魂をつかみとられる読書「精霊たちの家」
小説の技巧に着目するようになってから、心底から楽しめなくなっていた。いや、面白いことは面白いよ――けれど、構成や人称や配置を目配りしながら『鑑賞』するようになって、ワクワク度が半減してた。時代背景や著者の生い立ちから近似を解釈するかのようなテクスト読みなのだ。美味しんぼ的なら、「ウム、このダシは利尻昆布を使っておる」なんてスカした野郎だな。
ヒョーロンカならいざ知らず、もったいない読み方をしていた。物語に一定の距離をおいて、自分を少しずつ曝しながら反応を確かめつつ、進める。過去の作品や現代の時評に連動させるところを拾ってはネタにする。まさに読書感想文のための読書、鼻もちならん。
それが、このラテンアメリカ文学の傑作のおかげで、気づかされた。驚異と幻想に満ちた物語に没入し、読む、読む。小説とは解剖される被験体ではないし、解体畜殺する誰かの過去物語でもない。身も心も入っていって、しばらく中を過ごし、それから出て行く世界そのもの。
物語は、母娘三代に伝わるサーガとして読んでもいいし、語り部の一部を成す男の波乱万丈の物語と捉えてもいい。千里眼や予知能力、死者や精霊がウヨウヨしていることで、ガルシア=マルケス「百年の孤独」の女版だと考える人もいる。あるいは、池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」を思い出すかもしれない。
たしかにマジック・リアリズム的なトコはあるのだが、それは前半まで。百年分の歴史が「いま」に向かって語られるに従い、「マジック」は次第に影を潜め、「リアリズム」が表出する。「百年の孤独」が追い立てられるように加速していくのとは対照的だ。ことに恐怖政治の跋扈のあたりになると、同じ小説かと驚かされるほど、濃密に血と暴力を塗り重ねる。拷問シーンでは酸欠にならないように気をつけて。
さらに、語りの構成が絶妙だ。「私」、「わし」、それから三人称は、誰がストーリーテラーなのか推察しながら読むと二倍おいしい。「わし」はすぐに分かるのだが、あとが分からない。タイトルに「精霊」があるし、一族が住む屋敷のあちこちに精霊がウロウロしているので、最初は精霊が語り部なのかなぁと思いきや――見事に外れた。さらに、「私」が誰か分かるのは最後の最後で、物語の扉が再帰的に開いてゆく悦びを味わったぞ。
物語がわたしを圧倒する。わたしを蹴飛ばし、喰らいつき、飲み込む。咀嚼されるのは、もちろん、わたし。これほどのエネルギーを放っているのは、著者イサベル・アジェンデ自身が言葉の持つ力に絶大なる信頼を置いているから。言葉に対する信頼が失われつつある昨今だからこそ、彼女のこのセリフが光っている。解説より著者の言葉を引用する。
私は大変原始的な方法で言葉に力を、つまり、死者をよみがえらせ、行方知れずになった人たちを呼び集め、失われた世界を再構築する力を言葉に与えようとしたのです世界を再構築する物語のチカラに、我を忘れて読むべし。
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