ふみ‐びと【文人】
ぶん‐じん【文人】
読み方:ぶんじん
もん‐にん【文人】
文人 (曖昧さ回避)
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文人
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文人としての後醍醐天皇の業績には、紫式部の小説『源氏物語』(11世紀初頭)の研究がある。後醍醐天皇は『定家本源氏物語』や河内方の註釈書『水原抄』を読み込み、余白に自らの見解を書き入れた。また、四辻善成の『河海抄』(1360年代)の序文によれば、後醍醐天皇は即位後間もない頃、源氏物語の講演を開催して自説を展開し、これを聴講していた医師で歌人の丹波忠守(善成の師)と意気投合して、その門下に入ったという。さらに、『原中最秘抄』(1364年)によれば、建武の新政の初期、公務の合間を縫って、河内方の研究者である行阿に命じて『河内本源氏物語』を献上させたり、源氏物語の登場人物の系図を自ら作成したりと、最も多忙な時期でも『源氏物語』研究を怠らなかったという。後醍醐天皇の研究成果は、嫡孫の長慶天皇に直接継承され、長慶は『源氏物語』の註釈書『仙源抄』を著作している。 なお、後醍醐天皇の弟弟子にあたる四辻善成の『河海抄』は、当時までの『源氏物語』の既存研究を列挙・検討した集大成的な研究書であるが、それまでの研究に見られない特徴として、『源氏物語』の「延喜天暦準拠説」を主張したことが知られる。つまり、登場人物の桐壺帝・朱雀帝・冷泉帝を、それぞれの実在の醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇に結びつけ、『源氏物語』は「延喜・天暦の治」を踏まえて描かれたものとして解釈しようとしたのである。 そして、国文学研究者の加藤洋介の論説によれば、「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は四辻善成の独創ではなく、実は後醍醐天皇によって考え出されたものではないか、という。その論拠としては、以下のことが挙げられる。 後醍醐天皇は延喜・天暦の治を理想として掲げていた。 「延喜天暦準拠説」は『紫明抄』から発展して成立したと思われるが、後醍醐天皇の師の丹波忠守は後醍醐に会う以前から既に『紫明抄』を手に入れていた史証があり、したがって後醍醐が忠守から『紫明抄』を学んだ可能性は高い。 長慶天皇の『仙源抄』には後醍醐天皇の研究成果も記されているが、善成の『珊瑚秘抄』の解釈と一致しており、偶然とは考えにくい。 善成は、後醍醐天皇の『源氏物語』講釈を、村上天皇が「梨壺の五人」(『万葉集』の解読と『後撰和歌集』の編纂を行った五人の研究者)を編成した事業に喩えており、後醍醐と延喜・天暦の治を結び付けようとする意志が善成にも感じられる。 そして、後醍醐天皇が考案した「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は、共通の師である丹波忠守を介して、四辻善成に伝わったのではないか、という。また、後醍醐天皇にとって『源氏物語』研究とはただの趣味ではなく、王権を回復するための事業の一部であり、したがってその意志を受け継いだ善成の『河海抄』も、文学的な知見だけではなく、建武政権の性質を理解すること無しに読み解くことはできないのではないか、としている。 以上の加藤の論説は、日本史研究者の森茂暁も「首肯される意見である」と賛同している。
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