フジカ ZX300
AKBはそろそろ終息するようだ。あっしも基本的には48系も、そのマガイモノのガールズグループも関心がない。スクール女子や二十歳も過ぎてスクールの気分でいたい女子なんて関心がないからな。しかし、市場展開とその終息には関心がある。終息を感じたのは、最近、秋元のゴーストライター(というと語弊があるかもしれないから協力者)の顔と名前が露出し始めたことだ。AKBの「売り物になる歌とダンス」を創出して統括するのは秋元一人は不可能だからな。規模が大きすぎるしね。なので「影モノ」として実行部隊を形成した方が露出をし始めたのは、「影モノ」の方を売り出すことによって影の立場から「表」に導いているのだろう。秋元は「鬼」だが、独り勝ちは業界的にも遺恨を残す。既に秋元の「次の仕事」は着手し始めているだろうが、業界で戦争をする以上、遺恨は残さないのがスマートだ。
また、「じゃんけん選抜」の視聴率が7%代と低迷していたのは、市場との剥離が数字化している。コアメンバーが離脱したから求心力を失った見方もあるだろうが、AKBの構成とビジネスモデルが市場に鈍くなったのだろう。拙僧が秋元を憎しと思っているのは、拙僧が思春期の頃は「おニャン子クラブ」だった。アホみたいな話で21世紀の現在に説明するのは難しいのだが「おニャン子でなければ人で非ず」という風潮が辺境のイルクーツクであった。当然、モスクワ放送を聞いているような拙僧は糾弾の的になったのだ。
素人の娘さんを束にして、求心力のあるメンバーをスピンオフしてトピックスとして売り出だす。コアターゲットは同世代の若い男女と、モデリングはAKBに近い。しかし、「おニャン子クラブ」が決定的に違うのはフォロワー層の形成である。「おニャン子クラブ」には会員番号を振り分けており、その番号が若いとか、コアメンバーと同期するとかで上位と下位が存在するカーストを形成していた。これは「ゆとり教育」などは無縁で、学歴社会や教員からの暴言や暴力が当然だった、昭和において分かりやすい組織構成であった。しかし、AKBのフォロワーは上位や下位の確定を嫌い、小単位の組織は構成してもセクト闘争を限りなく避けている。大事なのは「お友達感覚」だ。「ゆとり教育」の世代は評価を極端に嫌い、人間的な上下関係に極めて脆い。しかも、安易にアイドル(シンボル)に傾倒するから、連中の少ない可処分所得から効率的に持続的に金を抜き取るには劣等感を感じず、フラットに金を払わせるがビジネスモデルとしては冴えたものだろう。
では、供給側はどうだろうか。つまり、AKBをやっている女子の連中である。AKBの競争率は高く、組織は強権的で抑圧的だ。フォロワー層は上下関係を避けているが、AKBの自身は明確な序列が存在するし、しばしば粛清や自己批判にさらされる。AKBのポリシーは「会えるアイドル」だが、これは既に機能していない。拙僧がAKBに会いに行こうとしても膨大な資金と時間の消費が避けられないからな。嫌ですよ、聞きもしないCDをロット買いするなんて。「フォロワーと成長を共有する」については、AKBがヒットした主軸のポリシーである。AKBのメンバーとして参加する為には「不合理な抑圧」「競争(選挙)」「肉体的・精神的に高負荷の訓練」「権威(秋元)への従順」が必須である。「不合理な抑圧」は、簡単には「恋愛禁止」などのカルマ、或いは秋元という権威に対する従順を約束する焼印だ。これらは「ゆとり教育」の世代が最も嫌い、恐怖を感じる事態だろう。しかし、これらは「ゆとり教育」の学校では避けられても、「競争的で屈辱的」な社会への参加で直面せざるを得ないのだ。「ゆとり教育」の若い連中も「ゆとり」などという教師や社会の誤魔かしが幻だと認識しているのだろう。なのでAKBの「華」と「抑圧」は、若い連中の不可避な将来をシミュレートしているのかもしれにないな。つまり秋元程度の「権威主義」は彼・彼女らが社会参加した時に直面する「権威主義」に比べれば、軽いものだ。
もう一つ、AKBと同期するのがスクールカーストである。要するに、クラス、或いは同学年で「人気者」が頂点となって「下位の臣民」までの序列や階層化が存在する。具体的には「1軍・2軍・3軍」とか「神・人間・隷属的」といったクラスで表現される。「人気者」が唯一の存在ではなく、「キャラ作り」により複数が存在し、しかし明確なセクト抗争には発展しないケースが多いようだ。詳しく書き出すと長くなるので簡単にしか触れないが、スクールカーストの序列は「キャラ作り」や「コミュニケーションリーダーシップ」の要素が大きい。我々がティーンエイジの頃も「人気者」と「あぶれ者」の構図は存在したが、それは「学力」や「運動力」、或いは「特定のジャンルに特化した知識」といったスキルを中心として形成した序列だった。これらは、努力や実生活による経験値で向上が可能であり、イニシアティブを発揮しなくても「xx君は科学だったら誰にも負けないよね」というような存在意義を構成できた。そういう意味で言うと、「不良・ヤンキー」というのも存在意義の確保としては可能な選択肢だ。しかし、現在のスクールカーストの序列はAKBや「ひな壇トーク番組」に准じており、一度でも「駄目キャラ」や「一発キャラ」の烙印を押されてしまったら、立場の逆転はほぼ不可能だ。最近では「倍返し」が人気言葉らしいが、まず「倍返しキャラ」を確立しなければならない。それは、後天的な努力では、ほぼ不可能だな。拙僧の幼少期は「ドラえもん」で人間関係のロールモデルを理解できたが、秋元や「食わせ者のTVディレクター」の作成するロールモデルはシンプルに見えるが、背後では複雑な利益関係が交錯しており、ティーエイジのロールモデルとしては適応は難しいな。それでいてSNSやスマートフォンの時代だから、ムーブメントやプライオリティの速度や展開範囲は予測不可能である。芸人の「おふざけ」を「芸」としてTVに公開する為に、頭のいい連中がいかに権限を交渉し、利益の創出と確定、或いはリスク管理をしているのか、スマートフォンで見ている連中には全くわからないだろう。やっていることが簡単に見えるので、レストランの冷蔵庫に入ってWebで公開するのだが、「芸人」がやるプロ仕事は同じような事をやっているように見えて、実は高度な創造と調整・交渉がバックボーンにあるのだ。「プロの芸」と「素人のおふざけ」は格差が広がる一方なのだが、差異の認知は凄く難しくなっている。
AKBの終息と言っても、あれだけの規模になるのだから、一気に消滅というは難しいだろう。ハロプロのように無印良品として一定のクオリティを維持して細く長い組織にするのか、或いはクオリティの高い素材を抽出して別のビジネスモデルを展開するかは分からない。時間軸としても短期で終了するのか数年のスパンを要するのかも分からない。アイドル養成校からタレント事務所、広告主まで複雑に利権が交錯しているので、秋元の一存では決めかねるだろうが、秋元自身はそろそろ休息か次のビジネスモデルに関心が移っているだろう。
今月(2013年9月)でシングル8の純正サービスが終了した。既にシングル8なんてのは大昔から終息どころか終焉していた。日本全国でもシングル8を定期的に消費していた方は48グループの研究生を含めた総数よりも少ないんじゃないかな。最後に残った1本は伊勢神宮で使うことにした。最後の華を咲かせるにはふさわしステージだろう。カメラは、思い切ってフジカZM800を使いたいとも思ったのだが、運動会を撮影するわけじゃないし、ファミリーシネマには広角寄りのフジカZX300が適切だと思って動員した。あとから、レンズに手を加えた形跡を発見したが今更どうにもならないな。ファインダーでピントが合っているように見えたので大丈夫だろう。
フジフィルムにとってはシングル8の継続などと言うのは慈善事業だったろう。企業の良心というのは本当に存在するのだ。しかし、そういうのは供給者と消費者の関係がシンプルだから成立するのだろうな。SNSやWebクレーマー、番組のタレントの出来レースの是非など、めんどうな利権や「多様な価値観の御約束」の21世紀では、全く成立しないのが普通である。
2013年までシングル8が残ったのは奇跡としか言いようがない。そういう奇跡は今後、全く現れないだろうな。
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