著者の岡田氏は、「はじめにー現代社会を解く鍵、人格障害」として、近年の犯罪多発などの原因として人格障害を位置づける。この辺りの犯罪多発を客観的な事実として話を進める辺りには多少の異論があるが、「毎日の生活でも(中略)気持ちよく暮らす事がどんどん難しくなっている。(中略)さらには、われわれを導く立場の人にも、明らかに困った人たちが、目立つようになっている。」との記述にはうなずけるものがある。
そして著者は、個人と社会を結びつける物がまさに人格であるとし、「人格は個人と社会のつながり方のスタイル」だとも言い換える。現在広がっている生き辛さや暮らし辛さの根底にある物を、われわれの社会に急速に浸透拡大している「人格障害」あるいは「人格障害」的な行動様式や考え方である、とする。しかし、「人格障害を誰か自分以外の「悪い人」の問題と考え、その人を排除すればいいという考え方では事態を改善する事はできない。なぜなら、その考え方自体人格障害的な物だからである。人格障害は特別な一個人だけの問題ではなく、現代人の誰もが程度の差こそあれ抱えている問題」だと位置づける。
第三章では「人格障害のタイプ その特徴と注意点」として、それらを三つの群と、それぞれの群れに分類される症状、すなわちA群(風変わりなタイプ)の3つ、B群(ドラマチックタイプ)の4つ、C群(不安の強いタイプ)の3つという米国精神医学界が定めた診断と統計のためのマニュアル第四版 (DSM-IV)にわけ、それぞれのタイプの著名人?(妄想性人格障害のオセロー等)と代表的診断例を引き、症状を説明する。
第四章「生きづらさを生む人格障害」として、鬱病や鬱状態、依存、摂食障害や引きこもりなどとの関係が述べられる。
第五章「人格障害と手当てする」として、精神医としての著者が行っている治療方針の概略が述べられる。しかし、小見出しの「親切や優しさでは直らない」「目標と限界をはっきりさせる」等で述べられている事は、、、まぁそうだろうけど、家族・友人として個人的な思い入れがある場合ならともかく、それより薄い人間関係なのに振り回されている場合には、ここで述べられるような対応はできないと思ったのが正直なところだった。
また、第六章「社会をむしばむ人格障害」、第七章「浸透する人格障害の背景」、第八章「人格障害から子供と社会を守る」は、、、既に出現している現象を、一精神医である著者個人が考察している訳で、また、提示される解決策も著者の属する年齢層やジェンダーに由来する何らかのバイアスを感じとれるので、別の視点をもつ個人からは全てを納得できるものではない。そんなにすっきり解決するなら世話はないよなぁと思ったのが正直なところだが、そもそも著者の提案をその通りに実施されるのは非常に難しいと思われ、やってみたところで結果が出るには時間がかかるので、この辺りは(私自身は)あまり重要視していない。まぁ、本の構成上、そういう章を入れざるを得ないのだとの感想をもった。
さて、上記はテキトーに要約したが、意図的に第一章と第二章を飛ばしている。
これは、まさにこの辺りがこの本で最も重要に感じられるからだ。
第一章「おかしいのは、子供だけか?」として、子供達の心や生活に異常な事態が生じている事は疑いないとしながら、しかし、本当におかしいのは子供の方なのか?子供を取り巻く環境はどうなのだ?と、著者は疑問を立てる。そして、著者が精神科医として面談した凶悪犯罪を犯した子供の例から、そういう子供が得てして悲惨な生育環境をもつと書き、子供の親たちが子供の犯罪をあくまで子供の問題として片づけ自分自身の問題に気づかないと述べる。
そして、次の小見出し「身から出たサビに憤る大人」として、今時の若者がと批判したがる大人に対し「若者を非難できるほど大人は立派に行動できているだろうか。今の世の中が、どれほど無責任で身勝手な大人達で満ちているか、今さら述べるまでもあるまい」「そんな風に若者を育て、教育してきたのは大人達だったはずである」とし、「問題を、ただ他人事のように非難し、自分から切り離す事ですませられるだろうか。(中略)物事の一側面だけを問題にして、自分に都合のいい事は賞賛し、都合の悪い事は非難するというやり方は、まさに『人格障害』的なのである」と述べる。その、自分にとって都合のいい結果も悪い結果も、自分自身に原因がありながら自分自身に原因がある部分は見えない(もしくは見ようとしない)様子を、「心理学的にいえば『分裂』『投影』『否認』という自分を守るための操作なのである、それは人格障害的な心理構造において特徴的な防衛メカニズム(引用者注、健康な人も時には用いるが、子供や人格障害の人で多用すると後述される)でもある」とし、「大人から子供になされる非難の多くは、大人達が自分の問題を否認し、子供に投影した物と言える」する。そしてさらに、「近頃の子供はキレやすい」といわれる事に関し、犯罪白書のデータを引用してキレやすいのは近頃の大人も同様である事を示す
(ニュースを聞いていても、子供が云々言った後に66歳のジーサンが階上の住人が五月蝿いと窓から侵入してさしたなんてのを実際に聞いて目が点になった事もあるもんね)。
そうして、この章の結論として「子供のように感情も行動もコントロールできない大人達」をむしばんでいるモノとして、人格障害がある事を結論づける。
第二章「人格障害とは」として、個別の人格障害に触れる前の、共通する特徴が述べられる。
定義やら何やらは、ネットで適当に検索すればいくらでも出てくるのでともかく。
人格障害としてくくられるカテゴリーにはタイプによって特徴が様々であるが、いくつかの共通項(ここでは三つ)があると述べられる。
個人的にはここが最も重要な記述だと思うし、著者も「さまざまなタイプの人格障害には共通する特徴があり、それを知る事が人格障害の本質を理解する事につながるのである」と述べている。
その共通する特徴の一つ目は、「
自分への強い執着・こだわり」との事である。これは過剰な自信に類する状態として現れる事もあるし、強い自己否定として現れる事もある、との事。
特徴の二つ目は、「
傷つきやすく過剰に反応しやすい」点だとの事。些細な言葉を攻撃として受け取るといったややこしい反応につながり、摩擦を生じやすくする。
三つ目は、「
両極端な思考に陥りやすい」事。人格障害の人には中間が無く全肯定か全否定。部分肯定などはなく、わずかな批判的な表現で相手を完全に敵と認識するといったような、思考パターンに陥りやすいという事だ。
これらの特徴がいろいろな現れ方をした結果、人格障害の人は、加害者的な側面と被害者的な側面の両方をもつそうだ。自分を否定する人は、彼女(もしくは彼)らにとって加害者だ。だから、彼女(もしくは彼)らは主観的には被害者として防衛する。しかしそれは、周囲の目には彼女(もしくは彼)らの方が加害者として写る。実に大変だ。
一方で人格障害の人たちは、自分を守るための代償的な能力として、他者にアピールする能力が高い事も、この本において述べられる。他人の庇護を得る必要が高いため、、、との事だが、その指摘は実に首肯できる。
私自身が遭遇した二人も、これがカリスマ性というものかと感心したぐらい、ある種の人を引き寄せる何かを持っていた。そういった能力を生かし、適した業界でうまくコントロールし昇華されれば大きな活躍ができるそうである。うまく適応しさえすれば、もはや障害ではなく一つの「個性」「才能」として貴重な物となるというが。。。
ただし、これが病的に使用されると、、、周囲を振り回し、心理的に支配する事になる。また、この本においては述べられていないが、、、実体験とネット情報から判断するに、
引きずられる人も出る(リンク先はちょっと微妙なので注意の事)ので厄介な事になる。
私にとっては、今までのところコントロールに成功した例を知らず、こういった人に振り回されるか、被害を最小限にするために腐心した記憶しかもっていないため、かなり悲観的かつ批判的になってしまう。結局のところ、知人程度の関係や職場の人員としては、そしてあれだけ状態が悪ければ、、自分自身や職場の機能を守るために選択肢がない。個人として何とかしようと本気で思った場合は、自分自身の人生を捧げるぐらいの覚悟が必要だと判断したからだ。しかし、個人的にはそんな思い入れは全然無かった訳だ。
とはいえ。
そうはいっても、その私にしても、これらの出現は既に起こっている現象なので、個人としてではなく社会としては何とか折り合いをつけて行くしかないと思う。
そして、ネット上を見て回ると、、、「あ、これは」と思う例をしばしば見つけられる。
そして、まともに向き合った結果、大変な思いをしている人がいる様子ではある。
では、そこにこういう切り口を提供したら、、、大変な思いをする人が少しは減るんじゃないだろうか。
この切り口を使う事で理解しやすくすれば、お互いの摩擦が少しは減って、互いに楽になるんじゃないか。
そう思ったんで、この一連の記事を書いてみる事にしたんだけど、どうなんだろう。。。
そうそう、この記事を書くにあたって、久々に人格障害がらみのWWWページを回ってみたんだが、
興味深い記述があった。
境界性人格障害では、アメリカ精神医学会 DSM-IVの診断基準として5つ挙げられているうちの、「現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする気違じみた努力」「理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式」「同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像または自己感」「自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰返し」「顕著な気分反応性による感情不安定性」「慢性的な空虚感」「不適切で激しい怒り、または怒りの制御困難」あたりは、私の遭遇した二人には見事に当てはまっていた、、、二つ当てはまれば十分なのに。
また、
自己愛性人格障害の説明で(以下、抜き出していますので文脈に沿った文意は原文参照の事)「自分は特別な人間だ、パンピー(一般のピープル)とは違うんだという意識から、小市民的な生き方を軽蔑し、そういう人達と一緒にされることを嫌います。裏付けとなるものがなにもないのに、一目置かれる存在であることに非常にこだわります。 あるいは、自分という人間は特別な人しか理解することができないのだと思ったりします。」「自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない」「自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する」「自分自身の目的を達成するために他人を利用する」「共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない」「尊大で傲慢な行勤 または態度」
…うーみゅ。この特徴から判断すると、例えば、自分の意見を理解できないのはおまえのレベルが低いからだ、とか、いう意見が出てきそうですな。
もう一件、
こちらでは自己愛性の具体的な特徴があげられている。以下、箇条書きを引用すると、
1. あからさまな傲慢さ
尊大で横柄な、また大げさで相手に軽蔑的な態度をとります。社会生活での慣習や規則をバカにし、自分には愚かで的はずれな規則だとあざ笑います。自分の高潔さを他人が見のがすことには怒り出しますが、他人のそういうことに対しては全くの無関心です。
2. 対人関係での搾取
当然の権利だと考えています。常に相手に対して自分を特別扱いするよう求めます。はずかしげもなく、自分が目立つためや願いを叶えるために他人を利用するのは当然のことと考えています。
3. 誇大性
えっ?と思うようなの空想をしたり、成功や美、愛に関する未熟で自己満足的な想像に浸りがちです。客観的事実はどうでもよく、事実を勝手に曲げ、自分に対する錯覚を必要とあらばうそをつくこともかまわない。
4. 自己像の賞賛
自分は価値があり、特別で(ユニークでなくても)大いなる称賛を受けるに値する人間だと信じていて、誇大的で自信に満ちた行動をとります。しかし、それに見合うような成果を収めることは少ないです。他人にはわがままで、軽率で、おおちゃくな人間だとみられているにもかかわらず、自分の価値を信じています。
5. 他人へのわざとらしさ
過去の対人関係はいいように記憶が変えられています。受け入れることができない過去の出来事や苦しみは簡単に作り直されます。
6. 合理化のメカニズム
自己中心的で周囲に対して思いやりに欠けた行動を正当化するために、もっともらしい理由を付けようとする。それらは欺瞞的で浅はかなものです。
7. 偽り
みえみえのうそをつきます。失敗をしてもすぐに埋め合わされ、プライドはすぐに復活します。
8. 無頓着
いっけん冷徹で無感動な自分を演じます。逆に、軽快で楽天的であるが、自己愛的な自信が揺さぶられると怒りや恥の感情や空虚感が表に出てきます。(引用は以上)
あるいは、
こちらでは、境界例(あるいは境界性)人格障害として「自分が人から見捨てられるのではないかという強い不安を持っています。人からの完全な愛を求めます。そのため、いろいろな方法を使って、周囲の人を操ろうとします。(中略)自分の味方を作るためにウソをついて、他人を仲たがいさせることもあります。この人たちは、上手く行っているときはなかなか魅力的で、知能も高い人もいるので、学校や職場に入ってくることもあります。しかし、集団の中ではその人が元で様々な問題が起きてしまうトラブルメイカーになるでしょう。また、感情が激しく、爆発的な怒りを抑えることができません。極端なわがままを言うこともあります。」
自己愛性人格障害として「自己愛性格障害者は自分だけがすばらしい人間だと思っています。自分が成功しないのは、自分が悪いのではなく、周りの見る目がないと感じます。大人になって、自分の能力がそれほどでもないということになると、生活が破綻することがあります。」と述べられている。
いずれの記述も、現実に遭遇した人たちに当てはまる事が多い。
しかも、どうも境界性だけじゃなく自己愛性の特徴も当てはまったりする(場合によっては演技性も)。
現実にこういう人たちが存在する訳で、、、さて、ではもし再度、現実で遭遇した場合は一体どうしたもんかとは困ってしまったりもする。今までの人たちほど極端じゃなければ、折り合いがつけれるんじゃないかとも思うんだが、、、どうなるかはさっぱり解らない。
今までの二人は専門医に受診していたのに、、、いや、病気を自覚し専門医で受診する事で「精神科に受診するほど
可哀想な私」バリアーが強化された様子で、さらに悪い方に転がったフシすらあったし。
そこで、より多くの人が、こういう人たちが現実に存在する事を認識して、ともにこの社会に存在する者同士として、どういう風に付き合う事で快適につきあえるかのよりマシな方法論が考え出され、それが共有される知識になってくれる事を切に期待する訳だ。
そういう訳で、まずは、こういうのがありますよ、と言いふらしてみる。
…また言いふらすのか。。。