「魯迅評論集」

 「魯迅評論集」(竹内好編訳 岩波文庫)読了。まずは本書を編訳した中国文学者・竹内好氏の力強い言葉を紹介しましょう。
 私たちがなやみ、おそれ、ともすれば勇気を失いそうになるとき、それとおなじなやみをかつてなやみ、おそれに直面し、しかも勇気を失わなかった一人の人間がいたことを発見したとすれば、その人間はもはや、私たちにとって他人ではなくなるだろう。古人でもなく、外国人でもないだろう。私たちの血縁であり、私たち自身であるだろう。(p.3)
 欧米・日本による植民地化、軍閥たちの内戦、国民党と共産党の対立、そして覚醒しない民衆、苦難の時代を炬火をかかげて生き抜いた魯迅。本書は、寸鉄人を刺す魯迅の数多い随筆の中から、彼の最も良き理解者である竹内好氏が選りすぐったアンソロジーです。収録されている随筆は、「『墓』の後に記す」、「花なきバラ」、「花なきバラの二」、「忘却のための記念」、「深夜に記す」、「随感録抄」、「「フェアプレイ」はまだ早い」、「どう書くか?夜記の一」、「小雑感」、「半夏小集」、「徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線の問題について」、「死」、「ノラは家でしてからどうなったか」、「革命時代の文学」、「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」、「上海文芸の一瞥」、「私は人をだましたい」。とてつもなく凄惨な状況におおわれている日本および世界、ともすれば挫け勇気を失いそうになりますが、魯迅が残してくれた言葉を細いけれど丈夫でしなやかな杖にして歩んでいきたいと思います。楽観もせず悲観もせず、長い夜に包まれた長い道を…
 人生は苦しいことが多い。が、そのくせ人は、ごく簡単に慰められることもあるのだ。(p.10)

 私の文学を偏愛する顧客には一点の喜びを、私の文学を憎悪する連中には一点の嘔吐を与えたい―私は、自分の狭量はよく承知している。その連中が私の文学によって嘔吐を催せば、私は愉快である。(p.11)

 血債はかならず同一物で返済されねばならない。支払いがおそければおそいほど、利息は増さねばならない。(p.30)

 若いものが老いたもののために記念を書くのではない。そしてこの三十年間、私が見せつけられたのは青年の血ばかりだった。その血は層々と積まれてゆき、息もできぬほどに私を埋めた。私はただ、このような筆墨をもてあそんで数句の文章を綴ることによって、わずかに泥のなかに小さな穴を掘り、そこから喘ぎをつづけるだけなのである。これは、いかなる世界であろう。夜は長く、道もまた長い。(p.46)

 暴君の治下の臣民は、おおむね暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政は、しばしば暴君治下の臣民の欲望を満たすことはできない。(p.71)

 暴君の臣民は、暴政が他人の頭上で暴れてくれるのを望むだけだ。自分はおもしろがって眺め、「残酷」を娯楽とし、「他人の苦痛」を見世物にして、慰安にするだけだ。
 自分は「運よく逃れた」のが自慢の種である。(p.71)

 むかし景気がよかったものは、復古を主張し、いま景気のよいものは、現状維持を主張し、まだ景気のよくないものは、革新を主張する。
 相場はこんなところだ、相場は! (p.100)

 しかもなお、ひとりの子とひとりの親、ひとりの死ぬものとひとりの生きるもの、死ぬものは心配せずに死んでゆき、生きるものは安心して生きる。嘘をいうこと、夢を見ることは、このような場合には偉大さを発揮するものです。それゆえ、私は思う。もし道が見つからない場合は、私たちに必要なものは、むしろ夢であります。(p.142)

 ですから、ノラのためには、金銭―高尚な言い方をすれば経済ですが、それがいちばん大切です。もちろん、自由は、金で買えるものではありません。しかし、金のために売ることはできるのです。人類には、ひとつ大きな欠点がある。絶えず腹がへることです。この欠点を補うためには、傀儡にならぬようにするためには、現在の社会にあっては、経済権がもっとも大切なものとなります。第一に、家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、第二に、社会にあって、男女平等の力を獲得することが必要です。残念ながら、その力がどうやったら獲得できるか、ということは、私にはわかりません。やはり闘わなければならない、ということがわかっているだけであります。そして、それは参政権を要求するより、もっと激烈な戦闘が必要なのではないか、という気がいたします。(p.144)

 経済の面で自由を得たら、それで傀儡ではなくなるか、と申しますと、やはり傀儡であります。ただ、自分が人から操られることは減りますが、自分が操ることのできる傀儡はふえる、というだけのことであります。(p.147)

 ただ、人間は腹をへらせて理想世界の来るのをじっと待っているわけにはいかないので、少なくとも喘ぎだけは続けていなければならない。ちょうど轍に取り残された鮒が、わずかの水をほしがるのと同様です。まず、この比較的手近な経済権を要求しまして、それとともに、他方において別のことを考えるわけであります。(p.148)

 民族のなかには、苦痛を訴えても役に立たぬので、苦痛さえ訴えなくなる民族もあります。そうなると沈黙の民族となって、ますます衰えてゆきます。エジプト、アラビア、ペルシア、インドは、もう声さえ立てなくなりました。ところが、反抗性に富み、力のみなぎっている民族は、苦痛を訴えても役に立たぬところから、目ざめます。そして、泣き言を怒号に変えるのです。怒号の文学があらわれるようになれば、反抗はもう間近い。かれらには怒りがみなぎっている。(p.155)

 しかし、いやしくも戦闘者としては、革命とその敵を理解するためには、むしろより多く当面の敵を解剖しなければならないでありましょう。(p.207)

by sabasaba13 | 2011-03-25 06:14 | | Comments(0)
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