そして本に掲載されている地図を頼りに二十分ほどペダルをこぐと、虐殺の現場となった「なぎの原」に着きました。しかし私有地か共有地なのでしょうか、柵で囲われており中には入れません。
ここが先述した『震災日記』に"又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定"と記されていた場所です。合計六人の朝鮮人が殺害されてここに埋められました。
合掌
『地域に学ぶ関東大震災』によると、聞き取り調査によってこの事件が明らかにされたのが1973年、それ以来住民の方々は毎年慰霊祭を行なわれているそうです。それから25年経った1998年9月24日に「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」によって遺骨の発掘が行なわれました。大竹米子さんによると、地域住民を説得するのに時間がかかり、記録を残さず写真を撮らない、マスコミなど関係者以外は入れない、という条件で行なわれました。そして土に還る直前の遺骨六体が見つかりました。大竹さんによると、遺体はバラバラではなくきちんと重ねられて埋められていたそうです。なお発掘の費用は、「自分たちの問題だから」ということで全額この地区の方々が負担しました。
そして遺骨を火葬にし、
高津観音寺の納骨堂に納め、1999年には「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建立されましたが、その費用も地区の方々が負担したとのことです。なお実行委員会は、慰霊碑の裏に事件の概要を刻んで欲しいと望みましたが、「軍隊にやらされたとはいえ、今でも辛い」という住民の方々の思いにより、それはなされませんでした。
ブロンプトンにまたがり十五分ほど走ると、大和田新田にある「無縁仏之墓」に着きました。1972年に付近の住民によって建てられた墓で、このあたりで交通事故で行き倒れになった無縁の方との合葬だそうです。なお石の下に骨はおさめられていません。碑文には「大和田新田下区有志一同建立」とありました。
合掌
本日の二枚です。