、名古屋、神戸など全国200ヵ所以上の都市で敗戦まで行なわれ、多くの犠牲者が出たが、空襲被害の全貌はいまだに明らかになっていない。
 国は軍人・軍属や遺族に対してはこれまでに約60兆円の補償を行なってきているが、空襲などによる民間の戦争被害者に対しては原爆被害者など一部を除き、「戦争被害は等しく受忍すべきだ」(戦争被害受忍論)と主張して、まったく補償を行なってきていない。
 名古屋空襲で左目を失った故杉山千佐子さんが72年、全国戦災傷害者連絡会(全傷連)を設立し、民間の空襲被害者への補償を求める運動を始めた。この運動を受けて70~80年代、旧社会党を中心に民間人への補償をめざす戦時災害援護法案が14回にわたって国会に提案されたが、すべて廃案となった。2000年代には、東京、大阪、沖縄で空襲被害者が国に対し、謝罪と補償を求める集団訴訟を起こしたが、いずれも敗訴した。ただ2009年の東京地裁判決は「立法を通じて解決すべき問題」とし、立法的解決を促した。
 この判決を受けて10年に全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)が結成され、翌年には超党派の国会議員による空襲議員連盟(空襲議連)が発足した。
 空襲議連は、①空襲などで心身の障害を負った民間被害者への一時金の支給②国による空襲被害の実態調査③追悼施設の設置-を柱とする空襲被害者救済法の要綱案をまとめているが、自民党内の調整が進まず、法案はいまだに国会に提出されていない。
 日本と同じ第2次世界大戦敗戦国であったドイツでは、1950年、西ドイツで「戦争犠牲者の援護法」が制定され、軍人や民間人といった立場に関係なく、またドイツ国籍があるか否かに関係なく、被害に応じた補償が行なわれてきている。同じく第2次世界大戦敗戦国であったイタリアでも、78年、「民間被害者に軍人と同等の年金を支給する関連法」が制定され、民間の戦争被害者にも補償が行なわれている。
 また、第2次世界大戦の戦勝国であったアメリカやイギリス、フランスでも、軍人に限らず、民間の戦争被害者に対する補償が行なわれてきている。
 このような主要国の対応を見てくると、「戦争被害受忍論」を振りかざして民間の戦争被害者に対する補償を拒み続けている日本政府の対応は、異様であるとしか言いようがない。
 日本政府は、軍人・軍属と差別することなく空襲被害者など民間の戦争被害者に対しても、同じ戦争被害者として補償を行なうべきである。
 現在では空襲被害者の多くが高齢化しており、空襲被害者の救済を求める運動を担ってきた被害者の中でも亡くなる人が相次いでいる。高齢の空襲被害者にとって残された時間は少ない。国は空襲被害者救済法の制定を急ぐべきだ。(p.62)

 戦前・戦中の日本政府が犯した国策の誤りを認めず、それによって亡くなった(殺された)死者に対する償いをしない戦後・現在の日本政府。要するに、戦前の日本政府と現在の日本政府には連続性があるということです。ということは、私たちを犠牲にした無謀な国策の強行を、現今の自公政府はこれからも何度でも繰り返すつもりなのでしょう。米軍の下請けとなっての台湾有事への対応しかり、核(原子力)発電への拘泥しかり。あらためて"政治の貧困"を深く深く嘆くとともに、それを許容するあるいは無関心な有権者の意識の貧困をも嘆かざるをえません。
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鶏肋 sabasaba13 Sun, 15 Dec 2024 07:51:30 +0900 2024-12-15T07:51:30+09:00
『エターナルメモリー』 http://sabasaba13.exblog.jp/33638929/ http://sabasaba13.exblog.jp/33638929/ <![CDATA[_c0051620_09370569.jpg "もう一つの9・11"をご存知でしょうか。1973年9月11日にチリで起きた、ピノチェトによるクーデターです。以下、ウィキペディアから引用します。


 1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。
 こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。

 アメリカ政府と企業の利益を妨害する勢力を抹殺するための介入、アメリカ十八番の国家犯罪の一つだと理解していたのですが、『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン 岩波書店)で、もっと深い意味があったことがわかりました。今、世界を奈落の底へ落しつつあるいわゆる新自由主義、「公共領域の縮小+企業活動の完全自由化+社会支出の大幅削減」という三位一体の政策を、チリに押しつけるために仕組まれたクーデターだったのですね。その黒幕には、アメリカ政府・CIA・アメリカ企業がいたことは論を俟ちませんが、新自由主義の教祖ともいうべき経済学者ミルトン・フリードマンが育てた弟子たち「シカゴ・ボーイズ」がいたことは見過ごされています。ナオミ・クラインは、新自由主義という経済的ショック療法を実施するための素地としてクーデターというショックを与え、さらに拷問というショックにより反対勢力を沈黙させる、つまり三つのショックを組み合わせて新自由主義的経済政策を強要するというはじめての生きた実験がなされたのがチリであったと指摘されています(p.99)。この"ショック・ドクトリン"はその後近隣諸国で、そして30年後のイラクでもくり返される。つまりチリ、新自由主義という反革命の、そして恐怖の起源であったと述べられています。
 以上、ある意味で現在のおぞましい世界の出発点となったのがチリなのですね。よってチリの現代史には興味をもっており、映画だけでも『チリの闘い』、『夢のアンデス』、『ミッシング』、『サンチャゴに雨が降る』、『セプテンバー11』といった作品を観てきました。
 そしてチリの現代史を描くドキュメンタリー映画『エターナルメモリー』が公開されました。公式サイトから引用します。


 著名なジャーナリストである夫、アウグスト・ゴンゴラと、国民的女優でありチリで最初の文化大臣となった妻、パウリナ・ウルティア。20年以上に渡って深い愛情で結ばれたふたりは、自然に囲まれた古い家をリフォームして暮らし、読書や散歩を楽しみ、日々を丁寧に生きている。そんななかアウグストがアルツハイマーを患い、少しずつ記憶を失い、最愛の妻パウリナとの思い出さえも消えはじめる―。本作は、アルツハイマーを患った夫アウグストと、困難に直面しながらも彼との生活を慈しみ彼を支える妻パウリナの、ささやかな幸せにあふれる丁寧な暮らしと、ふたりの愛と癒しに満ちた日々を記録した感動のドキュメンタリーであり、真実のラブストーリーだ。
 『83歳のやさしいスパイ』(2020)でチリの女性として初めてアカデミー賞にノミネートされたマイテ・アルベルディが監督を手がけ、本作で自身二度目となるノミネートをはたす快挙を成し遂げた。

 これはぜひ観てみたい。山ノ神は所用があるので、一人でアップリンク吉祥寺で観てきました。
 二つのストーリーが同時進行のかたちで描かれます。まずはアジェンデによる民主主義体制を葬り去ったピノチェト政権による独裁政治と、それに闘いを挑んだジャーナリストのアウグスト・ゴンゴラとパウリナ・ウルティアを描きます。厳しい弾圧のもと、この間に起きた出来事を記録し、後世に残すべく尽力するアウグスト。彼が自分の著書をパウリナに贈ったときに書き添えられた一文が心に残ります。


 パウリナ これは6年かけて書いた本だ 私にとって大切な本だから 今日君に贈ろう この本には痛みがあり 恐怖を訴えている でも同時にたくさんの気高さがある 記憶は封じられているがこの本はあきらめない 記憶を持つ人は勇気があり 種をまく人だ 君のように 記憶を知る人は勇気があり 種をまく人だ
愛を込めて アウグスト 1997年1月15日

 ちなみにチリが17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになったのは、1990年のことです。


 もう一つのストーリーは、アルツハイマーを患った夫アウグストと、彼を誠心誠意ケアをするパウリナを描きます。日々アルツハイマーが進行し、記憶をじょじょに失い、妻の存在すら忘却してしまうアウグストの痛々しい姿には心を締めつけられました。知識としては多少は知っていましたが、リアリティをもってこの病の現実を知ることができました。そして日々、彼と会話をし、散歩をし、寄り添うパウリナの姿には心打たれました。時には自分が所属する劇団の練習に彼を誘い参加させるなど、他者とのつながりの中に繋ぎとめようとする彼女に姿勢には感銘を受けます。『ケアの倫理 -フェミニズムの政治思想』(岩波新書)の中で岡野八代氏はこう述べられています。


 わたしたちは、善く生きるためには、ケアに満ちた生活、つまり、必要なときにしっかりと他者からの配慮や資源、そしてじっさいに手を差し伸べられる、そうしたことが期待できる生活が必要であることをいやというほど知っている。(p.317~8)

 過剰でも過小でもなく、必要なときにしっかりと手を差し伸べる、アルツハイマー患者と向き合うときの要諦を、実践されていたことがよくわかります。


 個人にとっての、そして社会にとっての記憶の重要性を伝えてくれる佳作でした。なおアウグスト・ゴンゴラ2023年に死去にされました。合掌。
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映画 sabasaba13 Sat, 14 Dec 2024 08:31:19 +0900 2024-12-14T08:31:19+09:00
食とマイクロプラスチックの関わりについて http://sabasaba13.exblog.jp/33638287/ http://sabasaba13.exblog.jp/33638287/ <![CDATA[ 先日、「ココネリ」でマイクロプラスチックに関する講演会が開かれたのでいってきました。タイトルは「食とマイクロプラスチックの関わりについて」、講師は東海大学海洋学部水産学科の清水宗茂氏、主催は練馬・生活者ネットワークです。この問題が深刻なのは漠然と知ってはいましたが、もっと詳しく学びたいと思っていたので好機です。以下、私の文責で講演の要旨をまとめます。


 まずプラスチックとは何か。主に石油に由来する高分子物質(主に合成樹脂)を主原料とした可塑性の物質であり、石油から得られるナフサが原料である。その長所は、まず汎用性が高く用途が広い、そして耐久性があり軽量、費用対効果(コスト・パフォーマンス)が高い。短所としては、環境に与える影響、再生不可能な石油資源への依存、リサイクルの難しさ、そして健康への悪影響が懸念されるマイクロプラスチックである。プラスチック製品は時間が経つとマイクロプラスチックと呼ばれる小さな粒子に分解されることがある。この粒子は、海や土壌や人体など、さまざまな環境から発見されている。マイクロプラスチックの摂取が人の健康に与える影響については、現在も研究が進められている。
 マイクロプラスチック(MP)とは、大きさが5mm以下のプラスチックであり、一次的MPは洗顔剤や歯磨き粉など海洋に排出されたマイクロビーズ、二次的には海洋プラスチックごみが紫外線と波動などの力により崩壊・細片化してできたMPである。2050年には、海のプラスチック重量が魚の重量を越え、魚介類のほとんどがMPを含んでいると予想されている。
 多くの魚介類や、塩、飲料水、ビール、缶詰などの一般食品にもMPが存在することが確認されている。そしてMPが人や生物の「健康」に及ぼす悪影響が懸念される。微小MPは、腸のバリア機能を通過することが可能であり、微小MPを摂取したマウスや人ではさまざまな臓器にMPが蓄積される。MP接種により炎症反応が亢進し多くの疾病リスクが懸念される。MP摂取による健康リスクは将来顕在化する可能性が高い。しかしプラスチックは私たちの暮らしに必要不可欠なものとなっており、実際問題としてプラスチックなしの暮らしは考えられない。よって摂取したMPを速やかに体外排泄することが必要となる時代が到来する。しかしMPの体外排泄に着目した研究はない。
 私はそれについて研究をしているが、微小MPを体外排泄できる食素材が見つかれば、MPの体外排泄が可能となる。研究の結果、カニやエビの殻に含まれるキトサン群にその効果があるということがわかってきた。将来的には、MP排泄食素材により摂取しても排泄可能なサプリや食品を開発することが課題である。また餌や飼育方法を開発し、MPフリーの食材を生産できるようにしたい。

 なお資料としていただいた「生活者通信」(№396 24.9.1)の中で、生活者ネットワーク都議会議員の岩永やす代氏がこう指摘されていました。


 人工芝は、クッション性に優れメンテナンスの手間が少なく便利ですが、使用や劣化によって削れMPとなって下水道や河川に流出します。また、人工芝には、汚れの付着防止やすべりをよくするためにPFASを含めて多くの化学物質が使用されており、流出だけでなく人体への影響も懸念されています。実際に、化学物質過敏症の人からは、日光、紫外線によってプラスチックが劣化し、温度の上昇によって有害な化学物質が揮発して臭いがすると指摘されています。

 うーん、あらためて科学技術の発達の功罪について考えさせられました。私たちの暮らしをとてつもなく利便にする一方で、恐るべき悪影響も同時にもたらしているのですね。マイクロプラスチックしかり、放射能しかり、PFASしかり、二酸化炭素の過剰排出しかり。もはや後戻りはできません。けれどもせめて、そうした悪影響について知り、いかにしてそれを食い止めていくか真剣に考えなければならないと思います。学びましょう。


 三枚目の写真は、宮古島の海岸です(!)。
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講演会 sabasaba13 Fri, 13 Dec 2024 08:35:57 +0900 2024-12-13T08:35:57+09:00
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