福井・富山編(84):イタイイタイ病資料館(16.3)

 短時間でしたが、この資料館を訪れてよかったと思います。ただ加害企業はもちろん、被害を隠蔽あるいはできるだけ軽く見せようとした学者や行政に対する批判的な視線がもう少しあるべきではないでしょうか。以下、長文ですが引用します。

『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(津田敏秀 岩波現代文庫)
 1968年3月に提訴された第一審は患者原告側の全面勝訴となった。1971年9月に開始された控訴審の争点は、患者の症状とカドミウム曝露との因果関係が主なものとなった。
 この控訴審で、医学部教授という肩書きだけで、データにも基づかず不自然な学説を急に組み立てようとした学者がいた。金沢大学医学部教授、武内重五郎氏である。武内氏は、その後、数多く出現する学者の原型のような存在だった。イタイイタイ病弁護団は最初、イタイイタイ病カドミウム説を保持していた武内氏の論文を根拠にしていた。その武内氏が、突然自らのカドミウム説を捨てた。そして、イタイイタイ病の腎障害に関してはビタミンDの過剰摂取が原因であり、イタイイタイ病の骨病変に関してはビタミンDの欠乏によるものであるという、医学部以外の人が見ても極めて不自然な仮説を持ち出して、被告側が申請する証人として裁判で証言した。この仮説には裏付けるような医学的データはなく、武内氏が「そう思う」という仮説でしかなかった。しかし、現実の裁判ではそのような不自然な仮説が通用するものではない。反対尋問でビタミンD欠乏を否定された後、「その他に何がありますか」と尋ねられ、「他にもあります」と言い張るが具体的に挙げられないので、「家へ帰れば言えますか」と続けられ、「家に帰っても言えません」とまで証言せざるをえない状況に何度も追い込まれてしまった。彼はその後、東京医科歯科大学医学部教授に転任した。
 原告勝訴後もイタイイタイ病事件では、国と患者との間で、カドミウム曝露がどのような健康障害を引き起こすかについて長い論争があった。データからは明白な腎臓障害を、あくまで環境庁が認めようとしなかったのである。カドミウム問題では現在でも妙な動きが続いている。1998年、富山で開かれた国際シンポジウム(カドミウムシンポジウム)において、環境汚染による人体への影響を議論するための具体的データの揃え方や方法論をほとんど知らないのに、環境庁の後ろ盾で発言権を与えられ、学会や現場の議論とはほとんど関係のない発言をして議論を混乱させていた学者たちがいた。杏林大学医学部長、長澤俊彦氏と、東海大学医学部長、黒川清氏である。しかし彼らは、シンポジウムの報告書には自らが講演した内容を載せなかった。(p.229~31)


『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』 (山本義隆 岩波新書1695)
 水俣病にしろその他の公害にせよ、いずれも地元の献身的な医師や学校の先生、そして良心的な研究者の手によって患者の存在が確認され、原因とその発生源が突き止められてきたのだが、それから、実際に公害病と認定され企業の責任が問われるまで何年も、しばしば10年以上もかかり、その間にも被害が拡大し続けている。そしてこの過程には、かならずと言っていいほど「権威ある」大学教授や学界のボスの介入が見られる。時に「学識経験者」と称され、官庁や業界に関りをもつことの多いその教授たちは、企業サイドに立って、ろくに現地での調査もせずに、思いつきのような原因論を語る。富山のイタイイタイ病の場合も、地元の開業医・荻野昇医師の調査と研究でカドミウム中毒が突き止められたのにたいして、それを根拠もなく否定したのが、慶応大学教授で産業衛生の権威・土屋健三郎であった。(p.237~8)

 専門家と称する学者が、事故原因の隠蔽や患者の切り捨てに手を貸してきた歴史を世に知らしめること。その責任を追及し、きっちりと落とし前をつけさせること。私たちがそれをしていないがために、今また、同じことが福島でも起きています。
 そして広い視点からこの問題を見ると、近代日本は、弱者を犠牲にした経済成長に邁進してきたという事実に突き当たります。再び『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』(山本義隆 岩波新書1695)から引用します。

 歴史書には「慢性的な輸入超過により巨額の貿易赤字を抱えているなかで、輸出総額の5%を占める産銅業は重要な外貨獲得産業であり、日本最大の産出量を誇る足尾銅山に対して操業停止措置はとられなかった」とある。
 1905(M38)年1月23日、農商務省鉱山局長・田中隆三は衆議院鉱業法案委員会で「鉱業と云ふものは、其国家の一つの公益事業と認めている、随って其事業の結果として、他の人が多少の迷惑を受けるということは仕方がない」と明言している。そして1907年、鉱毒沈殿と渡良瀬川の洪水調節のためという触れ込みで計画された遊水池の予定地となった谷中村は、村民の反対にもかかわらず滅亡させられた。官民挙げての「国益」追及のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度もくり返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。(p.87~8)

 実は、公害問題の深刻化とともに、1964(S39)年には厚生省に公害課が設置され、67年には「公害対策基本法」が制定されていたのだが、環境保全を「経済の健全な発展との調和」を図って行うという「経済との調和条項」が抜け道となり、それは、実効性の乏しいものであった。1970年に総理大臣・佐藤栄作は「日本の繁栄は経済成長によるものであり、公害が発生しているからといって経済成長の速度をゆるめることはできない」と開き直っている(『朝日新聞』 1970.7.29夕刊)。半世紀以上前、農商務省鉱山局長・田中隆三はまったくおなじ論理で足尾銅山を擁護した。経済成長を追い続けた近代日本の歴史は、つねに弱者に犠牲を強いてきたのである。(p.242~3)
 言うまでもありませんが、経済成長を追い続ける現代日本も、つねに弱者に犠牲を強いています。安倍政権によるメディア・コントロールは、この厳然たる事実を有権者の眼から隠すためという目的もあるのでしょう。誰かを犠牲にした経済成長路線を続けるのか、やめるのか。やめるとしたら、この国のあり方をどのように変えるのか。日本はいま、ほんとうに大きな岐路に立っています。それを決めるのは学者でも政治家でも官僚でもなく、私たちひとりひとりなのだということを銘肝しましょう。
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by sabasaba13 | 2019-12-20 06:18 | 中部 | Comments(0)
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