クリスマス・キャロル

クリスマス・キャロル_c0051620_13381116.jpg 先日、劇団昴の劇『クリスマス・キャロル』を、練馬文化センター小ホールで山ノ神といっしょに観てきました。そう、チャールズ・ディケンズの名作です。脚色はジョン・モーティマー、翻訳は石川麻衣、台本・演出は菊池准[演劇企画JOKO]です。
 お恥ずかしい話ですが、ディケンズの小説で読んだことがあるのは『デイヴィッド・コパフィ-ルド』と『オリバー・ツイスト』だけで、『二都物語』も『大いなる遺産』も未読です。『クリスマス・キャロル』については、おおまかなストーリーは知っているのみ。どんな劇に仕上がっているのか楽しみです。
 チラシからあらすじを引用しましょう。

 クリスマス・イブの夜。けちで頑固、偏屈な老人スクルージは死んだ同僚マーレイの幽霊と過去・現在・未来の聖霊たちに導かれ、時空を超え不思議な時間を過ごす。彼がそこに見たものは孤独だった少年時代、温かな家族の営み、そして未来に待つ怖ろしい光景。すべての時間が過ぎた朝、スクルージの心にあたたかな光が差し込む。

 導入部、スクルージの冷酷な守銭奴ぶりが印象的に演じられます。従業員を安い給料で酷使し、クリスマスの寄付にも頑として応じず、クリスマスを愚かな馬鹿騒ぎとして蔑視します。さらには「貧しい連中が死んでしまえば人口が減って結構だ」とうそぶく始末。貧乏人には生きている価値がなく、他者を蹴落として豊かになった者が尊いという社会。ここから経済成長を軸とする近代化が始まったのでしょう。カール・ポランニーも『大転換』(東洋経済新報社)の中でこう語っています。

 19世紀的文明は、人類社会史上健全なものとはみなされたことのほとんどなかった動機、しかも、以前には日常生活における活動や行動の正当化原理に高められたことなど絶対になかった動機、すなわち利得動機に基礎を置くことを選んだのだった。自己調整的市場システムは、ほかならぬこの原理から導出されたのだ。
 利得動機のつくりだしたこのメカニズムに、効力の点で歴史上匹敵しうるのは、最も狂暴に噴出した宗教的熱狂以外にはありえない。一世代のあいだに、人類世界全体がこのメカニズムの圧倒的な影響力のもとにさらされてしまった。(p.39)

 その時代精神の体現者とも言うべきスクルージを、どこか憎めない人物として宮本充が見事に演じていました。反感を覚えると同時に、なぜこんな人間になってしまったのか知りたくなります。
 その夜彼の前に現れたのは、7年前に死んだ同僚マーレーの亡霊。彼は鎖でがんじがらめとなっていますが、生前に金儲けのために他人を蹴落としたことが鎖となって、自分を苛ましていると告げます。そしてスクルージがそうならないように、過去・現在・未来の三人の聖霊を遣わして彼に反省を促します。スクルージを少年時代や壮年時代に立ち返らせて、なぜ彼が強欲な人間になったのか、その結果孤独に陥ったかを思い起こさせる。現在、彼は周囲からどう思われているかを、さまざまな人びとから語らせる。そして将来、彼はどんな悲惨なことになるのかを暗示する。歌や踊りを交えながら、スピーディーに場面を転換していく演出はお見事でした。
自分の生き方を真摯に振り返り、反省し、生まれ変わろうとするスクルージを宮本充がコミカルな味わいとともに好演していました。
 そして強欲を捨てて周囲と和解し、充実した喜ばしき新たな人生へと踏み出すスクルージ。「親切は世界を救う」というカート・ヴォネガットの言葉を思い起こさせる後味の良い幕切れでした。

演技や演出も良かったのですが、何といってもディケンズの原作が秀逸です。『オーウェル研究 ディーセンシィを求めて』(佐藤義夫 彩流社)の中にこういう言葉がありました。

 ディケンズはただ、お説教を垂れているだけである。ディケンズから最終的に引き出せることは、「人間が真っ当な振る舞いをしようとすれば、この世の中は真っ当なものになるだろう」("If men would behave decently, the world would be decent.")ということだけである。ディケンズが今も人気があるのは、人々の記憶に残るような仕方で庶民の「ネイティブ・ディーセンシィ」(生まれつき持っている人間の真っ当さ)を表すことができたからである。ディケンズの顔とはいつも何かと闘っている人の顔であり、恐れずに正々堂々と闘っている人の顔であり、静かに怒っている人の顔である、とオーウェルは述べている。(p.192)

 強欲、金儲け、競争、不和、憎悪と不安が渦巻く今の日本、そして世界を連想させる、他人事・過去の事とは思えない、身につまされる芝居でした。でも"人間には生まれつき持っている真っ当さ"があるというディケンズのメッセージを信じ、希望をつなぎましょう。
 劇団昴のみなさま、ぜひこの芝居を衆議院第一議員会館で上演して、改心する前のスクルージのような自由民主党のみなさんに観せてあげてください。

 自民党という衣服は、政治資金という一本の糸だけで縫い合わされており。この糸に異変が起きれば、さしもの巨大な衣服も一挙に解体を余儀なくされてしまう。(田中秀征)

 追記です。この芝居のポイントはクリスマスに起きた出来事にあると思います。そう、言うまでもなくイエス・キリストが生まれた日です。彼の唱えた最も重要な教えとは何か。いろいろな意見があるかとは思いますが、富の私有・貧富の差を否定したことにあると私は考えます。彼の"行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる""金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい"という言葉が、それを如実に物語っています。[マルコ伝(10章17-31節)・マタイ伝(19章16-30節)・ルカ伝(18章18-30節)] そうそうわが敬愛するカート・ヴォネガットが『追憶のハルマゲドン』(早川書房)の中で、面白いことを書いていました。

 もし、いまの時代にイエスが生きていたら、われわれはおそらく致死注射で彼を殺したでしょう。それが進歩というものです。われわれがイエスを殺す必要にせまられるのは、はじめてイエスが殺されたときとおなじ理由。彼の思想がリベラルすぎるからです。(p.36)

 またこの思想を受け継いだ聖フランチェスコ(1181/82~1226)は、教皇イノケンティウス3世の「一切の所有を認めないというのは厳しすぎないか?」という問いに、「もし所有を認めれば、それを守る腕力が必要となりましょう」と答えたというエピソードがあります。環境破壊・戦争とテロ・経済格差・人間の疎外というアポリアを解決する鍵は、このイエスや聖フランチェスコやの言葉にあるのではないでしょうか。そしてこの大義は、人類が、どこでも、いつの世でも、掲げ受け継いできた炬火だと信じます。中国では孔子が("寡を患へずして均しからざるを患ふ。貧を患へずして安からざるを患ふ")、イタリアではダンテが("あゝ慾よ、汝は人間を深く汝の下に沈め、ひとりだに汝の波より目を擡ぐるをえざるにいたらしむ")、ロシアではドストエフスキーが("わが国の民衆のもっとも高い、そしてもっとも鮮明な特徴―それは公正の感情とその渇望である。その人間に価値があろうとなかろうと、どこででも、なにがなんでも、かきわけてまえへ出ようとする雄鶏の悪い癖―そういうものは民衆にはない")、そしてインドではガンディーが("すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、誰もの貪欲を満たすに足るものは存在しない")説いたように。
 「人間の価値は貧富で決まり、貧しい人間は生きている価値がなく、そうなったのは自業自得で、そうならないために私たちは他者を蹴落とす激甚な競争を勝ち抜かなければならない」というメンタリティとそれが支えるシステムを改変し、native decencyに満ちた世界にしていきたいものですね。

by sabasaba13 | 2024-12-25 07:46 | 演劇 | Comments(0)
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