人工知能=科学∩技術∩哲学『人工知能のための哲学塾』
人工知能は、科学、技術、哲学が交錯するところにある。「知能とは何か?」を問うのが哲学であり、この問いを探索するのが科学であり、実現するのが技術になる。最近の人工知能ブームでは、科学と技術に目が行きがちだが、本書は根本のところから応えようとしている。新しく見えるだけの場所から離れ、現象学や認識論を俯瞰することで、現在の人工知能の限界が逆説的に見えてくる。
ブームに乗っかって、たくさん本が出ているが、わたしが求める「本質」は無い。たいていの人工知能本は、「考える」が本質であるといい、意思決定用のモジュールを積めばよしとする。「考える」とは何かという問いは保留され、おなじみの「入力→処理→出力」ルーチンに落とし込まれる。
そして、意思決定のためのデータを機械学習で増やしたり、アルゴリズムに動的にフィードバックさせる話になる。プロ棋士に勝つソフトウェアや、自動運転、人間そっくりの受け答えをするAIは、たしかに凄いのだが、なにか違う。
わたしが求める本質とは、「考える」とは何かという問いかけに向かうもの。認知科学を齧ると、ヒトは脳以前に「考える」に近似した処理をしていることが分かるし([野性の知能])、分析哲学を読むと、「考える」基となる言語には身体的なメタファーが付いて回っていることに気づかされる[レトリックと人生]。
コンピュータに喩えるなら、データは環境に埋め込まれており、それを取得する方法に既に一定の意味が付いてくる。その「意味」は、いま解決したい問題によって解釈が変わってくる。同じクラスでも、状況によって異なるインスタンスが生成される(鉛筆がマドラーになったり武器になったり)。さらにいうなら、問題によって何をデータとみなすのか? という問いすら変わってくる。
こうした問題意識に対して、以下の演目で応えてくれる。次に進むべき領域が見える議論もあれば、わたしが見落としていた観点もあり、積読山がさらに高くなる。
第一夜 フッサールの現象学 現象学と人工知能の関係性
第二夜 ユクスキュルと環世界 キャラクターの主観世界
第三夜 デカルトと機械論 デカルト的な世界観
第四夜 デリダ・差延・感覚 予測と感覚
第五夜 メルロ=ポンティと知覚論 知性と身体性の関係
実は、第零夜にあたるオーバービューは無料で公開されている([改めて知りたい、人工知能とは何か?:「人工知能のための哲学塾」第零夜])。ほとんど本書のまとめみたいになっており、10分で概観を知ることができる。なお、資料一式も無料で公開されており、[人工知能は、いつ主観的世界を持ち始めるのか?]から参照できる。
ありがたいのは、単純に知性に関する哲学の議論を並べているだけでなく、それがAIの議論にどのように関わるかを深めているところ。
たとえば、ギブソンのオプティカルフローの概念。「眼」はカメラに喩えられるが、生物の眼はそれほど精緻にはできていないという。ぼんやり明るい/暗いが分かる程度で、生物が移動することで明暗が変化し、周囲の光の配列が変わっていく(オプティカルフロー)。近くのものは速く動き、遠くのものは変わらない。それによって自分の位置や姿勢、周囲の情報を得ている。つまり、生物の「眼」は漠然と見るのではなく、自分の身体がどうなっているかを確認する機能として働いているというのだ。この概念から、ロボットや人工知能の「眼」は細かく世界を見すぎているのではないかという疑問が示されている。
あるいは、現在のゲームキャラクターのAIに欠けているものとして、「身体感覚」を挙げる。ある程度までは自律的となっているものの、キャラクター自身が内部の身体感覚(自己感)を持っておらず、リアリティを感じにくくさせている。人の身体保持感覚は、所与のものではなく、身体を動かすたびにフィードバックされ(遠心性コピー)、それ故、「この身体は自分自身のものだ」と思い込ませているというのだ。著者は、メルロ=ポンティを引きながら、能動的主体としての行動の志向性を述べる。即ち、何ができるかということが意識の根本にあり、最初は「我思う」ではなく、「我能う(あたう)」というのだ。
「人のような」は、人マネでもなく、人のふりをするという意味でもない。それは、「主観的な世界」を持つということであり、身体性と共にあることが分かる。「主観的な世界を考える」を意思決定モジュールに任せるのではなく、絶えずフィードバックを受けながら自身を確認する身体感覚と共に実装されなければならないことも見えてくる(たとえポリゴンの中の世界であろうとも)。
哲学から人工知能に迫りながら、「知能とは何か」の本質へ掘り下げてゆく一冊。
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