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完璧な小説「モレルの発明」

N/A

 いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。

 なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

 どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

 この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

 「パーティを続ける来訪者と、それを見つめる《私》との関係は、」を見つめる《私》と、それを読み進めるわたしと鏡像関係にある。つまり、ちょうどページが鏡のように、以下の等式の間に立っている。

      来訪者 : 《私》 = 《私》 : 読み手

 この関係から、わたしが抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、『彼ら』は不在となるし、読み手であるわたしが読むをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。

 解説によると、「モレル」の発明は、「モロー」博士のオマージュなのだそうだ。人を人たらしめている根拠に一撃を食わせたのは、ウェルズの「モロー博士の島」だ。絶海の孤島で続けられる恐ろしい実験は、「人を人扱いする理由は、他ならぬ自分がそう認めているからにすぎない」という事実を突きつける。そして、自分が「人」として見えなくなったとき、文明や都市はモロー博士の島と化す。

 「モレルの発明」は、他者を他者たらしめるのは、自分自身であることを指摘する。そして、「モロー博士の実験」は、人を人たらしめるのは、自分自身であることを指摘するのだ。

 本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか。実存は本質に先行するサルトル云々を持ち出さなくてもよい。「プリティリズム・オーロラドリーム」や「輪るピングドラム」を観ればいい。あそこに出てくるモブキャラ(mob character)は、完璧にデフォルメされている。群集や背景として抽象化されているくせに、動いたり話しかけたりしてくるのが新鮮だ。しかし、登場人物に関わらない限り、他者にすらなれない。

 「致死量ドーリス」というコミックがある。美しい女がいて、知的で痴的で、狂気と貞淑と奔放をそれぞれ見せる。対する男は、自分が望んだ性質を彼女に投影して愛する。男に応じて性格を使い分けるのではなく、都合のいい"女"を(彼らが)彼女から汲み取るのだ。「だれも本当の彼女を知らない」って話なのだが、そこが要点ではない。

 むしろわたしたちを確かにしてくれるのは、愛なんだということ。現実を微分しても、そこには「奔放な女」や「サイケな女」が断片的に現れるだけだ。モブキャラが「板」っぽく見えるのは、微分された一つのキャラクターだけが割り当てられているから。

 しかし、そこに興味が好意が愛情が湧いて出るとき、拡張現実は現実になる。3DSになってもラブプラスは幻影かもしれないが、寧々さんへ愛は本物だ。オクタビオ・パスは、「愛は特権的な認識」と喝破する。「美しい水死人」の解説に、こうある。

肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。

 わたしも含め、影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙のフォスティーヌと、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――わたしという読者が見ている存在とは独立にね。

 そして、本を閉じても、この思いはいつまでもわたしから離れない。わたしが読んでいなくても、《私》は続く。《私》が「モレルの発明」を知ってしまったように、わたしが「モレルの発明」を読んでしまったのだから。

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コメント

大学時代にちょうど邦訳が出版されたカルージュ『独身者の機械』で知って、やはり出版されたばかりの本書を読みました。映画化再販時に再読・精読しようと買ってあったな……って、もう3年も積んでるよ、僕!!!!
同じく『独身者の~』で言及されていた、ルーセルの『ロクス・ソルス』も精読しようと同時期に買ったけど、こちらも積んだままだ……。

いえ、どれも、大学時代に、ざっとは読んでいるんですよ。ただ、本当にざっと読んだだけで、話の筋さえロクに憶えてません(赤面


とはいえ、この手の本は若いときに勢いで読まないと、なかなか読了できないなあ(ついつい漫画の『ドリフターズ』とか『マップスネクストシート』のほうを手に取っちゃう)、というのが今の私の実感なので、Dainさんの「読書力」を羨ましく思います。

性根を入れ替え、この週末は我が部屋のマウンテンサイクルを掘り起こします。よいきっかけをありがとうございます。

投稿: SFファン | 2011.11.09 12:14

>>SFファンさん

コメントありがとうございます、掘り起こしのきっかけになれたみたいで、わたしも嬉しいです。
ある程度「修行」してから読むと、物語構造や比喩の巧みさが透けてしまいますが、これはホンモノでした。ネタバレしてもいいのなら、いろいろなアニメやゲームや小説に、その芽吹いている様子が語れそうですね。

投稿: Dain | 2011.11.10 23:02

●報告
「あーでも『モレル博士』は一応1回は読んでるんだよな。名作の再読もいいが、人生は有限なんだから、未だ読んでないアレやコレやの古典や重要作をこそ読むべきではないか? つーか僕って最近、むかし読んだ本の思い出話ばっかしてね??」
というわけで、『モレル』は埋もれさせたまま、レリス『幻のアフリカ』を読み始めちまいましたよ。頭ぐるぐる。

で、Dianさんは『V.』ですか! 大作ですねえ。
こっちも負けていられません。


オレ、この『アフリカ』読み終わったら、今度こそダンテの『神曲』完読するんだ!

投稿: SFファン | 2011.11.18 12:30

>>SFファンさん

コメントありがとうございます。
「モレル」は少し寝かせてから映画を見ます(どういう風に"解釈"しているかが楽しそうなので)。
ピンチョンは「ヴァインランド」「メイスン&ディクスン」「逆光」そして「V.」を読んだのですが、どれもこれも「読んだ」うちに入らないほど打ちのめされました。再読三読のための傑作だと思います。中でも一番再読したいのが、「逆光」です。
ダンテ「神曲」は、絵物語版の「ドレの神曲」を読みました。イメージを立ち上げるのに役立ちますよ。

投稿: Dain | 2011.11.18 13:41

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