韓国の「慰安婦」被害者の方が、またお一人亡くなられたとの訃報が、韓国紙で配信されていた。
・CNB NEWS 2008-12-06 22:33:56 『
’정신대 피해자’ 한도순 할머니 타계 (「従軍慰安婦被害者」ハン・ドスンさん他界)』
・Tongilnews 2008년 12월 06일 (토) 18:16:27『
일본군‘위안부’ 피해자 한도순 할머니 운명 (日本軍「慰安婦」被害者ハン・ドスンさん他界)』
・ソウル新聞 2008-12-08 『
[부고] 마지막 순간도 눈 제대로 못감은 채… 일본군 위안부 피해자 한도순 할머니 한많은 생 접어 ([訃告] 最後の瞬間にも目を静かに閉じられぬまま… 日本軍慰安婦被害者ハン・ドスンさん逝去)』
・アジア経済 2008-12-07 19:55『
'위안부 수난' 한도순 할머니 타계 (「慰安婦受難」ハン・ドスンさん他界)』
・聯合ニュース(毎日経済 経由)2008.12.07 19:30:00『
'위안부 피해자' 한도순 할머니 타계계 (「慰安婦被害者」ハン・ドスンお婆さん他界)』
これら報道の内、聯合ニュース配信分が
東亜日報その他広く再配信されているようだ。
ハン・ドスンさん(ハングルで한도순さん)の他界を報じる各社記事を自動翻訳にかけてまとめると、
第二次世界大戦当時、日本軍『慰安婦』としての苦痛を体験したハン・ドスンさんが、5日、老衰にて他界した。享年87歳。
故人は、1921年に全北(チョンブク)完走で3男1女の長女として生まれ、19才の時に、山に薪をとりにいった際、日本軍関係者に強制連行され、満州に連れて行かれて「慰安婦」として悲惨な体験をした。
日本敗戦時に帰国したが、一旦は故郷に帰ったものの、「慰安婦」であった経歴を噂される等あって、故郷には定着できず住まいを転々としていた。93年に生活保護対象者との指定を受けたが、その後も苦しい生活を送っていた。
ハンさんは自身の過去を、なかなか口には出せなかったが、偶然知った甥(姪)らが、2000年に慰安婦被害者として申告し、ナヌムの家に居住することとなった。故人は、生前、交通事故や慢性関節炎などで行動が不便でありながらも、病状が悪化する前までは水曜デモなどには積極的に参加してきた。
甥のお一人は「故人は生前、どこに行っても苦しい胸の内を一度も現すことができませんでした」としながら「常に穏やかな方だったが、時々、お酒が入ると大泣きしていました」と語った。ナヌムの家の看護師は「ハンさんは、当時、ナヌムの家の最年長者で、笑う姿が赤ちゃんみたいに純粋な方でした」と話した。
韓国挺身隊問題対策協議会の、カン・ジュヘ事務局長は「2005年からは療養院での生活となったが、お見舞いの度に、ソウルの水曜でもの現場に行きたいとおっしゃっていた。もう、永遠に水曜デモの現場には行けなくなってしまった。」「被害者に対する日本政府の謝罪発表を聞くことが故人の一生の願いであったのに、御覧になれずに亡くなられてしまいとても残念だ。」と故人の冥福を祈りつつ、「政府に登録された『慰安婦』被害者はもはや94人しか存命でいらっしゃらない」としながら「日本政府は一日も早く積極的な賠償努力をしなければならない」と語った。
そして、ハン・ドスン(韓道順)さんの生前の消息を探してみた。もし、同姓同名の被害者の方と間違えてしまっていたら、とんでもない失礼で申し訳ないのだが、、、2000ー2005年にナヌムの家にお住まいだったハルモニのことなら、まず間違いはないだろうから、記憶しておくための記録とさせていただきたいと思う
(もし、間違いの情報にお気づきの方は、ご指摘いただけましたら幸いです)。
「ナヌムの家」第57号 消息誌(2001年1月1日)
ハルモニたちの近況
ハン・ドスン ハルモニ(83歳)
ムン・ミョングムハルモニが亡くなると、一番上の姉さんになられたハン・ドスンハルモニ。東京で開かれる2000年の法廷に参加され、帰ってこられた。出発する前だけでも、ハルモニはもちろん周りからさえちゃんと行って来られるのか大変心配をしたが、ハルモニは立派にその日の行事を執り行って帰ってこられた。(後略)
「ナヌムの家」第58号 消息誌(2001年2月1日)「ナヌムの家」第59号 消息誌(2001年4月1日)[fem-events 1909] 第 600 回韓国水曜デモアップデート (Mon, 15 Mar 2004 )
★ハルモニたちからのメッセージが届きました★
「小泉総理、日本の歴史教科書から私たちのことが削除されているというのはどういうことなのでしょうか?教えることはきちんと教えてください。早くこの問題を解決し、隣に住む者同士が何のわだかまりもなく過ごせるようにしてほしい」(キム・スンドク)
「私たちの問題が解決されないということは、今後も同じような悲劇が起こるということです。私たちの世代が負った傷は私たちの世代で解決し、後世の人たちまで持ち越すべきではありません。私たちがこの世を去る前に一日も早い名誉の回復を望みます」(カン・イルチュル)
「私たちに時間はありません。公式謝罪と法的賠償を日本の皆さんの手で早く実現してください。私が言いたいのはそれだけです」(パク・オクスン)
「国がちゃんとやれ!」(ハン・ドスン)
「息が詰まりそうな思いでいます。日本の国民の皆さんが政府を動かして、早期の謝罪と賠償を実現してください」(イ・オックム)
「謝罪と賠償を早く実現してということ以外、日本政府、国民に対して言うことはありません(パク・オンリョン)
「私たちが望むような形での早期解決を願うだけです」(キム・グンジャ)
「国民基金は認めない。国民基金がこの問題を解決したと思ったら間違いだ。私たちをもう一度殺そうとするものだ。私が望むのは、国民から集めたお金ではなく、日本政府による法的賠償だ」(イ・オクスン)
Yahoo!グループ : ひろしま草の根メーリングリスト メッセージ : 4642 件中 987 件目> 「中央日報」01・12・26
>
> 「日本の謝罪聞けず6人があの世に」従軍慰安婦ら490回目の抗議
(略)
> 「日本政府の正式謝罪と法的賠償」を要求し、毎週集会を行ったのがこの日で490回目。
> この日は、今年亡くなった女性のための質素な追慕会があった。
(中略)
> 行事が終わった午後5時。歩行が不自由なハン・ドスン(90、京畿道広州のナヌムの家)さんは「年を取れば亡くなるもの、だけどそう簡単に逝くことができるかい」とつぶやいて席を立った。
『
はげしく学び はげしく遊ぶ(石川康宏研究室)』さんの2008年1月 4日 (金)付『
2004年9月 はじめてゼミで「ナヌムの家」へ』
『
Mitsuba's Diary』さんの2005年12月09日付『
ナヌムの家のハルモニ・・・韓道順ハルモニ』も、若干出生地
(当方がハングルを自動翻訳しているので、こっちが間違えている可能性は大いにあるし)と家族構成が違っているような記載もあるけど、恐らくは同じ方だと思われるので、お借りしておこう。
1918年(戸籍上は1921年)4月19日、全羅北道完州(チェルラプットワンジュ)郡で4男1女の一人娘として生まれる。
14歳のとき、家が貧しくて口減らしのため嫁に出された。結婚しておよそ3年間暮らしたものの、夫が亡くなり、実家に戻ることになった。
19歳の春(1936年頃と推定)山に行こうとして家を出ると、見ず知らずの年配の男性が、お前は本当に可愛いといいながら、自分についてきたら贅沢をさせてやると言った。嫌だと言ったら、髪を引っ張ってむりやり連れていかれたところが満州だった。それから9年間、『慰安婦』として監禁されたまま生活した。
慰安所の主人は、日本人夫妻で、民間人だった。他の女性も10名ほどいた。その家に暫くいた後、他の慰安所に移った。平屋建ての家だった。軍人たちは、歩いてやって来た。平日にも週末にも来るが、休日や土曜日に多かった。
多くの軍人の相手をしなければならず、辛くてとても嫌だと拒否しようとすると、激しく殴られた。
(中略)
慰安所の主人や軍人からお金を受け取ったことは1度もない。後でくれるという話もなかった。月に一度は休みの日があり、その日は一日中寝た。
ある日、主人夫妻がすべて終わったから村に行けといい、汽車賃をくれた。汽車賃のほかには1銭も持っていなかった。他の女性たちは何処へいったのか分からないが、汽車に乗って故郷に向かった。眠ることができなかった。汽車には同胞だけが乗っており、故郷までは3日間ほどかかった。
家に帰るとすでに冬だった。(1945年推定)村の人たちからは『満州に行ってきたいわくつきの女』と陰口をたたかれて蔑まれた。
(中略)
93年11月に夫に先立たれ、その後、生活保護対象者となる。甥の申請で『慰安婦』対象登録をして、2000年4月からナヌムの家に入り生活している。
ナヌムの家の中では最年長者だが,2000年12月『女性国際戦犯法廷』にも参加し、水曜デモにも1度も欠かさず出席するなど、ナヌムの家の対外的な行事に黙々と参加している。(後略)
今年だけで、韓国政府登録者の被害者の中で、15人もの方が亡くなっているという事実に、改めて衝撃を受けている。被害者がご高齢であるのは解っているのに。
日本国内では、ようやく、地方自治体からも「慰安婦」問題解決を要求する意見書が出るようになってきた。…でも、間に合わない被害者が多すぎる。
故人の冥福をお祈りします。
第二次世界大戦当時、日本軍『慰安婦』としての苦痛を体験したハン・ドスンさんが、5日、老衰にて他界した。享年87歳。
故人は、1921年に全北(チョンブク)完走で3男1女の長女として生まれ、19才の時に、山に薪をとりにいった際、日本軍関係者に強制連行され、満州に連れて行かれて「慰安婦」として悲惨な体験をした。
日本敗戦時に帰国したが、一旦は故郷に帰ったものの、「慰安婦」であった経歴を噂される等あって、故郷には定着できず住まいを転々としていた。93年に生活保護対象者との指定を受けたが、その後も苦しい生活を送っていた。
ハンさんは自身の過去を、なかなか口には出せなかったが、偶然知った甥(姪)らが、2000年に慰安婦被害者として申告し、ナヌムの家に居住することとなった。故人は、生前、交通事故や慢性関節炎などで行動が不便でありながらも、病状が悪化する前までは水曜デモなどには積極的に参加してきた。
甥のお一人は「故人は生前、どこに行っても苦しい胸の内を一度も現すことができませんでした」としながら「常に穏やかな方だったが、時々、お酒が入ると大泣きしていました」と語った。ナヌムの家の看護師は「ハンさんは、当時、ナヌムの家の最年長者で、笑う姿が赤ちゃんみたいに純粋な方でした」と話した。
韓国挺身隊問題対策協議会の、カン・ジュヘ事務局長は「2005年からは療養院での生活となったが、お見舞いの度に、ソウルの水曜でもの現場に行きたいとおっしゃっていた。もう、永遠に水曜デモの現場には行けなくなってしまった。」「被害者に対する日本政府の謝罪発表を聞くことが故人の一生の願いであったのに、御覧になれずに亡くなられてしまいとても残念だ。」と故人の冥福を祈りつつ、「政府に登録された『慰安婦』被害者はもはや94人しか存命でいらっしゃらない」としながら「日本政府は一日も早く積極的な賠償努力をしなければならない」と語った。
そして、ハン・ドスン(韓道順)さんの生前の消息を探してみた。もし、同姓同名の被害者の方と間違えてしまっていたら、とんでもない失礼で申し訳ないのだが、、、2000ー2005年にナヌムの家にお住まいだったハルモニのことなら、まず間違いはないだろうから、記憶しておくための記録とさせていただきたいと思う
(もし、間違いの情報にお気づきの方は、ご指摘いただけましたら幸いです)。
「ナヌムの家」第57号 消息誌(2001年1月1日)ハルモニたちの近況
ハン・ドスン ハルモニ(83歳)
ムン・ミョングムハルモニが亡くなると、一番上の姉さんになられたハン・ドスンハルモニ。東京で開かれる2000年の法廷に参加され、帰ってこられた。出発する前だけでも、ハルモニはもちろん周りからさえちゃんと行って来られるのか大変心配をしたが、ハルモニは立派にその日の行事を執り行って帰ってこられた。(後略)
「ナヌムの家」第58号 消息誌(2001年2月1日)「ナヌムの家」第59号 消息誌(2001年4月1日)[fem-events 1909] 第 600 回韓国水曜デモアップデート (Mon, 15 Mar 2004 )
★ハルモニたちからのメッセージが届きました★
「小泉総理、日本の歴史教科書から私たちのことが削除されているというのはどういうことなのでしょうか?教えることはきちんと教えてください。早くこの問題を解決し、隣に住む者同士が何のわだかまりもなく過ごせるようにしてほしい」(キム・スンドク)
「私たちの問題が解決されないということは、今後も同じような悲劇が起こるということです。私たちの世代が負った傷は私たちの世代で解決し、後世の人たちまで持ち越すべきではありません。私たちがこの世を去る前に一日も早い名誉の回復を望みます」(カン・イルチュル)
「私たちに時間はありません。公式謝罪と法的賠償を日本の皆さんの手で早く実現してください。私が言いたいのはそれだけです」(パク・オクスン)
「国がちゃんとやれ!」(ハン・ドスン)
「息が詰まりそうな思いでいます。日本の国民の皆さんが政府を動かして、早期の謝罪と賠償を実現してください」(イ・オックム)
「謝罪と賠償を早く実現してということ以外、日本政府、国民に対して言うことはありません(パク・オンリョン)
「私たちが望むような形での早期解決を願うだけです」(キム・グンジャ)
「国民基金は認めない。国民基金がこの問題を解決したと思ったら間違いだ。私たちをもう一度殺そうとするものだ。私が望むのは、国民から集めたお金ではなく、日本政府による法的賠償だ」(イ・オクスン)
Yahoo!グループ : ひろしま草の根メーリングリスト メッセージ : 4642 件中 987 件目> 「中央日報」01・12・26
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> 「日本の謝罪聞けず6人があの世に」従軍慰安婦ら490回目の抗議
(略)
> 「日本政府の正式謝罪と法的賠償」を要求し、毎週集会を行ったのがこの日で490回目。
> この日は、今年亡くなった女性のための質素な追慕会があった。
(中略)
> 行事が終わった午後5時。歩行が不自由なハン・ドスン(90、京畿道広州のナヌムの家)さんは「年を取れば亡くなるもの、だけどそう簡単に逝くことができるかい」とつぶやいて席を立った。
『
はげしく学び はげしく遊ぶ(石川康宏研究室)』さんの2008年1月 4日 (金)付『
2004年9月 はじめてゼミで「ナヌムの家」へ』
『
Mitsuba's Diary』さんの2005年12月09日付『
ナヌムの家のハルモニ・・・韓道順ハルモニ』も、若干出生地
(当方がハングルを自動翻訳しているので、こっちが間違えている可能性は大いにあるし)と家族構成が違っているような記載もあるけど、恐らくは同じ方だと思われるので、お借りしておこう。
1918年(戸籍上は1921年)4月19日、全羅北道完州(チェルラプットワンジュ)郡で4男1女の一人娘として生まれる。
14歳のとき、家が貧しくて口減らしのため嫁に出された。結婚しておよそ3年間暮らしたものの、夫が亡くなり、実家に戻ることになった。
19歳の春(1936年頃と推定)山に行こうとして家を出ると、見ず知らずの年配の男性が、お前は本当に可愛いといいながら、自分についてきたら贅沢をさせてやると言った。嫌だと言ったら、髪を引っ張ってむりやり連れていかれたところが満州だった。それから9年間、『慰安婦』として監禁されたまま生活した。
慰安所の主人は、日本人夫妻で、民間人だった。他の女性も10名ほどいた。その家に暫くいた後、他の慰安所に移った。平屋建ての家だった。軍人たちは、歩いてやって来た。平日にも週末にも来るが、休日や土曜日に多かった。
多くの軍人の相手をしなければならず、辛くてとても嫌だと拒否しようとすると、激しく殴られた。
(中略)
慰安所の主人や軍人からお金を受け取ったことは1度もない。後でくれるという話もなかった。月に一度は休みの日があり、その日は一日中寝た。
ある日、主人夫妻がすべて終わったから村に行けといい、汽車賃をくれた。汽車賃のほかには1銭も持っていなかった。他の女性たちは何処へいったのか分からないが、汽車に乗って故郷に向かった。眠ることができなかった。汽車には同胞だけが乗っており、故郷までは3日間ほどかかった。
家に帰るとすでに冬だった。(1945年推定)村の人たちからは『満州に行ってきたいわくつきの女』と陰口をたたかれて蔑まれた。
(中略)
93年11月に夫に先立たれ、その後、生活保護対象者となる。甥の申請で『慰安婦』対象登録をして、2000年4月からナヌムの家に入り生活している。
ナヌムの家の中では最年長者だが,2000年12月『女性国際戦犯法廷』にも参加し、水曜デモにも1度も欠かさず出席するなど、ナヌムの家の対外的な行事に黙々と参加している。(後略)
今年だけで、韓国政府登録者の被害者の中で、15人もの方が亡くなっているという事実に、改めて衝撃を受けている。被害者がご高齢であるのは解っているのに。
日本国内では、ようやく、地方自治体からも「慰安婦」問題解決を要求する意見書が出るようになってきた。…でも、間に合わない被害者が多すぎる。
故人の冥福をお祈りします。