踊る小児科医のblog

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この雪崩も「想定外」か 「正常性バイアス」でも説明がつかない 栃木雪崩8人死亡

2017å¹´03月31æ—¥ | æ±æ—¥æœ¬å¤§éœ‡ç½ãƒ»åŽŸç™ºäº‹æ•…
八甲田山や大川小学校を思い浮かべた人も少なくなかったのでは。。
過去の重大事故と共通する構図があったのではないかと考え、記事を検証している。
29日の記者会見でも、肝腎なポイントである「なぜ」について追及されてはいるが、解明されていない。

自然災害というよりも人災の面が大きく、法的責任(刑事・民事)が問われることは間違いないだろう。
ここでは震災・津波・原発事故でも問題となった「想定外」「正常性バイアス」について考えてみる。

29日の記事に、(※)
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雪崩に巻き込まれた学校関係者は「事前に危険を指摘する意見はなかったのか」との問いに「そういう話は出なかったと思う。想定外だった」と話した。
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とある。この「学校関係者」は、おそらく責任者ではない他校の引率教員ではないかと思われる。

本当に「想定外」だったのであれば、遺族も到底納得できないだろう。
この事態は、必ず想定して、防ぐことができたはずだし、防がなければいけなかった。
心が痛む。

(※以下、断わりがなければデーリー東北=共同通信配信記事)

素人の私でも、このニュースと当時の気象状況を聞いたときに「表層雪崩」という言葉を思い浮かべた。
記事でも「表層雪崩が起きる条件はほぼ整っていたとみられる」と記されている。

まして、「高体連の登山専門部委員長で、山岳指導員の免許を所持し、山岳部顧問を20年以上務めた」教師が、雪崩の危険性を想起していなかったとは考えにくい。

29日の記者会見において、NHKの記事では「ラッセルの訓練は当時は安全だと判断して行ったが、こういう事態になり、反省しなければいけない」と述べたと記されている。

しかし、同記事の動画とその字幕によると、


「前日にテレビ等で雪崩が発生するかもしれない状況であるというのは認知していた」


「そのときには絶対安全であると判断して歩行訓練に入ったが…」

と口述している。(★)

30日の新聞にも「絶対安全と判断」という見出し。

「絶対安全」で思い起こされるのは、「原発は絶対安全です」という原発安全神話ではないか。。

NPO法人日本雪崩ネットワークは「目視でも分かる典型的な雪崩発生区」と指摘しており、別のNPO法人の理事長は、ラッセルについて「そもそも雪崩の危険性があると分かっていればやらなかったはずだ」と指摘している。

また、救助隊の一員は、救助場所(ゲレンデ上部付近の林の近く、急斜面の下)について「もっと安全な場所はあったはずだ」と述べている。

一方、この教員は「雪崩が起きやすい地点を知っていた。(訓練場所は)危険と認識していなかった」と述べており、上記の専門家や救助隊の指摘とは全く見解を異にしている。

一番最初に引用した「学校関係者」の「想定外」という証言を合わせて考えると、引率教員の間で雪崩に対する注意喚起は「全くなされていなかった」という推測に至る。(ここがポイント)

更に「教諭や生徒からも危険という意見はなかった」と述べているが、別の記事によると、訓練に参加した高校生は「すごい積雪だったので大丈夫か?」と思い、「先輩たちも、この状況でやるのはおかしいと言っていた」と証言している。

記者会見の記事によると、同教員は「何年か前にそこで訓練したこともあった」というだけで、「経験則で判断したのは間違いない」と答えている。(3人で判断)

今回、この雪崩が起きたという事実から考えて、同じ地点で過去に雪崩がなかったということはあり得ない。

表題の「正常性バイアス Normalcy bias」は「自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと(Wikipedia)」であり、韓国の地下鉄火災の写真がよく引用される。
福島原発事故以来、このブログでも取り上げてきた。

正常性バイアスという場合には、少しは危険性を考慮しながらも、自分だけは大丈夫と判断するものだが、この場合は、経験豊かな教員が、状況から最も危険性を考慮しなくてはいけない場合に、可能性すら考えていなかったという。。

記者の質問にある「慣れや慢心(=答えは上記の「経験則で判断」)」だけだったとしたら。。

もう一度問う。
春山で雪が溶けて固まった上に新雪が降り積もるという、最も雪崩の危険性を考えなくてはいけない状況で、なぜ教員は誰一人疑問を感じなかったのか。

おそらく報道は一段落で、裁判にならない限り大きな事実は出てこないと思われるが、この謎については、原発事故と同じレベルで追及し続けるべきと考える。

★ なぜ多くの犠牲者が出てしまった後で、「絶対安全」という用語を用いたのか、理解に苦しむ。
当時の判断の妥当性を弁明するために用いたのかもしれないが、医学・医療の世界には「絶対」というタームは存在しない。
医学だけでなく、少なくとも自然科学の分野では絶対ということはあり得ない。
(厳しい自然が相手の登山でも全く同じだと思う)

あるとすれば、「絶対にない(絶対大丈夫)」ということは「絶対にない」という場合のみ。
(これが原発安全神話のウソ。それまで、みんな理解しているものと思っていたが)

あるいは、責任を自分一人で背負い込むことを目的としていたのかもしれない。。

無論、この教員一人の責任を追及したくて書いているわけではない。
そんなことをしても8人の命は返ってこないのだから。
(冒頭に書いたように法的責任は問われるべきだと思うが)

今後も注視し続けたいと思うが、一旦ここで筆を措くことにします。