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「転校生とブラックジャック」はスゴ本

転校生とブラックジャック 心脳問題を対話により深堀りした名著。二読したけど三読する。

 若いとき、一度はかぶれる独在論。つまり、この宇宙にひとりだけ「私」がいるということの意味を追求する。あれだ、2chやtwitterで見かける「おまえ以外bot」を世界レベルまで拡張したやつ。

 自分自身を指差して、私だということができる。でもそんな指差しなどせずに、世界中でただ一人、ただそこにいる<私>は、他の誰でもないし誰でもありえない。誰かが「私」といくら言おうとも、ここに、例外的な<私>が存在する―――この<私>が「私」であることを論理的に証明しようと問いつづける。

 たとえば、「心と体が入れ替わってしまった二人を、天才外科医ブラック・ジャックが元に戻したらどうなるか(転校生とブラックジャック)」とか、「自分自身の記憶と身体を丸ごとコピーして火星へ転送したら<私>はどうなる(火星に行った私は私か)」といった、SFチックな思考実験で追求する。

 本書を面白くかつユニークにしているのは、全編をダイアログ形式にしていること。著者自身をモデルにした「先生」と、12人の学生A~Lがこの問題を議論する。A論B駁といった感じで、議論が転がっていく・掘り下がっていく様子がよく見える。

 実はこの学生、著者の分身のようなもので、それぞれの側からの問答のフィードバックループをつなげた試みらしい。自説を曲げない人や、「解答」を欲しがる人がいて妙にリアルだけど、「自分の考えに近いのは誰か?」「その学生はどのように『問い・答え』をくり返しているか」探しながら読むと楽しい。ただ、出てくる議論は(カブれた人なら)既知のものばかり。主張の目新しさではなく、その問いに対し、どう格闘するかが大切なのだ。

 これ読むまで、哲学とは、ドグマを吸収することだと思い込んでいた(だから、たくさん知ったかぶれる人ほど、"哲学してる"と信じてた)。ところが、本書のおかげで、哲学とは、対話しと内省のくり返しの中で考え抜くという、もっと動的な行為だということに気づいた。哲学は、ダイアログの上に立っており、書かれたものは、そのダイアログを転がすための燃料や空間にすぎないのだと分かった。そんなダイナミズムに触発されたのは、本書の最大の収穫。

 ただ、残念(?)なところもあった。意図的か不注意か分からないが、あるべき議論が抜けている。「転校生とブラックジャック」という作品を学生に読ませ、そのセミナーをするという形式で話が進むのだが、この「転校生とブラックジャック」という作品自体が、一人称で書かれているのだ。

ブラック・ジャックはおれを手術台に固定して、いきなり手術しはじめたのだが、なんと、彼は麻酔というものを使わないのだという。おれは頭部に激痛を感じた。なんということだ。おれはこれからの手術中、ずっと意識があり、この激痛に耐えねばならないのだ!
 さらに、ブラック・ジャック曰く、「おれ」の記憶は入れ替わっていた「あいつ」のやつを植えつけておくから心配要らないという。もちろん「あいつ」の記憶も「おれ」で上書きするから、完全に元通りになるというのだ。では、「おれ」はどこにいる?―――その議論がまた面白いのだが、「設定」にムリがある。

 この独白が、誰に向けて、どのようなメディアで語られているかの検証がないのだ。インタビューであれば語り手がいるし、小説であれば書き手(と書き手が騙る語り手)がいる。一人称独白体という時点で、「おれ」が限定されてしまう。

 そして、インタビューであれば、「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」でファイナルアンサーだし、小説であれば、「「「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」という妄想だった」という妄想……」になる。なんなら最後の「妄想だった」を陰謀でループしてもいい(岡嶋二人「クラインの壷」あたりを思い出す)。

 いずれにせよ、「おれ」が過去のことを「語って」いることがこの形式自身によって規定されてしまっているため、読者は常にそこに疑いを見出すことができる。「先生」があとづけで「この物語全体は誰の記憶によっても保証されていない」「そもそも記憶ではない、端的な事実ということにならねばならない」と説明しているが、学生の議論を成り立たせるための巧妙な罠に見える。

 なぜなら、議論をスタートさせる前に、「これは『お話』ですか?」と質問してしまうと、前提が覆ってしまうから。もし『お話』なのなら、それを語る人へ視線が行くから。そして、語る人の位置から「おれ」「あいつ」が再設定されるから。その再設定で、語る人=「おれ」(インタビューの場合)であれば、「おれ」とは、他人が自分をさしていう「私」になる。いま、このblogを読んでいる<私>、すなわち「唯一無二の、ほかならぬこの<私>」には成り得ないのだ。そして、語る人≠「おれ」(小説の場合)であれば、「おれ」とは、書き手が定義した「私」になる。『お話』のなかでどんなに唯一無二の<私>だと主張しようとも、それは、いま、このblogを読んでいる<私>ではなくなる。移入して議論せよ、といってもこの「おれ」はいつ語っているの?という疑問に停止してしまう。

 問題は、誰かが自分を指して言う「私」と、このblogを読んでいる<私>の、カッコ「」< >の中の文字が一緒だというところ。学生の議論のなかで、<私>は端的にあるのに、それを表現しようとすると、一般化の「私」に陥ってしまう罠が出てくるのだが、まさにこの「私という文字が一緒」の呪いを受けているように見える。

 つまり、「私」と<私>と上手いこと分けて言ったつもりなのに、カッコの中は 私=私 になっているから紛らわしいのだ。一般的な一人称の「私①」と、このblogを読んでいる唯一無二の<私②>について、たまたま同じ文字である 私 が割り当てられていることが間違いの元じゃないの、と思えてくる。で、私②は少なくとも一つあるけれど(このblogを読んでいる私②だけが、その"少なくとも一つ"になる)、私②の外側に向かって自分を指すときに私①と称しているにすぎない。私①、私②とまた紛らわしいなら、私②を、「トゥイードルディ」とでも称すればいい。違うものを同じ名前で呼ぶことで陥っている言語ゲーム地獄から脱出するわけ。

マルドゥック・スクランブル1マルドゥック・スクランブル2マルドゥック・スクランブル3

 そのうえで、「トゥイードルディ」がどうなったら「トゥイードルディ」でなくなるか考えるのだ。体が不自由でも「トゥイードルディ」たりえるだろうが、首が分離したらどうなるか?とか、別の「トゥイードルディム」の行動意識を移植したらどうなるか?とかね。例えば脳だけになって、意識と記憶が、外側からしか観測できず、表現するための術を持たなかったら、あるいは、表現の術(すべ)が別の身体だったなら―――この思考実験は、SF「マルドゥック・スクランブル」で作品化されている(レビューは「マルドゥック・スクランブル」はスゴ本)。他に、この多体問題を深めるためにあたってよいヒントが隠されている(ルーン・バロットの体感覚など)。

17人のわたし 机上だけで独在論を弄るのではなく、フィクションやサイエンスを援用してみては……とツッコミを入れたくなる。「マルドゥック」シリーズのほかにも、「17人のわたし」あたりが考える手段となる。これは、虐待で多重人格障害となった女性が、精神科医の助けにより、人格を統合するまでを綴ったノンフィクションで、多数の人格が生まれた理由、記憶の共有や人格の入替えメカニズム、人格を統合する方法を追いかけることができる(わたしのレビューは衝撃のスゴ本「17人のわたし」)。

 しかし、そうしたわたしの姿勢そのものが邪教なのかもしれない。徹底的にロジカルにあらゆる角度から考え抜いて、「もうそうあらねばならない」「そう考えるしかありようのない」状態にまでもっていくのが「哲学すること」なのだから。

 これは入不二基義「哲学の誤読」(レビュー)と、分裂勘違い君劇場「ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊」で知ったもの。お二方に感謝、おかげで良い本にめぐりあえました。

 三読したら四読する、そういうスゴ本。

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コメント

 永井均は以前、挫折したので参考になりました。Dainさんのおかげで、読めなかった本もつまみ食いできるので助かります。

 しかし、本当に難しいですねえ。正直、Dainさんじゃなかったら読まなかったです(レビューを)

 個人的にグッときたのは

 <哲学は、ダイアログの上に立っており、書かれたものは、そのダイアログを転がすための燃料や空間にすぎないのだと分かった>

 という一節。

 哲学って、限りない自己対話の上に成り立っていると漫然と思っていたので、何だか後押ししてもらった感じです。

投稿: のどぼとけ | 2010.06.25 01:40

永井均といえば、『なぜ意識は実在しないのか』もおもしろいです。この世界にはなぜ意識というものが実在しないのか。

投稿: ニック | 2010.06.27 10:31

>>のどぼとけさん

哲学は「学習」ではなく、「態度」のようなものであることを知りました。自己対話の袋小路から脱するために、他者が必要だということも理解できました。そういう意味でも良い本だと思います。

>>ニックさん

本書で永井さんがどのように「意識」をとらえているか見えたので、「なぜ意識が実在しないのか」をどう説明するのかも分かります。きっと、「その意識」を<意識>だと見なす存在が無いから、というのでしょうね。

投稿: Dain | 2010.06.27 23:30

この人の、結論を考えるのはこれを読んでるあなた、と言わんばかりの雰囲気が好き。

投稿: Sophie | 2010.06.28 14:27

>>Sophieさん

「この人=永井均」であれば、あまり結論を追っていないように見えました。考え抜くという行為に力点が置かれており、そのための12+1キャラクターだと思います。「この人=わたし」なら、結論は考え抜くことと実証の両輪に拠っていると思っています。

投稿: Dain | 2010.06.29 00:22

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