「一度しか来ない列車」でいいのか

長期連休中のhamachan先生のブログをサルベージしていてギャッと叫びました(笑)。

 本日送られてきた『学士会会報』に、本田由紀先生の「一度しか来ない列車でいいのか」という短文が載っています。

 内容は、新規学卒一括採用がいかに大きな問題があるかを論じたもので、その中では、

>日本を代表する某製造大企業の人事担当者は、「結局、採用は”官能的”なものですから」とネット上で公然と発言している。

 という一節もあったりして、なかなか一興です。

 本ブログの熱心な読者にはおわかりのように、これは労務屋さんの次の発言を指していますが、それを批判した本田先生ご自身のブログはすでに閉鎖されて久しく、引用できないのが残念です。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20060201#p1(新卒採用の基準)

(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-28b3.html)

「学士会会報」はこのブログでも何度か取り上げているように私の愛読誌なのですが、今号はまだ手がまわっていませんでした。
「一度しか来ない列車」でいいのか、というタイトルは、いわゆる新卒一括採用だと良好な就職の機会が新卒時の一回だけしかない、という含意のようで、前後の文脈はだいたいこんな感じです(全文はweb上にはなさそうですので、ご関心の向きはオリジナルにおあたりください。「学士会会報」はそこらの図書館に入っているのかしらん)。

…就職活動における具体的な労働条件の情報や採否の決定基準はきわめて不透明なままであるため、学生は濃い靄の中を手さぐりで進んでいるような状態に陥る。…特に面接において面接官が学生のどこをどう見て評価しているかはまったく曖昧である。
 日本経団連の調査では、企業が重視する採用基準として、「コミュニケーション能力」「協調性」「主体性」「チャレンジ精神」といった抽象的な項目が上位を占めている。日本を代表する某製造大企業の人事担当者は、「結局、採用は”官能的”なものですから」とネット上で公然と発言している。要するに、採否は面接官のフィーリングに左右されるため、学生にとっては何をどうがんばればいいのかわからない状態なのだ。
(本田由紀(2009)「「一度しか来ない列車」でいいのか」学士会会報876号、pp.72-73)

で、hamachan先生はこの人事担当者は貴様だ、とおっしゃっておられるわけで、まあ私もhamachan先生がそういうのだからそうなのだろう、と思うわけですが、しかし私としては『「結局、採用は”官能的”なものですから」とネット上で公然と発言』したかと言われれば、そんなことは言っていないと言わざるを得ません。とりあえずhamachan先生が指摘されたのはこのブログの2006年2月1日付の以下エントリですが…(hamachan先生の引用には「官能的」が出てこないので、前後も含めて再掲しました)

 なるほど、「採用の基準」ですか。たしかに、(なんでもいいけど、たとえば)「TOEICで800点以上なら採用」とかいう基準があればある意味安心というか、なにをすればいいかわかるから取り組みやすいという気持はわかります。とはいえ、せいぜい4年で出て行く大学生なら入試の点数で単純に合否を決めてもいいでしょうが(それでも問題はわからないのですから、「採用の基準」が事前に明らかだというわけではありません)、さすがに40年近く雇用しようという正社員となるとそうはいきません。
 しかも、長期雇用ということは採用してから時間をかけて育てようということですから、どうしても今現在なにができるから、ということよりは、この人はこれからこの会社で伸びていけるだろうか、この会社の仕事の進め方や雰囲気にマッチするだろうか、といったいたって官能的な要素が重視されざるを得ません。さらに、ある程度まとまった人数を採用する企業であれば、画一的な人材を並べるよりは多様な人材を揃えたいと考えるでしょうから、ますます「基準」を示すことは難しくなります。極論すれば、「この人はとてもいいんだけれど、このタイプはすでに何人か内定を出しちゃってるからなぁ」といったことで不合格、ということもありえます。もちろん逆もあるわけで、「この人はかなり物足りないけれど、これまで内定を出した人たちを見ると、こういうタイプも一人はいないとね」ということで合格することだってありうるでしょう。現状の採用活動の期間は比較的短期間に集中していますが、それでも多くの企業は少数であれそれなりに長期にわたって採用活動をしているわけですから、タイミングの問題というのも当然あります。
 ですから、企業としてみれば代表的な例として「こんな人は歓迎です」という大雑把な目安を示すことはできても、それ以上に詳細な「基準」を示すことはできないに決まっています。
 私は就職と結婚のアナロジーはあまり好きではない(というか、解雇と離婚のアナロジーが嫌いな)のですが、あえて使えば、結婚相手や恋愛の相手について、なんらかの「基準」を決めて、この基準に一致すれば(必ず)結婚します、恋愛しますなんて言い切れますか。これと似たようなものだ、といえば感覚をつかんでいただけるでしょうか。
(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20060201#p1)

これが「結局、採用は”官能的”なものですから」と要約されてしまうのは、私としてはかなり不本意なわけでして…。それなりに説明の努力をしていると思うんですけどね。あるいは、bewaadさんのところのコメント欄あたりで(コメント欄はどうしても切り詰めた言い方になりますので)こんな言い方をしたかもしれないと思って探してみましたが、見当たりませんでした。稲葉先生のところにはこの当時は立ち入っていなかったはずだし…。どこかで言ったのかなぁ。なにせだいぶ以前の話なので正確にはわかりません。

  • ついでにいえば、hamachan先生は「論争」とおっしゃられるのですが、私としては本田先生と論争したという実感はなく(多少の議論はあったかもしれませんが)、むしろ本田先生に一方的に叩かれたような印象です(そうでもなかったかなぁ…3年も前のことなのではっきりしません)。もともと前年の11月から、稲葉振一郎先生のところを中心にして、稲葉先生はじめ内藤朝雄さんや山形浩生先生、田中秀臣先生などなど錚々たるメンバー間で、リフレ政策とその周辺の社会マターに関する大規模な論争が続いていて、私はこれにはまるで関与していなかったのですが、その流れの中で今回と同様に本田先生が私を引き合いに出された(そのときは実名で罵倒されましたが)という事実関係ではなかったかと記憶します。

さて、それはそれとして、本田先生のエッセイについて簡単に感想を書いておきますと、人事管理の実務的な見地からみればここで提起されている問題点はふたつあって、ひとつはさきほども書いた「いわゆる新卒一括採用だと良好な就職の機会が新卒時の一回だけしかない」ということです。玄田有史先生などが指摘されて有名になった、新卒時の雇用失業情勢による世代効果が著しい、という問題です。もうひとつが、hamachan先生が論じておられるような「メンバーシップ型とジョブ型」という議論で、本田先生はこれらを一体のものとして論じておられますが、実務的にはそれほど深い関係があるという実感はありません(もちろん関係はあるでしょうが)。なお、当然ながら大学教育についての話もあります(これが中心的感心事項でしょう)が、ここではコメントしません。
そこで第一の「いわゆる新卒一括採用だと良好な就職の機会が新卒時の一回だけしかない」というのは、玄田先生などが実証しておられますし、たしかにそういう傾向があると思います。ただ、「一度しか来ない列車」というレトリックはやや誇張されている感はあります。実際にはすでに「第二新卒」という用語が定着していることからもわかるように、既卒者の採用は広く行われていますし、中途採用の占める割合もかなりの比率にのぼっています(たとえば東洋経済の「新卒採用と中途採用のウェイトについて」企業アンケート、http://www.toyokeizai.net/life/rec_online/success/detail/AC/f900f8aff2b3eaf66aea5198873124f2/)。
また、これは「メンバーシップとジョブ」にも関係しますが、わが国の「列車」は乗り心地が確保されたうえで定年まで乗って行ける(乗り換えはあるかもしれないけれど、乗り換え先と連絡は確保されている)列車です。それに対して、「他のたいていの国では、一度乗り遅れても、列車は次々やってくる」この列車は、乗っても乗り心地がいつ悪くなるかわからず、しかもいつ放り出されるかもわからない列車だったりもします。教育関係者は列車に乗れてしまえばそれでいい、それでおしまいかもしれませんが、乗るほうは乗った後のことも乗ること同様に大事なわけでして…。
それから、やはり多くの人が新卒とともに安定した職に就けているということは決して悪いことではないでしょう。前回の雇用調整期には、小杉礼子先生とかが「学校から職業への接続」を課題として調査研究をされていたわけですし。実際、昨今は内定取り消しばかりがクローズアップ(もちろん取り消しは残念なことですが)されていますが、平成20年度の新卒内定率は1月末・2月初で高校が87.5%、大学が86.3%という高率になっています。これは各企業が新卒者を意欲的に採用すればこその結果でしょう。
ただ、これだけ新卒での就職率が高くなると、新卒就職できなかったことがマイナスのシグナルとして働いてしまうという弊害はたしかにありそうです。とはいえ、これも「第二新卒」が定着し戦力化されることを通じて「若いうちに一度、二度くらいならミスマッチによる退職、適職探し的な転職は普通」という意識に変わってきてはいるように思われます。現在ではもうすこし年長の、卒業後5年、10年経って正規就労していない人に対しての偏見は残っているかもしれません。こうした人には政策的な能力開発の支援を行うと同時に、企業も偏見を持たずに選考を行うことが望まれましょう。本田先生の「企業は非正社員や無業の状態を経験した者を、自らのメンバーシップに入れる価値がない存在であるかのようにみなしがちなのだ。実際には非正社員の意欲や能力が高くとも、である」という指摘は企業としても重く受け止めるべきでしょう。経済界としても、以前紹介したように(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20050414)2004年にはすでに「いわゆるフリーターも人物本位で採用」といった方針を出してはいるのですが…。
さて、メンバーシップ型とジョブ型についても簡単にコメントしますと、本田先生はこんな主張をされています。

…企業が、各ポストの人員の需要が発生したときに随時、新卒(卒業予定者)と既卒、正社員経験者と非正社員経験者の区別・差別なく、ポストへの適合性に関する明確な基準を明示した上で採用を行うという方式の必要性や合理性について、もっと社会的関心が高まり、議論が行われ、そして現実にそれが広がっていってほしいと思う。大学教育の職業的・社会的意義(レリバンス)を向上させてゆくためにも、それは不可欠である。現状の「新規学卒一括採用」では、大学で何を学んできたかは等閑視されているからだ。
(本田由紀(2009)「「一度しか来ない列車」でいいのか」学士会会報876号、p.74)

とりあえず現実をみれば、「各ポストの人員の需要が発生したときに随時、」人事異動や内部昇進といった内部労働市場からの調達が行われるわけです。たとえば、人事部に人事課と労務課があり、人事課に採用係と人事係、研修係があるとする。ここで人事課長ポストがあくと、典型的には3人の係長のうちの誰かが昇進する。3人の係長のうち、人事係長だけは採用係長の経験もあり、他の2人は他の係長の経験がないということなら、人事係長が「順当に」人事課長に昇進する。あるいは、将来的な人事部長候補を育てるために、労務課長が人事課長に異動するかもしれません。このように、人材育成機能を持った内部労働市場での調整がまず行われます。そのうえで、組織規模を維持するなら退職者の分は外部から人材を調達しなければなりませんから、それは必要に応じて新卒や中途で採用することになりますが、内部労働市場(人材育成機能)がうまく働いていれば外部から採用するニーズはエントリージョブに集中しますから、これは上で紹介した以前のエントリで説明したようにポテンシャル重視、新卒・第二新卒中心にならざるを得ません。これに関しては、現時点でも3年前のエントリに書いた内容と同様で、大学入試のように出題範囲を決めて試験をやって採点して点数の高い順に採用するとか、この資格とこの資格があれば必ず採用するとかいったデジタルな「基準の明確化」は不可能です。
たしかに、理屈や基準がないと「どうしたらいいのかわからない」というのはよくわかります。本田先生も「自分がうまくいったと思った面接ほど落とされて、あまり印象のないものほど次の段階に進めました。だから面接の評価基準がわからなくて悩みました」という就活生の個別意見を紹介しておられますが、まあそれも実感でしょう。実際には、企業によって観点は異なりますから、複数企業の事例を比較して基準を知ろうとしてもあまり意味はないのですが…。
これに関しては、3年前のエントリに当時ついたコメントに「商品を買ってくれる基準が分からないからやる気が失せてしまう。だから顧客は基準を明確にすべし、という言い訳が通用するなら、営業マンは泣いて喜ぶと思います。」というようなものがありました。なるほど、就活というのはそれまである意味合理的な理屈や基準の中で生きてきた学生さんにとって、初めて触れる世の中の理不尽なのかもしれません。でも実際には、ヒット商品だってどこに転がっているかわからない。「自分がうまくいったと思った商品がさっぱり売れず、あまり印象のない商品がよく売れる」ということもよくあるでしょう。理屈や基準だけで決まらないからこそ人生は面白い(その最たるものが恋愛でしょうか)という考え方もあります。まあ、面白いのはそれでうまく行っている人だけかも知れませんが…。
もっとも、昨今では内部労働市場だけでは十分ではないケースも増えてきていて、これがやはりさきほど紹介したような中途採用の比率上昇につながってきているわけです。こうしたケースでは、デジタルに採点して機械的に合否が決まるようなものではないにせよ、それなりに「ポストへの適合性に関する明確な基準を明示した上で」採用が行われています。ただ、この場合でも、内部労働市場に入り込んで人材育成のシステムに乗ることに変わりはありません。つまり「畑違いの異動」といったことも起こりうるわけです。そこは、本田先生のお考えとは大きく異なるところです。本田先生の方式を突き詰めるのであれば、働く人の意識においても「私はこのポストで雇用されたのだから、退職までこのポストでしか働かない、他の仕事はしません」というのが基本原理になるはずだと思うからです。
もしそうなれば、企業は戦略的には人材育成をしなくなる(仕事をしていればおのずと人材は育つにせよ)わけですから、たしかに「大学教育の職業的・社会的意義(レリバンス)を向上」させることになるかもしれません。それで本当に海外企業との競争に勝てるのか、イノベーションが多く生み出されるのか、といえばそれははなはだ疑問ではありますが、それはそれとして。しかし、ここでもう一度現実をみれば、職業における人材育成という点では、ほとんどの職業分野において企業内育成が大学教育をかなり上回っており、しかも大学がこれをキャッチアップする道筋が不明確なのが実情です。もちろん分野にもよりますし、「ほとんどの」は言い過ぎかもしれませんが…。
また「現状の「新規学卒一括採用」では、大学で何を学んできたかは等閑視されている」というのはやや事実誤認の感があります。いわゆる「理系」の採用においては専攻分野は大いに考慮されますし、「文系」においても法学部や経済学部からの採用が文学部や教育学部からの採用より多いのは事実です。まあ、これは法律や経済の知識がダイレクトに役立つというよりは、法学や経済学の「ものの考え方」、リーガルマインドとか実証研究の精神といったものが企業実務と親和的だからという理由ですので、「等閑視」の範囲内ということかもしれませんが。
なお、引用はしませんが、やはり本田先生が指摘されている「早期化が問題だ」というのはそのとおりではないかと思います。夏休みに企業訪問をして、大学の前期試験が終了してから選考試験→内定し、大方は期末試験前くらいに終了…くらいのスケジュール感でもやれそうに思うのですがそうでもないのでしょうか?これはたしか1996年頃に、当時統合前の日経連の会長だった根本二郎氏が、協定不参加企業の横暴や協定破りの横行に怒り心頭に発し、こんな正直者がバカをみる協定は要らない、ということで廃止してしまったといういきさつだったと思います。一応、企業と大学の協定はしないものの、企業は「倫理憲章」なるものをつくり、大学は「要請」を行って、相互に「申し合わせ」をするという枠組みになってはいますが、しかし当然ながら、協定を廃止したということは以前に較べれば自由になるということだ、と普通は思うでしょうし、いかに不参加にせよ守らないにせよ、協定が存在すれば一応それを気にして破り方は控えめになるでしょう。就職協定の復活は真剣に考えてみる必要があるのではないかと思います。