「ごめんなさい。もう限界」 兄との死を選んだ妹のラストメッセージ
残暑厳しい2023年9月25日、東京都奥多摩町の山あいにある湖のそばで、女性(46)の遺体が見つかった。女性は軽ワゴン車の後部座席に横たわり、運転席では女性の兄(48)が息絶えていた。
記者は2人が生きた証しを知りたくて、関係者への取材を重ねた。【岩崎歩】
<前編>
幸せな「家族アルバム」から途絶えた写真
兄妹の家庭は、妹の美里さん(仮名)が高校生だった30年ほど前、人生の歯車が狂い始める。2歳年上の哲夫さん(仮名)は高校卒業後、自宅に引きこもってしまう。父が営むリフォーム業も赤字が続くように。美里さんは商業高校を卒業後、自ら進んで家業を手伝った。
その後もリフォーム業は上向きにならず、借金がかさんだ。家族は冠婚葬祭に参加する費用も捻出できず、親戚とも次第に疎遠になっていく。哲夫さんも家業を手伝うが、外の会社には一度も就職しなかった。心優しい性格だったが少し気の弱い面があり、母は「どこも使ってくれない」と嘆いた。
妹が隠し続けた家族と家計
家計を支えたのは美里さんだった。20代後半に都内の名の通った企業に就職した。職場では真面目な仕事ぶりが評価され、チームリーダーに抜てきされた。同僚と冗談を言い合いながらよく笑った。自分の意見をはっきり持ち、相談には耳を傾けた。
だが経済面での苦労は続いた。手取りの月収約25万円は、大半が家族の借金返済などに消えた。月15万円の家賃や生活費をまかなうため、カードローン数社から借り入れを繰り返した。
「夢なんてないよ」。同僚と将来の話題になった時、美里さんはそうつぶやいたという。
両親の病気も美里さんにのしかかった。2017年ごろ、母は国民健康保険料の滞納を理由に、「医者にかかれない」と親戚にこぼした。体調が悪化して入院した時には、体重は20キロも減っていた。
「介護に仕事、なんとかやってます」
20年夏に末期がんだった父が他界した。母はせん妄症状が表れ、取り乱すことが多くなった。視力も落ち、ほぼ失明状態に。家族以外の介護を拒み、暴れることもあった。
母の介護は主に哲夫さんが担当していたが、精神的に不安定だった。哲夫さんは交友関係が乏しく、よく知る人に記者はたどり着けなかった。
「母さんがどうにもならない」。夕方になると、美里さんのスマートフォンに哲夫さんから頻繁に電話がかかっていたのを、同僚の一人は覚えている。
美里さんはその度に「大丈夫だから。もう少しで仕事が終わるからね」となだめた。
一度だけ、感情を…
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