周囲から神童と呼ばれた子が成長して大人になると社会になじめずにドロップアウトしてしまうということがある。著者は10代半ばで理系大学の教養課程を終え、そこからドロップアウトした後また戻って哲学を学んで教員となった。しかしまた精神を壊して授業で一切なにも喋れなくなり、日常生活にも困難をきたして入院した。
そこでECT療法という、電気ショックを脳に与えて治してしまう治療がおこなわれる。
これは今でも重いうつ症などに行われているらしく、劇的に症状が改善するかわり、過去の記憶が断片的に失われる。調子の悪いテレビを叩いて直すように、こめかみから高圧電流を流すという原始的な方法の是非があるとはいえ、精神状態が通常に戻り、社会生活に返れることをよしとするなら、これは効果のある方法なのだろう。人間として立ち直れないほどのショックを受けたのなら、完全に失ってしまった方がいい記憶というのもあるのかもしれない。
本書は、入院前の自分を「パイドロス」と名付け、(実際彼にとっては他人のようである)アメリカ大陸を息子と一緒にバイクで旅する本だ。もちろん、小さい息子は「パイドロス」のことは知らず、入院前後で人格が変わってしまったことも知らない。1974年の初版でベストセラー、全世界では500万部売れたとあるが、当人の実話である点と、徐々に事実が明らかにされていくストーリーというところを除けば、随所で展開される哲学的な考察は難しく、読み進めるのが大変だ。1月弱かかった。
ギリシャ文化以来、欧米人が物事を整理して理解するロジックツリー方式にかけては、工業製品のマニュアルを執筆するテクニカル・ライターでありかつて大学で教鞭もとっていた筆者は一流だ。一方で、精神に崩壊をきたすにいたった理由はそれとは正反対のところにある。《クオリティ》と筆者ないしパイドロスが名付たそれだ。
「禅」であるとか、ギリシャ語の「アレテー」とか「イデア」とか直感とかいろいろ言われるが、要は何か、分類、細分化、帰納という科学的なロジックツリー方式が取り込めない「絶対的な存在」、つまり、我々が忘れてしまったせいで、人間的な人生や暮らしが送れなくなってしまっているという、それである。
「絶対的な存在」なというとよけい分からなくなってしまうが、分かればノーベル賞、パイドロスのナレーターたる筆者の言葉に耳を傾けるばかりでる。
農業は大変、というが、工場の生産ラインで派遣労働するのとどちらが人間的かといえばあらためていうまでもない。ホワイトカラーもそう違うとは思わない。みな仕立てのいいコートや、おしゃれな服装で着飾っているが、それも数年で着古してはまたコンテナで運びこまれて吊るされているものに置き換わる。一歩引いて工業サイクルの流れだと思って眺めてみれば、朝、JRの駅で何千もの人が仏像のような顔で同じ歩みで流れていく様子には、《クオリティ》を感じられないのは同じだ。それに、自分の人生を鷹の目で組み立てていけない人の工場派遣労働と違って、農業は飢えや貧困のボーダーラインが国家によって保障されている。腰をかがめて土に向かっている農業の姿からはもはや貧しいイメージが湧いてこない。どちらがまだしも「人間的な人生や暮らし」かもいうまでもない。
いったい何が失われてしまったせいで、我々はしかめっ面な人生を送っているのか?パイドロスは電気ショックで消滅してしまったし、パイドロスの断片的な記憶と奮闘する筆者を父として眺める息子のクリスも死んで読者には初めから過去の人だ。ずっと父親だと思っているクリスと手術の前後で別人になってしまった筆者との親子のやりとりはそのまま、この時代に対するくさびに思えてくる。
文明は豊かになろうとする人々のパワーの総合で築かれるが、その人々自身がその文明を支持できていない。日本に生まれてよかったですかというアンケートには過半数がはいと答えるそうだが、じゃあ、あなたの会社の社長を尊敬していますか?総理大臣を支持していますか?といえば逆である。安倍さん、福田さん、麻生さん、それぞれ優秀な人で、政治システムに国民の心理的な信任がちゃんとあれば、みな立派な総理といわれてもいい人達だと思うが、我々はその代理者、代表者を選ぶシステム自体を支持していないので誰がなっても同じになってしまう。会社の役員の選ばれ方も同様。
いったい何が失われているのか?僕が小学生のときは、学級委員は無記名投票で教卓に置かれた投票箱に投票して行われた。立候補者がいなくても普通にみんなよりできるやつ、責任感があるやつが選ばれていた。なぜ子供でもできていることが大人にはできないのだ?
これを子どもじみた質問だといえる人は、この疑問を子どもが理解できるような説明ができる、立派な《クオリティ》を判断する目を持つ人に違いない。
著者は、たとえばバイクのメンテナンスで人間らしさを取り戻すといっている。ちょっと変わっているが、
高校時代はスクーターを全部ばらしていじっていたので理解はできる。頑として固着して外れないネジに立ち向かって問題を解決し、また甦ったバイクのエンジン音を聞く。
一つの機械をなめらかに動作するように組み上げて、風を感じる。このプロセスには人生が凝縮されていると思う。その結果得られたスキルで困っている人を助けることもできればいうことなしだ。
たとえばの話でバイクなのが特殊だが、このプロセスと人生や暮らしとを組み合わせるシステムを、我々は組み上げられない。
どんなに物質文明が豊かになっても、豊かになろうとする人々のパワーの総合がそういうシステムを構築できないのだ。
好きなことを仕事にできると思うな甘ちゃんとか、働かないやつは食うなとか、労働の美徳の話ではない。そういう人はそれを設定して生きるバネとすればよいし、筆者の言わんとするところでもない。
※クオリアという言葉もある。これは脳が受けた刺激を人が認識するまでのプロセスのところについて、似たような指摘になっているのかもしれない。