幼かった恋が終わって、少しだけ大人になれた新しい恋の始まる予感。
うはー!
これはステキでした~!(≧▽≦)
6編の掌編が収められているのですけれど、そのどれもが失恋的な情景で進められていくのですよね。
想い続けていっても叶うことがない、関係を続けてもその先に倖せが見えない。
そんなシチュエーション。
もちろん、それとわかったからといって想いを止められるものではなくて、愛情を求めていくのは人間として普遍的行為なのだと。
ひとつの恋が終わるとき、それはなにかが掛け違えていたのだなぁ……とカンジさせられます。
掛け違いや間違い、それに気が付いて恋が終わるとき鈍い痛みのようなものをカンジるのですけれども。
その痛みが幼かった自分を少し大人へと成長させるクスリになっているなぁ……と。
幼い恋は純粋で作られているけれど、純粋でいることだけが恋の条件では無いのですよね。
疼痛に耐えながら、想いを精錬していく作業。
倖せとか、愛とか、そういうものはその作業の先にあるものなのですねぇ……。
いまだモラトリアムを彷徨う二十代の恋を描いた表題作「夏が僕を抱く」も良かったですけれど、わたしとしては浪人してしまった幼馴染みを意識してしまう「遠回りもまだ途中」も好きかなー。
この中で語られる――
「あたしもっともっと傷ついて岬に会いたい」 ――というセリフが今作を象徴している気がして。
ん?
いま気付きましたけれど、どの掌編も「幼馴染み」といった関係であるのかも?
その関係がずっと続いていたというものではなくて数年ぶりに再会したというケースがあるにしても、「幼い頃の相手を知っている」というトコロがポイントかも。
んー……。
これはオタには大好物のシチュエーション、ですか?(^_^;)
どのお話も要約すると恋が終わることを描いているので、いつものわたしなら「投げっぱなし」と揶揄するかもな結び方なのですがー。
いいや、違うねこれは!(笑)
ラスト、きちんと新しい恋への予感をカンジさせられますもん。
終わりがあって、次へと歩き出せる。
そんな余韻がステキな作品なのです。