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文章読本・虎の巻

文章読本 世に「文章読本」はたくさんある。全部読んだら文章の達人になるのだろうか?あるいは、優れた小説や評論を書けるようになるのだろうか?斎藤美奈子のメッタ斬りを見てると期待できそうにないので、吉行淳之介の編んだ「文章読本」を読む。

 本書には、文章読本のエッセンスがギュッと濃縮されている。ずばり「文章とは何か」「文体とは」「優れた文章を書くコツは」との問いにそのまま答えているものばかり。文筆を生業とする書き手たちの「姿勢」がよく見える。このラインナップはスゴい。

  1. 文章の上達法(谷崎潤一郎)
  2. 谷崎潤一郎の文章(伊藤整)
  3. 僕の文章道(萩原朔太郎)
  4. 「が」「そして」「しかし」(井伏鱒二)
  5. 文章を書くコツ(宇野千代)
  6. 自分の文章(中野重治)
  7. わたしの文章作法(佐多稲子)
  8. センテンスの長短(川端康成)
  9. 質疑応答(三島由紀夫)
  10. 口語文の改革(中村真一郎)
  11. 文章を書くこと(野間宏)
  12. 削ることが文章をつくる(島尾敏雄)
  13. わが精神の姿勢(小島信夫)
  14. 感じたままに書く(安岡章太郎)
  15. 「文章」と「文体」(吉行淳之介)
  16. 小説家と日本語(丸谷才一)
  17. なじかは知らねど長々し(野坂昭如)
  18. 緊密で清潔な表現に(古井由吉)
  19. 詩を殺すということ(澁澤龍彦)
  20. 言葉と「文体」(金井美恵子)
 しかし、それだけではない。本書には、とてもユニークな「仕掛け」が施されている。

 つまりこうだ、誰かの「文章読本」を紹介した後、その人の作品をタネにした「文章読本」が出てくるのだ。ひとり目が「文章読本」を書く←ひとり目が書いた小説を、二人目が「文章読本」に引用←二人目が書いた小説を、三人目が引用… と、埋め込まれたリンク形式とでもいうべきか。文筆家たちがウロボロスみたいで面白い。

 例えば、谷崎潤一郎「文章読本」を大本として、そいつを誉めちぎる伊藤整とけちょんけちょんに貶す丸谷才一のコントラストが絶妙だ。各々の立ち位置もよく見える。

 まだある。主だった作家たちの「文章道」や「文章読本」を延々と紹介した後、後半で「なぜ、こんなにたくさんの文章読本があるのか?」について真っ向から明かされている。作家の自己満足だの編集者が強要したからといったミもフタもない答えではなく、もっと恐ろしい秘密が、丸谷才一の手により暴かれている。半分は激しく同意する。残り半分は同意「したくない」ね。

 以下、「文章読本」のエッセンスを集めた「文章読本」から、さらにわたしのココロに引っかかった部分を引用する。あたりまえなんだけど、なかなかできないこと、なかなか気づかないところ。

 冒頭は谷崎潤一郎から。王道ともいう。

谷崎潤一郎「文章の上達法」:要するに、文章の味というものは、芸の味、食物の味などと同じでありまして、それを鑑賞するのには、学問や理論はあまり助けになりません。たとえば舞台における俳優の演技を見て、巧いか拙いか分かる人は、学者と限ったことはありません。それにやはり演芸に対する感覚の鋭いことが必要で、百の美学や演劇術を研究するよりも、カンが第一であります。またもし、鯛のうまみを味わうのには、鯛という魚を科学的に分析しなければならないと申しましたら、きっと皆さんはお笑いになるでありましょう。事実、味覚のようなものになると、賢愚、老幼、学者、無学者に拘らないのでありますが、文章とても、それを味わうには感覚に依るところが多大であります。然るに、感覚というものは、生まれつき鋭い人と鈍い人とがある

 その直後に、伊藤整が「谷崎潤一郎の文章」という御題で切り込んでくる。互いの作品を喰いあっているんやね。

伊藤整「谷崎潤一郎の文章」:谷崎は「文章読本」において、日本の古典の小説類にある切れ目の分からない、地の文と会話の区別の不明瞭な文体は、それ自体の美しさを持っているので、いちいち細かく区別して描き、論理的に説明することが必ずしも真の文章の美しさをなすものではないことを、多少曖昧な不分明な所があっても、調子をたどり、一種のリズムをもって読み通される所に、日本文の本当の力があることを説明している。谷崎が「横着な、やさしい方法」といっている言葉の背後には、日本文で人を本当に感銘させるには、その古い文体の力を生かすことが必要だ、というこのような積極的な考え方が横たわっている。

 わたしにしっくりクるのは萩原朔太郎。これが正解じゃぁないかな、と油断していると、後に出てくる安岡章太郎にひっくり返される。面白いねぇ。

萩原朔太郎「僕の文章道」:僕の文章道は、何よりも「解り易く」書くということを主眼にしている。但し解り易くということは、くどくど説明するということではない。反対に僕は、できるだけ説明を省略することに苦心して居る。もし意味が通ずるならば、十行の所を五行、五行の所を一行にさえもしたいのである。(中略)もしそれが可能だったら、ただ一綴りの言葉の中に、一切の表現をし尽くしてしまいたいのである。

 井伏鱒二が涙ぐましい…が、いい文を書く人は、相応の気遣いがあるのですな。

井伏鱒二「が」「そして」「しかし」:二、三年前のこと、私は自分の参考にするために、手づるを求めて尊敬する某作家の組版ずみの原稿を雑誌社から貰って来た。十枚あまりの随筆である。消したり書きなおしてある箇所を見ると、その原稿は一たん清書して三べんか四へんぐらい読みなおしてあると推定できた。その加筆訂正でいじくってある箇所は「…何々何々であるが」というようなところの「が」の字と、語尾と、語尾の次に来る「しかし」または「そして」という接続詞とに殆ど限られていた。訂正して再び訂正してある箇所もあった。その作家の得心の行くまで厳しく削ってあるものと思われた。あれほどの作家の作品にして「が」の字や「そして」「しかし」に対し、実に初々しく気をつかってある点に感無量であった。

 宇野千代「文章を書くコツ」は、主に小説を書くことを目的としたコツなんだが、blogに置き換えても同じ事が言える。要するに、素振り大切、デッサン重要、毎日欠かさず、やね。

宇野千代「文章を書くコツ」:出来ることなら、他人の言葉の暗示よりも何よりも、自分自身が自分に与える暗示によって、芽を伸ばして行きたいものである。自分は書ける。そう思い込む、その思い込みの強さは、そのまま、端的に、自分の芽を伸ばすからである。言いかえるとそれは、自信がある、と言う状態のことだからである。私は書ける。そう信じ込んでいる状態のことだからである。何が強いと言って、書ける、と思い込むより強いことはないからである。
ただ、いつでも机の前に支度がしてあって、一日の中に、朝でも昼でも夜更けにでも、たった十分間でも机の前に坐るのである。昨日は坐った、今日は気が向かないから坐らない、と言うのではなく、毎日、ちょっとの間でも坐るのである。坐るのが習慣になっているから、坐ったら、忽ち書くのである。坐るのが習慣になって、坐ったら書くというのが習慣になるようにすることである。

 三島由紀夫「質疑応答」は簡潔にして正確。正しい解が欲しいならば、正しい質問をすることの実際例やね。以下、質問のお題だけ引用する。

  一、人を陶酔させる文章とはどんなものか
  二、エロティシズムの描写はどこまで許されるのか
  三、文は人なりということは?
  四、文章は生活環境に左右されるかどうか
  五、動物を表現した良い文章
  六、最も美しい紀行文とはどんなものか
  七、子どもの文章について
  八、小説第一の美人は誰ですか
  九、小説の主人公の征服する女の数について
  十、文章を書くときのインスピレーションとはどんなものでしょうか
  十一、ユーモアと諷刺はどういうふうに違うのでしょうか
  十二、性格描写について
  十三、方言の文章について
  十四、いい比喩とはどういうものでしょうか
  十五、造語とは?

 「一、人を陶酔させる文章とはどんなものか」分かりやすい。酔える文章は、呑む人によって異なるという主張は、激しく同意。また、「八、小説第一の美人は誰ですか」はナルホドと膝を打った。コロンブスの卵的な発見なんだけどね。ちなみに三島が読んだ中で神に近い美女はリラダンの「ヴェラ」だそうな。

 野間宏「文章を書くこと」は王道なんだけど、どこかで全く同じ主張を聞いた気がする…

野間宏「文章を書くこと」:そこにある事物の一つ一つの特徴をとらえて、そのものが他のものとはちがうことを明らかにしながらこれを書いていくのである。この事物の特徴というものは、その事物の細部にもまた全体にあらわれるが、その特徴をとらえて、これを言語でもって言い表し、その事物の存在性をそこに与えるわけである。

 これも、おおいに通ずるところがある。コピーライターにも似ているが、インスピレーションは「やってくる」のではなく、「つかみだす」ものであるところが違うね。

島尾敏雄「削ることが文章をつくる」:で私は、文章は削ることと見つけたり、などと考えたのだった。それはいかにもぐあいよく私の口をついて出る状態になれた。最初の筆先の文章でどうにか原稿紙を埋め得たものを、読みかえすときに削って行く作業は、爽快ななにかが伴なった。もともと素材のことばは空間に所在にちらばっているのだから、それをつかみどりして原稿紙に字としてならべ、さて、そのなかから文章を削りさがしあてるわけだ。実際は文章は空間のなかにかたちをこしらえてできあがっているが、それはわれわれには見えないだけのことゆえ、余分のごみをこそぎおとし、追い払い流し去って、それをあらわそうとする仕事を担当するのが小説書きというものだ、などと考えはじめだした。

安岡章太郎「自分の文章を語るのは自分の顔について語るようなものだ」
「文ハ人ナリ」というのも、たぶんそんなところから出ていると思われる。どんなポーズをとるにしろ、それが意識された部分にかぎっては、一個の思想とみなすべきだろうが、ポーズの中にある無意識の部分に人の気質のムキダシなものを感じさせるように、文章(あるいは言葉)という物質がもっている、人間がどうにも制御しかねる部分に、あるアカラサマな体質みたいなものが感じられるのである。

 丸谷才一のこの一文は、誉めつつけなすという高等技術を見ることができる。「まさかあの○○に限ってそんな愚劣なことはしないに違いない」「これはなにかの間違いであると思いたい」言い回しは、使いたくないねぇ。冒頭で、谷崎「文章読本」をベタ誉めする中にも匕首を忍ばせており、読んでる途中で乱切りする。以下はそのターニングポイント。読んでてハラハラしてくる。

丸谷才一「小説家と日本語」:が、それにもかかはらず谷崎の「文章読本」は依然として偉大である。あるいは、この薄い本の威容は区々たる意見の当否によるのではない。さうではなくて、むしろ、彼ほどの大才、彼ほどの教養と思考力の持ち主が初学案内の書にときとして浅見と謬想とを書きつけざるを得ないくらゐ切迫した状況で現代日本語という課題に全面的に立ち向つたこと、その壮大な悲劇性こそ「文章読本」の威厳と魅惑の最大の理由であった。このとき彼は安全な入門書をあらわしたのではなく、危険な宣言を発表したのである。

 「文は人なり」を今風にいうなら、「文はキャラだ」といえよう。ネットで、リアルでやりとりする会話、メール、エントリ、コメントのうち、作ったものであれ地のものであれ、キャラクターが文体を決める。多種多様の文体があるのは、アタリマエのことで、キャラ同士が反発しあったり惹かれあったりするように、文章も似たり違ったりする。

 自分のキャラに近い人が、必ず見つかる。著名な作家も同じ悩みにハマっていることに気づかされておかしい。書きあぐねている人には勇気をもたらす一冊。

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受信: 2007.08.14 23:48

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