処女膜ばかり気にしててサーセン「太平洋の防波堤/愛人 ラマン/悲しみよ こんにちは」
助平なんでハァハァしながら読んだぞ。テーマはこれっぽっちもハァハァするもんじゃないんだが、好きに読ませてもらうのは読者の特権。
フランス女性小説家を代表する、デュラスとサガンの3作が入っている。どれも、美処女が恋をしてセックスに狂う話―― だけではなく、もっと重いテーマが横たわっている。
太平洋の防波堤(デュラス)
愛人 ラマン(デュラス)
悲しみよ こんにちは(サガン)
世に出たのは50年ほど前、だから「まだ子どもみたいな少女がセックスの快楽を貪る」描写はかなりセンセーショナルだったかと。そして、あんだけヤってて、これっぽっちも妊娠するそぶりすらないのも、当時の読者のアタマをアツくしたんじゃぁないかと。小説に教訓めいたものを求める輩は、「ひと夏の恋→セックル→予期せぬ妊娠」を弁証法のように振りかざすから。
■ マルグリット・デュラス
処女を失うことは、それぞれの小説で象徴的に扱われている。デュラスの2作では、「母親からの逃走」のためだし、サガンの場合は「母親候補からの遁走」の表れになる。そのため、破瓜の痛みはほとんど語られず、不自然なほどすばやく快楽を味わっている。
美少女の身体描写もいいっスー
野郎の汚らわしい眼差しでなぞるよりも、やっぱり女性が描くほうが、よりリアリスティックに想像できる(はずだ)。石川淳の「焼跡のイエス」で、ノーブラのシュミーズの白さを透かし「乳房を匕首のように」閃かせている少女に悶々としたことがあるが、「愛人 ラマン」のここなんてハッとさせられる。
比類ない身体、身長と、この身体が乳房を自分の外に、いわばはなれたものとしてもつそのやり方とのあいだのこの均衡。このきりりとした乳房のまるまるとした外見、こちらの手のほうに突き出されるこの形状ほどに、類を見ぬものはない。「こちらの手のほうに突き出される」が秀逸。主人公の友人の裸体をこう描くのだが、オトコからはゼッタイ得られない発想がある。それは、乳房というのは、女の付属物であるいっぽうで、男の所有物にもなりうる。いわば、オトコとのインタフェースでもあるんやね。欲望が女の肌の下に集まっているのが、読み手にも透けて見えるようだ。
―― エロい戯言はおいといて、どれもみっしりと身の詰まった作品だった。それぞれ、少女の一人称や告白体で世界がつくられ、語られ、物語がすすみ、時をゆきかう。彼女らの「語り」がばつぐんに上手いので、目を離せない読みを強いられる。心的描写と会話が主なので、転がるストーリーを追いかけるのが好きな人には辛いかも。
デュラスの2作品(防波堤/愛人)は、同じ素材が違う料理に仕上がっており、比べて読むと面白い。「防波堤」が全部入り―― アジアの原風景、生活苦、社会悪への憤り、家族のキツい性格、そして異性へ開く情欲がある。その一方で、「愛人」はずばり愛そのものを愛以外の膳立てで描くことに成功している。植民地での底辺の生活や、人生を使い尽くした母親のことば、金持ちの(ただし弱者としての)男との会話は、それぞれ似ているようでテーマへのベクトルが違う。
母親は「母親」としか記述されない。固有名詞を持っていない、たった一人しか登場しない「母親」は、小説の特殊な状況から抜け出て普遍性を帯びてくる。デュラスの実人生そのものにも大きな影響力を与えている。象徴的なのは「太平洋の防波堤」のここかな。
「お母さんの不幸というのはね、結局、一つの魔力みたいなものなのよ」彼女は繰り返す。「魔力を忘れるように、お母さんの不幸も忘れてしまわなければだめよ。あなたにそうさせてくれるだけの力をもっているものは、お母さんが死ぬことか、男が現れることしかないと思うの」そして、このくだりを読めばピンとくるだろうが、長い長い伏線が張られることになる。そういや、この小説、メタファーや暗示が説明抜きに(あたりまえか)投げ込まれており、生娘の裸をひとめ見んと悶える男と、男が持っていたダイヤの指輪を売らんかなと奮闘する母親の滑稽さはシンクロしているし、そもそもカニが穴だらけにし、太平洋に侵食され、高潮にくずれさる防波堤は、処女膜のメタファーだろうに。
■ フランソワーズ・サガン
いっぽうサガン。実はこれが初読み。昔、わたしの母親が「これはクダラナイ大衆小説から読まなくてよろしい」と処分してしまったから。その目が泳いでいたことにもっと気を配っていれば、中学生で読めてたのにー
ともあれ、これは上手いしエロいし、オススメですな。いわゆる「ベストセラー」は普段読まないような人が買うものだから―― たいして期待もせずに読んだら、びっくりした。才気ばしった文章だけれど才能だけでは書けない。ホントに18歳の女の子が書いたの? と唖然とする。たとえば、こんなふうに始まる――
ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。少女を終わらせようとする思春期のもどかしい思いや、放蕩三昧の父親との奇妙な共犯関係、そこに侵入してくる女との生活への不安が鮮やかに「見える」。一人称の地の文と気の利いた会話が合いの手のように混ざっていて、正直、読んでて心地よい。思春期の悶え(?)が生んだ陰謀が招くラストのカタルシスは、重すぎず、軽すぎず、思わず頁から顔をあげて、空を見たくなってくる。冒頭の彼女の「悲しみ」をラストで読み手に追随させる。そのためのストーリーであり、そのためのこの「語り口」なのだから。
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