無言のまにまに

無言のまにまに_c0051620_16515882.jpg 長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」の設立に尽力した窪島誠一郎氏を主人公にした『無言のまにまに』という劇が上演されているそうです。これはぜひ見てみたい。「無言館」は以前訪れたことがあるので、よろしければご笑覧ください。

 好月好日、山ノ神を誘って両国にあるシアターXに観劇に行きました。トム・プロジェクト・プロデュースによる公演で、作・演出は、ふたくちつよし。プログラムに氏の言葉が載せられていたので紹介します。

 この作品の初稿を書き始めたのは昨年の六月頃だったと思います。コロナの影響を受けて公演中止に追い込まれる芝居の数も増え、人との距離の取り方も大きく変わり、人々の関心もそちらに大きく傾いていた頃でした。すでに決まっていた「無言館と戦没画学生たち」といった題材をいったいどういう切り口で書き進めればいいのか…。
 答えが出ないままに、信州上田にある無言館をひとり訪ねました。平日の朝、梅雨の晴れ間の木漏れ日がこぼれる山あいに、ひっそりと佇むようにその建物はありました。背の高い木の扉を開けると静寂につつまれた館内でその絵たちは何も言わず私を迎えてくれました。今、目の前にあるこの絵を描いた方々がことごとく戦死されている…。一枚一枚と対話する中で、その向こう側に垣間見える遺された家族の方々の思いまでもが私に語りかけてくるようでした。
 そして、稿を重ねていた今年の二月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。この争いの善し悪しを判断する術を持たない私に、その是非を軽々に語ることはできません。しかし、理不尽にもその影響を一番に被るのは、いつの時代もそこに暮らす人々のような気がしてなりません。そんな思いが皆さまのお心に届きますように。

 冒頭の場面は、戦没画学生の絵を求めて旅をする小宮山豊治(原口健太郎)と坪島啓一郎(高橋洋介)から始まります。
 坪島は貧しい家庭に育ち、しかも両親が実の親ではないことを知って心が荒み、その虚しさを豊かさによって埋めようとひたすら金儲けに明け暮れます。しかしそれがさらに虚しさを深めていきます。息子を案じるとともに真実を打ち明けるべきか逡巡する育ての母マツ(斉藤とも子)と、親子の不和に悩む妻・由紀子(吉田久美)も、心の葛藤をうまく演じていました。事実に基づいているのでしょうが、単なる「いい話」にしないで、生きることの意味を見出せないで金儲けに逃避する人物を主人公にすることで、劇に深みが出てきました。
 そして小宮山から戦没画学生が残した絵を紹介され、彼らのことを知り、遺族の想いに触れ、何よりも彼らが描いた絵を見ることによって、坪島は生きることの意味を見つけていきます。その過程で、実際の絵が舞台上にスライドで大きく映し出されるのが実に効果的です。「生きて絵を描きたい」という画学生の燃えるような気持がびしびしと伝わってきました。最後は義理の両親と和解をし、そして「無言館」が完成する場面で幕となります。

 充実した社会保障など眼中にない自公政権のもと、自己責任による蓄財へと追い立てられる私たち。生きるとは金を稼ぐことなのか、稼げない人間には生きる価値はないのか、そういう空気が充満している今だからこそ多くの人に見てもらいたい劇です。いや違う、生きる意味も価値もあるのだと言うために。そしてそれをもたらしてくれる大切なものの一つが芸術なのだとあらためて痛感しました。
 なお最近読んだ『日本再生のための「プランB」 医療経済学による所得倍増計画』(兪炳匡 集英社新書)の中に、次のような一文がありました。

 公的医療保険制度の維持に最も必要なものは、財源でもエリート人材でもなく、「社会的連帯という価値観」です。社会的連帯を支える柱の一つは、「自分も明日、病気・怪我・失業が原因で社会的弱者になり得る」という想像力です。このような想像力の涵養には、人文科学・芸術の力が必要です。(p.114)

 そして戦争が起きると私たち庶民はどうなるのか、それを想像する力を与えてくれるのも芸術だと確信します。

by sabasaba13 | 2022-10-24 08:56 | 演劇 | Comments(0)
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