『コンテナ物語ー世界を変えたのは「箱」の発明だった』を
404 Blog Not Foundの書評でぽちった。読み始めて、404氏の表現が大げさであることを理解したので、javascriptでコメント欄に匿名でひやかしていたら、秋葉原の事件が起きてぞっとしてしまった。
ネットで名無しで行動するのはえてして、実名や肩書ありでは話せない本音の内容だったりする。M.S(イニシャル)は淫乱だからこの携帯に電話しるとか、顔に出して行動できないが思ってはいること、トイレの落書き。秋葉原の犯人のように、親に仮面をかぶせられながら大人になって社会に適合ができず、携帯の掲示板で本性むきだしにして最後は現実の秋葉原で爆発終了しまうなんて、名無しの匿名と現実社会での実名、どっちが仮面だか本人にも区別できなくなっていったんじゃないだろうかという気もする。
個人のレベルから話を広げれば、本音と建前の使い分けに整合性がなくなっているのは企業も同じだ。役人やマスコミ記者が居酒屋で後日談して表に出ない話がネットで広まり、不祥事を隠しきれなくてあとから謝罪したり、あるいは犯罪予告の掲示板書き込みを警察が把握しなくてはとITゼネコンが数億円の見積もりを上げたと同時に、十分使える
予告.inが話題になって役人仕事意味ねーってなったりするのは、ITゼネコンの中の人よりスキルのある人が外にうじゃうじゃいて看板の建前が通用しなくなっているからだ。
そういった情報社会の
『フラット化する世界』が物流でも起きているというのが、404氏書評のこの『コンテナ物語』。コンテナの登場前、船での輸送は国家が運営する鉄道輸送と同じで、役人が協議して秩序を決めるシステムの中にあった。それが、スーパーに並ぶ世界中の食材からユニクロの500円Tシャツ、日本中の木造住宅の杉の柱まで、コンテナに詰め込んでタンカーで運び、港では中も開けずクレーンでトレーラーに積みかえては運び出すようになり、これで人々の消費生活レベルがフラット化していった。本書ではバービー人形にたとえている。アメリカの綿花が中国で生地になりインドネシアで服にして、日本で髪の毛をつけて世界中に運ばれ、親の収入の数千、数万分の1の値段で販売することができて世界中のより多くの女の子がハッピーになったというわけである。別の意味でいうと、ニートという人種も、月10万以下の日雇い派遣がなんとか食べていけてるのも、コンテナ輸送のおかげともいえる。
コンテナ輸送化により、多くの港湾都市や業界企業、団体の衰退絶滅がこの本では詳述されているが、同じような変化が今後も他の経済分野に及んでいくのだろうと思う。とくにIT業界での人材の流通では、予告.inがひとつの浮き彫りとなっているかもしれない。熱心にやれば立派に金を稼ぐはずの五体満足健康体の数十万人の成人ニートが、就労人口の一定のシェアを占めてしまっているというのは、何らかの社会構造が不適合をきたしているしるしだろうと思う。そんな人たちもフィットする、活用できるような形の産業構造になっていかないと、日本という国自体が人材や組織のコンテナ輸送からスルーされてニート化していくことになるかもしれない。
以前に
世界の人口が100人だったらという例え話が流行ったが、経済的な幸福や不幸はゼロサムゲームで、お金の価格に換算された富はどこからともなく湧いて増えるわけではない。価格は常にモノの希少性とそれを欲しがる人の数の競争の結果が反映されている。ただ、コンテナ輸送のようにモノの値段全体をズドンと下げて誰もが幸福度を上げるような技術の場合は別だ。アメリカでコンテナ輸送が盛んになった60年代後半から80年代にかけては、日本も船会社をはじめ霞が関もアメリカの状況をよく観察し、港、船、鉄道、トラックと一度にシステムを変更しないと効果の出ない改革が、アメリカで確認されるやいなやタイミングよく莫大な予算を投入して実行されたとこの本でも言及されている。アメリカという実験地があり、日本が追いかけるべきグランドデザインが議論の余地もなく見えていれば、政官財の癒着構造もむしろ日本の誇れるやり方であり、効率のいいシステムだ。
しかし、政官財のトライアングルは、グランドデザインを自分で描いていたわけではない。だから新しい技術の種をまいて芽を育てることなんてできない。にもかかわらず、大企業の金看板とその業界団体、またそれらからキックバックを受ける政治家と役人のシステムは解体されない。その結果、トライアングルの目の届かないところで吹いた新芽を自ら踏み潰し、残るは荒地のみとなってしまいそうなら、自分が負け犬になる理由が納得できない狂犬の牙が秋葉原の次はそっちに向かってしまい、キナ臭い時代になっていってももうしょうがないのかもしれない。
最終章の「コンテナの未来」で著者は次のことばを引いている。
「あらゆる変化は誰かをより幸福にし、その分ほかの誰かを不幸にする」 (経済史家ジョエル・モキルという人)