作品成立・背景
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三島由紀夫は作品発表の前年の1949年(昭和24年)夏に、関西から上京した叔母(母・倭文重の妹・重子)から聞いた婚家の江村家の農園の話をヒントに作品の着想が浮び、同年10月、大阪郊外の豊中市へ取材に行った。 叔母の重子が嫁いだ豊中市の江村家は、江村義三郎(日立造船勤務)が約一万坪の土地を別荘地として購入し、終戦直前に移住し園芸を営んでいた。この農園で雇われている〈若い無邪気な園丁〉のことを聞いた三島は、当時愛読していたモーリヤックの影響からか、突然と一つの物語の筋が〈ほとんど首尾一貫して脳裡〉に浮んできた。 2週間ほど江村家に滞在して周辺の取材をした三島は、同日に開催された原田神社と八坂神社の祭の両方を見て、「これで小説が何とかなりそうだ」と従弟の江村宏一(重子の長男)に語っていたという。人物の配置は仏蘭西古典劇に倣い、農園を備えた屋敷を一王国とする構想も生まれ、三島は翌年早春から執筆に取りかかった。 なお、当初予定されていたタイトルは黙示録の大淫婦の章からとられた『緋色の獣』であったが、出版者の意向で『愛の渇き』と改題された。もし当初予定されていたタイトルの『緋色の獣』の「緋色」が生かされていれば、この前後に書かれた作品『純白の夜』、『青の時代』と合わせて、トリコロール(フランスの三色旗)になる筈であった(さらに、この後には、『禁色』=紫が付加される)。
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作品成立・背景
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堀辰雄は1923年(大正12年)の10月に、室生犀星から芥川龍之介を紹介されて以来、芥川を師として慕い、芥川の滞在していた軽井沢にも行っていたが、そこで芥川の恋人であった片山広子(筆名:松村みね子)の家族とも交流を持つこととなり、芥川と片山広子の恋愛も知っていた。その芥川が突然、1927年(昭和2年)7月24日に自殺したことは、堀にとって大きな衝撃であった。当時東京帝国大学文学部国文科の学生であった堀は、1年半後の卒業論文に以下の「芥川龍之介論」を記した。 芥川龍之介の死は僕の眼を「死人の眼を閉ぢる」やうに静かに開けてくれました。(中略)実は、僕も最初、彼の晩年の作品の痩せ細つた姿を唯痛々しさうに見てゐた一人でありました。しかし彼は最後に、彼の死そのものをもつて、僕の眼を最もよく開けてくれたのでした。僕はもはや彼の痩せ細つた姿だけを見るやうな事はしなくなり、彼をしてそのやうに痩せ細らせたものに眼を向けはじめました。そして、その彼の中のそのものが僕を感動させ、僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい価値を与へること、それが僕にとつて最も重大な事となります。 — 堀辰雄「芥川龍之介論―芸術家としての彼を論ず」 さらに堀は卒論を発表した同年、「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事の終つたところから出発するもののみが真の弟子であるだらう。芥川龍之介は僕の最もいい先生だつた」と述べ、芥川が最後の残した言葉である「何よりもボオドレエルの一行を!」を挙げながら、「僕は此の言葉の終るところから僕の一切の仕事を始めなければならない」という決意を示し、日記にも、「我々ハ《ロマン》ヲ書カナケレバナラヌ」と日記に記している。 芥川の死から約3年後に発表された『聖家族』は、「死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた」という象徴的な冒頭文で始まり、その理知的な心理描写や文体にラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の影響が見られる。堀は、「ただもう何かに憑りつかれたやうになつて、一週間ばかりで書き上げてしまつた」とし、刊行本に際して、「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」綴った。 『聖家族』脱稿後の1930年(昭和5年)秋、堀は多量喀血をし、翌年1931年(昭和6年)4月に富士見サナトリウムに入院した。
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堀辰雄は自身を主人公にした『美しい村』で、失恋の痛手から生への意欲を取り戻した後、モーリアックの『小説論』の中の「最も客観的な小説の背後にも、……小説家自身の活きた悲劇は隠されてゐる。……しかし、その私的な悲劇がすこしも外側に漏れて居なければ居ないほど、天才の成功はあるのだ」という一節に出会い、再び『聖家族』以来の課題であった「我々ハ《ロマン》ヲ書カナケレバナラヌ」という意識に立ち返り、1934年(昭和9年)に、日記形式の作品『物語の女』(のち「楡の家」第一部)を書き上げた。 堀はすぐにその続編となる「娘の日記」の構想を練っていたが、婚約者の矢野綾子の死去により、『風立ちぬ』を書くことになった。しかし堀は、『風立ちぬ』や、折口信夫やリルケ体験から結びついた王朝文学へ傾倒の作品を書きながらも、『物語の女』の続編を考えており、1940年(昭和15年)1月に、「『菜穂子』(仮題)という小説」を目下構想中だと『帝大新聞』のアンケートに答え、「おぼえてゐるかしら、僕のずつと前に書いた『物語の女』のなかに出てくる菜穂子といふ若い娘を」と切り出し、以下のよう語っている。 あの娘がいつかしら僕の裡ですつかり大人になつて、知らぬまに思ひがけず悲劇的な相貌を具へ出してきてゐたのです。みかけは異ふが、あの母と同質の、悲劇――いはば生の根源に向はうとする無邪気な心の傾きをそのまま、血気のあまりそれによく踏みこたへた母の抵抗ももたなければ、又彼女の共に生きなければならなかつた人々のより非人間的な、(それが世間では反対になんと人間的とおもはれてゐることか!)冷たい心の機構のために、あやふく彼女を待つてゐたやうな悲劇のまつただ中に墜ち入らんとして、漸くふみこたへつつ、遂に一抹の光――あのレンブラントの晩年の絵のもつてゐるやうな、冬の日の光に似た、不確かな、そこここに気まぐれに漂ふやうな光を浴び出す一人の女の姿――そんな絵すがたを描いてみたい様な欲求が、いま、僕を捉へてゐるのです。 — 堀辰雄「帝大新聞アンケート 1940年1月」(「『菜穂子』覚書I」) 堀は『菜穂子』の執筆動機を、「その短編(物語の女)の女主人公を母にもち、その素質を充分に受け嗣ぎつつ、しかもそれに反撥せずにはゐられない若い女性として、その母が守らうとした永遠にロマネスクなるものを敢然と自分に拒絶しようとする若い女性の人生への試みが私の野心をそそのかしたのだ」と語り、書きあげた感想として、「作品の出来不出来はともかくも、作者の私にとつては、生まれてはじめて本当に小説らしい小説を書いたやうな気がする」と記している。 なお、『菜穂子』を詠んだ岸田国士が、菜穂子の映画化を木下恵介監督で考えていたが、実現には至らなかった。
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三島由紀夫は、細江英公が1961年(昭和36年)に刊行した写真集『おとこと女』(舞踏家・土方巽を撮影したもの)を見て絶賛し、三島自身の評論集『美の襲撃』(1961年11月)の口絵写真か表紙を、講談社の編集者・川島勝を通じて細江英公に依頼することにした。川島に連れられて細江が助手の森山大道と共に9月13日に三島邸を訪問した際、裸で日光浴をしていた三島が慌てて服を着ようとすると、細江がそのままでいいと言いながら、ゴムホースを探してきて三島を撮影したことが、写真集へのきっかけとなった。三島は、ゴムホースを巻かれて撮影された時のことを以下のように語っている。 私は氏に、「一体これは何を意味してゐるんです」ときいた。氏のまことに簡潔な答は、「偶像破壊ですね」といふのであつた。私曰く、「へえ、そんなら、僕なんかやつつけたつて仕様がないぢやないですか。僕は第一偶像ぢやないし、第二に、自分で自分をいつも破壊しようとしてゐる人間だ。本当に偶像破壊をやりたいなら、老大家を裸にしてゴムホースを巻きつけたらいいでせう」 「そのうちやりますよ」その言やよし、私共は意気投合した。そして氏が、展覧会に出す連作を撮らしてくれ、といふので、私は、それが明らかに商業的なものでない、氏の本当の仕事にしようとしてゐることを確かめて、快諾した。 — 三島由紀夫「『薔薇刑』体験記」 このような経緯で、1961年(昭和36年)9月13日から約半年間にわたり十数回ほどの撮影を重ねて、『薔薇刑』刊行に至った。三島は、「細江氏のカメラの前では、私は自分の精神や心理が少しも必要とされてゐないことを知つた。それは心の躍るやうな経験であり、私がいつも待ちこがれてゐた状況であつた」と語っている。 撮影場所は、おもに東京都大田区南馬込の三島邸で、その他目黒区の舞踏家土方巽の稽古場「アスベスト館」や、江東区亀戸の廃工場跡、港区青山教会跡地の建築工事現場など。協力モデルは土方巽と女優の江波杏子、土方夫人の元藤燁子。三島は自邸での撮影に際し、「家族の教育上よくない」との理由により、瑤子夫人と長女の紀子(当時2歳)を、文京区目白台にある夫人の実家に里帰りさせていた。そして家族の写真は一切撮影を許さなかったという。 亀戸の廃工場跡の一角で人目を避けて撮影していた時、三島は褌だけ、江波杏子は下半身がジーンズで、上半身はブラジャーだけの姿であったが、あれこれとポーズを取っていると突然、「ヒャー、いいぞ! いいぞ!」と囃し立てる喚声が上がり、びっくりして見上げると、隣の工場の二階の窓から鈴なりの人々が見ていたという。三島は、「身の置き処を失つた。むかうはエロ映画でも撮つてゐると思つたにちがひない」と羞恥体験を語っている。 モデルの奇怪なポーズのアイデアはほとんど細江英公によるものであったが、細江はモデルとしての三島について、「三島さんは映画にもお出になったが、俳優というよりもすばらしいモデルです。そのままでいて下さいといえば、一分間ぐらいはまばたきもしない。こんな人はいません、日本一のモデルですよ」と述べている。三島は写真集の意義について以下のように語っている。 芸術家はだれでも自分自身が芸術そのものになりたいという願望があるんだそうですよ。でも恥かしくてそれを口に出せないだけなんです。私小説で自分がみっともないかっこうをして、薄ぎたない恋愛をするのを書くのも、その姿が芸術だと自信がなくてはできることではないでしょう。私は詩が書けないですが、あれは写真家と共同の詩的作業なんです。写真の詩集なんだと思っています。 — 三島由紀夫「日本一の被写体――三島由紀夫氏」(細江英公・三島由紀夫へのインタビュー記事)
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深沢七郎は、「姥捨伝説」を、山梨県境川村大黒坂(現在・笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを、肝臓癌を患った実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死に重ねながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した。また、おりんの人物造型には、キリストと釈迦の両方を入れているという。 なお、作品舞台は「信州」となっているが、描かれている人情や地形は山梨県の大黒坂の地であることを深沢は以下のように語っている。 拙作「楢山節考」は 姥捨の伝説から題材を得たので信州の姥捨山が舞台だと思われているようだが、あの小説の人情や地形などは、ここ山梨県東八代郡境川村大黒坂なのである。もちろん現在のここの風習ではなく、もっと以前のこの土地の純粋な人情から想像してあの小説はできたのだった。だから「楢山節考」に出てくる言葉―方言は信州ではなく甲州弁である。 — 深沢七郎「楢山節考・舞台再訪」 また、作中には、「三」と「七」という数字が多用され、「三つ目の山を登って行けば池がある。池を三度廻って」、「七曲りの道があって、そこが七谷というところ」などと語られ、「楢まいり」に行く年齢が70歳、おりんの歯が33本、といったような神秘性がある。深沢七郎の「七郎」という名前も、故郷の身延山の山奥にある七面山から由来しており、仏教信仰の厚い両親が、その神聖な山にちなんで名付けたという。 深沢は『楢山節考』執筆当時、ギタリストとして様々な公演に参加し、作品は家と日劇ミュージックホールの楽屋で書いていた。そして、そのとき公演の構成演出をしていた丸尾長顕の勧めで、雑誌『中央公論』の新人賞に応募して、中央公論新人賞を受賞した。なお、審査の選考委員は、三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳であった。
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作品成立・背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 07:38 UTC 版)
少年時代から欧米の探偵小説愛読者であった坂口安吾は、戦時中の飲み歩くのも不自由となった頃、同人誌『現代文學』の仲間(大井廣介、平野謙、荒正人)らと、大井邸で探偵小説の犯人当てゲームに熱心だったが、自身も探偵小説執筆の構想を考えていた。安吾が犯人を当てることはほとんどなく、「きみたちには、ぜったい犯人のあたらない探偵小説を、そのうちに書いてみせるよ」と言っていたという伝説もある。ある日安吾は、約350枚の原稿用紙の束を持って大地書房の雑誌『日本小説』の編集部に現われ、雑誌の編集意図が気に入ったのでこの長編小説を連載してくれないかと、編集長の和田芳恵に申し入れたとされる。 また、以前から雑誌『日本小説』記者・渡辺彰に小説の執筆依頼をされていたともされ、荏原郡矢口町字安方(現・大田区東矢口)の安吾の家で毎週水曜日に行われていた飲み会に参加していた渡辺彰が、そこで焼酎を飲んだ後に喀血したことに責任を感じた安吾が、渡辺の療養費のために『不連続殺人事件』の原稿料を彼に回し、安吾自身は出版社から報酬を貰わず、雑誌連載中に行われた読者への懸賞金も、安吾の自腹から出していたという。 懸賞金は、安吾から読者への挑戦状という形で、「犯人を推定した最も優秀な答案に、この小説の解決篇の原稿料を差し上げます」という真犯人当ての課題が連載第1回に掲載された。この犯人当てで大井廣介、平野謙、荒正人、江戸川乱歩らの文人も指名して挑戦し、結果は最終回で発表されて4人の読者が犯人推理について完全答案を提出し、文人では大井廣介が4等入選した。1等は、物理学校の生徒だったという。 安吾の随筆『私の探偵小説』では、「私もそのうち探偵小説を一つだけ書くつもり」としていたが、『不連続殺人事件』に続いて長編『復員殺人事件』(未完)やシリーズ物の『明治開化 安吾捕物帖』、その他短編を中心に20作ほどの探偵小説を執筆することになった。
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作品成立・背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:02 UTC 版)
『檸檬』の原型となっているのは、1924年(大正13年)に書かれた習作『瀬山の話』の中の断章「瀬山ナレーション」にある挿話「檸檬」である。この断章の挿話を数回の改稿を経て、独立した短編『檸檬』が出来上がった。 習作『瀬山の話』は、「瀬山」という名の主人公の落ち込んだ精神状態が綴られているが、当時梶井は「瀬山極」(ポール・セザンヌをもじったもの)という筆名を使い、大学の劇研究会の雑誌に投稿していた。『瀬山の話』は京都に住んでいた三高時代の自身の内面を総決算する作品として試みられたものだが、結末がうまくいかず未完成となり、梶井はその中の一つの挿話「檸檬」を独立させて『檸檬』に仕立て直した。 梶井は友人の近藤直人に宛てた手紙の中で『檸檬』を、〈あまり魂が入つてゐないもの〉と書き、単行本刊行の翌年の淀野隆三宛ての手紙にも、〈檸檬は僕は当時あまり出すのが乗気でなかつたので君や三好の、殆ど独断的な取はからひなしには 決してあれは世に出てゐるものではなかつたらう、さう思つて僕は幾度も感謝した〉と書き送っていて、その文面からは当時の梶井自身は、あまり表立って『檸檬』を積極的に評価していなかったことがうかがわれている。 これについて、梶井の友人であった淀野隆三の見立てでは、これは梶井が逆説的に言ったことで、実は自信を持って発表したと解釈している。なお梶井は、『瀬山の話』に遡る2年前の1922年(大正11年)、一個の檸檬に心を慰められるという内容の文語詩草稿「秘やかな楽しみ」(檸檬の歌)も日記に書きつけている。 梶井自身結核に侵されていたこともあり(それにより早世)、梶井の作品には『檸檬』のほかにも肺病の主人公が多い。
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