トマトケチャップ皇帝 1971年
映画
トマトケチャップ皇帝
1971年
監督:寺山修司
allcinema トマトケチャップ皇帝
IMDb Tomato Kecchappu Kôtei
記事掲載希望としてご紹介があったので、本編に残したいと思う。
1971年の寺山修司監督作品。寺山修司は、天井桟敷という劇団を立ち上げ、アングラ演劇をやっている人というイメージがある。通常の感覚ではないこれらの作品が、どのような精神状態から出てきたのか、考えさせられた。また裸の表現なども、遠慮なくされている感じがあった。
トマトケチャップ皇帝はもともと短編の方が公開されていた。子供たちが銃を持って走っている場面の写真を昔見たことがあったけど、映像として見たのはVHS版実験映像ワールドVOL7として発売されたときだった。このあたりから、オリジナル完全版という75分の長編映画という認識に変わったと思う。その後寺山の一連の作品はDVDも発売されている。
この映画で取り上げられているのは、子供たちが大人に反旗を翻し、大人を支配する側に立つということ。革命を起こして、子供の皇帝が憲法を発布したり、バッテン法典を作る。そして大人を処刑したり、懲役を与えたりする。イメージ映像がつながれているようでもあり、それも通常の感覚とは違う、狂気やエロが表現されている。情勢が変わっていく様子を少年が母にあてた手紙で表現するなどの工夫もされている。
映像の多くは白焼けしたようなものが多く。モノクロというか単色のフィルムで構成されている。そうやって映像を不鮮明にすることで、表現を過激にしているのかと思われる。したがって裸であってもはっきり見えないという部分は多々あった。
珍場面はいろいろとあるけれども、その手紙を書いた軍服の少年はタバコを吸ったりもしている。彼がパンツなしで座る場面では少し珍が見えているが、この子は成長が進んでいて大人の珍だ。しっかりと毛が生えているのが見える。
裸の少女のもとに少年の皇帝が入ってくる場面は、皇帝は裸で珍丸出し状態。このあたりをみても、裸の表現に遠慮はしてないということがよくわかる。
他にも、珍は出さないけど、銃を持った男の子が女の部屋に入ってきておっぱいをしゃぶったり、顔を股間に埋もれさせたりという場面もあった。
男の子が女装をしている場面では、さりげなくパンティを脱いで珍を出す子がいるようだ。
この映画でもっとも問題となったのが、化粧をした少年皇帝が娼婦とからむ場面だろう。皇帝は服を脱がされ、抱き着かれる。この場面はかなりの時間を割いて表現されており、当然のこと珍は丸出しだし、刺激で多少硬くなっているのもわかるようだ。そしてこの場面については、白焼けをあまりしてないので、様子がよくわかるように表現されていた。
どこまで表現できるのか、どこまでやったらダメと言われるのか、当時もおそらく議論があったことだろうと思う。今では到底考えられないけれども、当時はチャレンジされたのだろう。
この映画に登場する子がどれくらいこれらの表現に耐えられるのかということについては、一つのエピソードを紹介しよう。映画の中で裸の大人を台に乗せて卓球をする場面があるが、この場面に出演した子が途中で泣き出して撮影が続けられなかったとそうだ。
この映画を見た人が、しばしば気持ち悪くなったり、耐えられなかったりすることがあるだろう。しかし、実験映像としてとりくんだこれらの内容は、実際に起きた戦争の狂気であり、革命の狂気につながっている。ナチスの虐殺や中国の文化大革命など、同じことをしているのだということを、考えさせられる映画だ。ストーリー性が乏しく単なる裸と空想の実験映画だったという感想も持つ人もいるかもしれないけれども、寺山修司の狂気の表現はそのまま現実の人間の中にある狂気を表現したものだと言った方が、僕はしっくりくる気がする。
https://m.ok.ru/video/2047340907209
1971年
監督:寺山修司
allcinema トマトケチャップ皇帝
IMDb Tomato Kecchappu Kôtei
記事掲載希望としてご紹介があったので、本編に残したいと思う。
1971年の寺山修司監督作品。寺山修司は、天井桟敷という劇団を立ち上げ、アングラ演劇をやっている人というイメージがある。通常の感覚ではないこれらの作品が、どのような精神状態から出てきたのか、考えさせられた。また裸の表現なども、遠慮なくされている感じがあった。
トマトケチャップ皇帝はもともと短編の方が公開されていた。子供たちが銃を持って走っている場面の写真を昔見たことがあったけど、映像として見たのはVHS版実験映像ワールドVOL7として発売されたときだった。このあたりから、オリジナル完全版という75分の長編映画という認識に変わったと思う。その後寺山の一連の作品はDVDも発売されている。
この映画で取り上げられているのは、子供たちが大人に反旗を翻し、大人を支配する側に立つということ。革命を起こして、子供の皇帝が憲法を発布したり、バッテン法典を作る。そして大人を処刑したり、懲役を与えたりする。イメージ映像がつながれているようでもあり、それも通常の感覚とは違う、狂気やエロが表現されている。情勢が変わっていく様子を少年が母にあてた手紙で表現するなどの工夫もされている。
映像の多くは白焼けしたようなものが多く。モノクロというか単色のフィルムで構成されている。そうやって映像を不鮮明にすることで、表現を過激にしているのかと思われる。したがって裸であってもはっきり見えないという部分は多々あった。
珍場面はいろいろとあるけれども、その手紙を書いた軍服の少年はタバコを吸ったりもしている。彼がパンツなしで座る場面では少し珍が見えているが、この子は成長が進んでいて大人の珍だ。しっかりと毛が生えているのが見える。
裸の少女のもとに少年の皇帝が入ってくる場面は、皇帝は裸で珍丸出し状態。このあたりをみても、裸の表現に遠慮はしてないということがよくわかる。
他にも、珍は出さないけど、銃を持った男の子が女の部屋に入ってきておっぱいをしゃぶったり、顔を股間に埋もれさせたりという場面もあった。
男の子が女装をしている場面では、さりげなくパンティを脱いで珍を出す子がいるようだ。
この映画でもっとも問題となったのが、化粧をした少年皇帝が娼婦とからむ場面だろう。皇帝は服を脱がされ、抱き着かれる。この場面はかなりの時間を割いて表現されており、当然のこと珍は丸出しだし、刺激で多少硬くなっているのもわかるようだ。そしてこの場面については、白焼けをあまりしてないので、様子がよくわかるように表現されていた。
どこまで表現できるのか、どこまでやったらダメと言われるのか、当時もおそらく議論があったことだろうと思う。今では到底考えられないけれども、当時はチャレンジされたのだろう。
この映画に登場する子がどれくらいこれらの表現に耐えられるのかということについては、一つのエピソードを紹介しよう。映画の中で裸の大人を台に乗せて卓球をする場面があるが、この場面に出演した子が途中で泣き出して撮影が続けられなかったとそうだ。
この映画を見た人が、しばしば気持ち悪くなったり、耐えられなかったりすることがあるだろう。しかし、実験映像としてとりくんだこれらの内容は、実際に起きた戦争の狂気であり、革命の狂気につながっている。ナチスの虐殺や中国の文化大革命など、同じことをしているのだということを、考えさせられる映画だ。ストーリー性が乏しく単なる裸と空想の実験映画だったという感想も持つ人もいるかもしれないけれども、寺山修司の狂気の表現はそのまま現実の人間の中にある狂気を表現したものだと言った方が、僕はしっくりくる気がする。
https://m.ok.ru/video/2047340907209