『フラット化する世界 下』@城南島海浜公園
モスのプレーンドッグ、ソーセージの端をねじってある腸のかたまり、味のないあれを何十回も噛んでいるのが楽しくてまた食べてしまう。
北の奥に入り組んだ先にある、波がないお台場と違い、ここは砂浜に打ち寄せる波音を聞くことができる。ただし、すぐ南の羽田から離陸した旅客機がま上を飛んで行くので、轟音に包まれること数分間隔。これさえなければ…
15章の「フラットでない世界」、文章がどんどん熱を帯びてくる。読む方も一気に読み進んでしまうのだが、著者のフリードマン氏は、本当は世界はそうやすやすとフラット化なんかしないと感じているのではないか。
世界中を取材してまわり、フラットにいきわたるITのテクノロジーを見るほど、欧米とイスラム諸国との果てなき対立がくっきりと浮かび上がってくるようだ。
著者によると、「中流意識」があるかないかは、収入の多い少ないではなく、自分の将来に明るい未来を思い描けるかどうかで分かれるらしい。自分も東京のワンルームで一人暮らしをしていて、さびしいと思いつつもやっているのはそれのおかげかもしれない。底辺PGではあるけれどIT業界でその技術で食べているという社会との接続があるからこそ勉強に楽しみもあり、またそれがなければ、とてもじゃないが東京で根なし草暮らしはやってられない。
911テロの実行犯たち、ヨーロッパでハンブルグ工科大学などに通いつつ何年も暮らしてれば、それなりに西欧世界で職を得て家庭を持ち、やっていくこともできたはずだ。秋葉原で殺傷事件を起こした犯人とは違い、「中流意識」は持てたはずなのに、なぜあんなことを起こしたのか(著者はアメリカの自作自演説を完全否定)と著者は考えている。
彼らはやっぱり、周囲のヨーロッパ社会には溶け込めなかった。そこで、地域の礼拝堂に顔を出して「温情や連帯感」を味わい、「信仰を新たに」した結果、過激派になっていったという。テロリズムは金銭的欠乏からではなく、自尊心を得られない「屈辱」から生まれるというのが筆者の説だ。
なにも極度の暴力テロに走るかどうかではなく、そうした傷ついた気持ちに対して宗教や集団活動に属することで温情や連帯感を分かち合おうとすることは、誰であろうとも否定も責めることもできない。これは絶対だ。
でも、屈辱を感じる疎外感から集まった集団は、いつか外との境界に心理的なフェンスが張られることになる。
そのフェンスは心理的なものにすぎず、たとえ向こう側に行くことができたとしても、一度生まれると二度と消すことはできない。人と人との信義心はかけがえのないものだから、かつて感じた温情や連帯感を忘れ去ることは絶対にできない。
世界がいくらどれだけフラットになろうと、その人が死ぬまでそれは終わらない。たとえ憎しみ合わなくても、軽蔑しあわなくても、かわいそうだと思わなくても、何とも思わなくなっても、フェンスはなくならない。僕は家族との間にフェンスが生まれて疲れ切った。だから自分を教祖にすることにしている。もちろん信者もいらない。
フラット化した世界がいつかくるなら、それはフェンスのない、ジョン・レノンの「イマジン」のような世界だと思う。(いつもこういうことをグズグズ考えているみたいだから、小学生の作文のように終わっておこう。書いておいて何だが考えても前に進まないし)