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2007年11月27日火曜日

「格差社会」 

随分前に買った、スティグリッツ教授の本(Making Globalization Work: 邦題「世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す」)を本棚から取り出して読み始めたのですが、日本の読者向けへの冒頭で、「格差社会」についてこう書いています。
日本のような民主主義国家で、「格差社会」が進行した場合、やがては社会的不公平感に突き動かされた「持たざる者」の不満を抑えようと、政治的リーダーが彼らに実現不可能な非現実的な公約をとりあえず提示するといった憂慮すべき事態を招く。
2006年11月に邦訳版が出ているので、2007年の現状を見て言っているわけではないのです。予想ではなく、過去の知見から得られたであろう正確すぎる洞察。

国民のためといいつつ、行政の現状は国民に対してとても冷たいものになっています。分かりやすいのは、年金のための財源確保に消費税を、という論調。年金着服とか、データ管理のずさんさばかり取り上げられているけれど、それは管理の問題であって、制度の問題ではない。

社会保険庁のデータを見てみると、平成18年度でも20〜40代の加入者の納付状況は50〜60%程度しかありません。年金は、理念として、年代に応じた保険料を国民全体から集めて、インフレリスクに対応し、生活に必要な額を確保できるというもの。けれど、強制徴収の権限が与えられながら、これだけしか徴収できてないという状況は、職務怠慢としか言いようがありません。こんな回収率なのに破綻しないで済んでいるのは、厚生年金から補填されているというから、国民年金に加入していないサラリーマンの人も全く無関係ではなく、むしろ被害者です。 

この事情があるにも関わらず、数千万の給料や退職金を役人に払い続け、年金は絶対守ると実現できそうもない建前を政府は掲げています。天引きされてしまうために、税金や保険料の徴収やその使い道に無頓着なサラリーマンは、自ら腰を上げようともしない。骨抜きにされてしまっているんですね。少子化が年金制度を危うくするという議論は、大前提として100%であるべき徴収率の問題をすっとばした、とても飛躍した議論になってしまっています。

年金を盾に消費税を上げて、10年前と同じように景気が停滞したら、そちらの方の被害が甚大だと思います。たとえ年金がなくなっても、累進課税ではなく、ロシアのように一律13%のフラットタックスを取り入れた方が、どんなに国民は幸せになることか。

1000万の所得があっても、今は所得税33%、住民税10%とられて税金は430万。これが130万になれば、残り300万で、自分に投資するために大学に入って数年間勉強や、研究を続けられるだろうし、日本の教育のレベルも上がって、新しい仕事も創出できるというもの。最高税率40%+10%=50%のものが、これだけ低くなるなら、年金がなくても、年金としてもらえそうな分は事前に回収できるし、労働時間を減らして稼ぎを少なくしたとしても、仕事以外のことに使える時間が増えてきます。皆がインフレや、為替の値動きによるリスクを減らすことを考え、余剰資金を活用するようになれば、今まで国際銀行や大企業に方よりがちだった投資も、国民に身近な地方銀行や中小企業が活躍できる場が増え、地域の活性化にもつながるでしょう。

変化の大きいこの時代に、一つの仕事に縛られ、動けないようだと大変です。グローバル化が進んで、今のビジネスが成り立たなくなることもあるでしょう。役所仕事のように、効率化を測らず時間が過ぎるのを待つ人。マニュアル通りで代わりがいくらでもいる仕事に、安い賃金で自分の時間を売ってしまう人。そんな人たちが増えるような環境だと、よい意味でも悪い意味でもグローバル化が進んだ際に、機を逃してしまったり、本当に何もできない人ばかりの国になってしまいます。

MLBに渡ったヤンキースの松井秀喜だって、野球だけをしているように見えるけれど、HRを狙うのではなく、状況に応じたバッティングに切り替えることで、打点を稼ぐ打者として結果を残しています。つねに変化することを念頭に置いて仕事に取り組むことが必要なんです。

だからといって、変化に対応できないことや、格差が生じるのを、「個人の努力が足りない」と安易に帰着させてしまってはだめなんですね。今の税金や仕事に関する行政のあり方だと、変化することが困難になっています。少し努力して稼ぎを増やしても、その分課税や保険料も増えるので、生活水準を良くすることにはつながらない。

他にも、8時間+残業という労働体系は、親が子供と対話する機会を極端に奪うものです。それなのに非行の増加、学力の低下の原因を親、しかも母親に押し付けるという不合理さ。教育委員会が「親育」とか「食育」という言葉を掲げる裏にも、時間に余裕ができた人と、そうでない人の「格差」というものを感じます。本当は「朝食を摂らない生徒とそうでない生徒との間で、学力に有為な差が見られた」という事実を広めるだけでいいのに、一度成功し「格差社会」の上位に立った人が、底辺で働く人たちの労働環境や税制の事情を考慮せずに、自分の主張だけを押し通そうとしている感がある言葉です。

一人親家庭なら、食事を作って、子供を学校や保育園に送り、8時間労働し、19時に帰宅できたとしても、買い物、食事を作る、洗濯、子供の世話をしたら、どれだけ自分のために使える時間が残っているというのか。そもそも、良い職を得たり、新たなビジネスを起こす目的で勉強する時間を確保しようとしても、保育園はいっぱいで子供は預かってもらえないことも多々あります。8時間超の勤務を維持できないと働きながら大学にも通えない。結局、キャリアにならない低収入のアルバイトをせざるを得ない。自らを変化させるのに必要な余裕がなくなってしまうでしょう。


補助金を増やす、社会保障を増やす、だから増税だという以前に、既に税金だけでなく、「時間」という教育、子育てに必須で、なおかつ国民生活の充実度を上げるために大切な資源も搾取されているのです。こういう問題を棚上げにして、スキャンダルの追求に走る、選挙のために大事な議論を何年も先送りにする、国民の共通の見解を構築しない(できない)国会の流れには、辟易してしまいます。

郵政民営化は時間をくれるの? 道路公団の無駄遣いをへらしても(減ってないけれど)影響は合った? 防衛庁のスキャンダルが明らかになったところで、防衛という観点からはとても深刻な不祥事だけれど、生活は向上しないよ? 「再チャレンジ」といったところで、そのために必要な時間とお金はもう搾取してるでしょ? 選挙のたびに、生活の質や、変化に対応する能力の向上にとって、本質的ではない議論が繰り返され、有権者もなんとなく違和感を感じながらも、選挙結果を玉虫色に解釈する政治手法に丸め込まれてしまう。そもそも骨抜きにされているから、投票率も6割を超えない。

生活第一を訴える民主党ですら、本当に国民生活に大事なテーマの選び方から間違っている、あるいは冒頭に挙げた引用のように、とりあえず「持たざる者」の不満を抑えるために、「生活を良くする」というお題目を掲げ、ちょっと税金を減らしたり、官僚の無駄遣いを減らすだけではちっとも解決しないような本当の問題に真剣に取り組む政策、姿勢は提示していない。

こうした建前にだまされないためには、せめて税金は確定申告して自分で払うようにすると、搾取されている実感が沸くし、自分を守るために、選挙に行く気にもなるでしょう。あとは、政治家、役人の言うことを鵜呑みにしないこと。例え東大卒だとしても、学部で卒業する彼らの多くは研究をするトレーニングを積んでいないので、自分の掲げる政策や、データの裏にある仮説の検証を行っていません。

感覚的にこうだ、この政策がいい、という人のなんと多いこと。Ph.D.を持った政治家がいたとしても、インタビューを行う報道側も、学部を出ただけの人が多いせいか、学者の知識を引き出して議論を深めようとすることは、今の日本ではほとんど見受けられません。勉強熱心で、もの知りな政治家の意見だとしても、検証を重ね、根底にある真実を見極めようという研究者の姿勢を持たない限り、ただの戯れ言でしかないと思います。

422 + 242 = 722人も国会議員がいて、一つのテーマしか議論が進まないなんてなんと嘆かわしいことか。顔が売れているだけの議員のどこが良いのか僕にはちっともわかりません。庶民の感覚と近い人が褒めたたえられたりもするけれど、それってただの知識も洞察もとぼしい素人じゃない。これを、同じ1500万の給料を払って、Ph.Dをとれるくらい、議論と実践、検証を進められる能力のある人たちの集まりにできたら、どんなに良いことかと思います。「スティグリッツはこう言っているが、日本ではどうか?、データを集めて、検証しよう。」とか、「我々の研究結果では、このような福祉政策を取るのが適しているし、道理にもかなう。国民に信を問わなくては。」という流れで、議論が進み、結果として選挙が行われることを切に願います。

2007年2月4日日曜日

収益構造のおかしい地域通貨「文(mon)」

Leo's Chronicle: 文京区 地域通貨 「文(mon)」にも書きました。

ここで地域通貨の仕組みの図が紹介されています。リンク先の図が削除されてしまうかもしれないのでまとめると、

・利用者は、地域通貨の運営元のNPO法人より900円で1000文を購入できます。
・地域通貨の加盟店は、1000文をそのNPO法人に渡すと1000円に換金してもらえます。

怪しすぎです。100円の差額はお店が法人に払う紙幣発行代と広告料だと思っていたのですが、そうではなかったようです。じゃあ、どこから差額を調達するの?利益配分ができないNPO。収益構造がないのに出資する人なんているわけないじゃん。

などと思っていたら、monは発行停止。東京新聞の記事より。不払いがたくさん残っているようで。。。詐欺だったのかな?

2006年11月15日水曜日

Red Sox win Matsuzaka bid

Boston Red Sox News

驚き。$51,111,111.11 (5111万ドル!)を松坂君との交渉権だけに支払うなんて。確か、Yankeesの年俸の総額がおよそ2億ドルなので、その4分の1。これだけで、他4球団の全選手分の年俸を超えるというし。

でも、これだけの金額を支払う価値はあるのかなと思ってしまいます。去年、Yankeesの松井の契約延長の際(これでも、4年総額5200万ドルだったかな?)、GMのCashmanが、松井には、intangible effect(言い表せないような<経済>効果)があると言っていたのが印象的です。

Bostonのファンが日本にも増えるだろうし、放映権料でも稼げるし、現に日本もアメリカでも大ニュースになったし、イチロー、松井が安定して活躍して、日本でもMLBへの関心の土台ができたところで、このインパクトですから、宣伝としてもとてつもない効果があるでしょう。僕自身も、今まで見たことがなかったboston.comなんてサイトも調べてしまいました。MetsとかDodgersとか、Rockiesとか、日本人選手がいながら、まだまだ日本での知名度が足りないチームもありますし。。。。

アンケート結果だと、アメリカの人はそうは思っていないようだけれど、松坂君は実力的には既に間違いなくトッププレーヤーなのでは?

2006年10月27日金曜日

文京区 地域通貨 「文(mon)」

文京区の地域通貨「文(mon)」というものが今年10月から使えるようになっているようなのですが、今日、上のリンク先のページに出ているお店(東大のご近所さんです)には、早速、

「文の取り扱いは終了させていただきました」

という張り紙。900円=1000文という固定レート。交換手数料がかからない上、もし1000円の商品を1000文で買えるという類のものなら(そんな説明はどこにも書いていないけれど…)、お店側は強制1割引で販売しなくてはならない。使う方も、取り扱いをやめるお店が増えたら、無価値のお金になってしまうから、「文」には交換したがらない。

地域通貨には利子がないから良いとか、それに対する山形氏のコメントなんかもあるけど、結局、地域通貨を取り扱っているお店の宣伝なのね、と思いました。

各お店が1割引と宣伝するのとほとんど同じなんだけど、その類の広告は見飽きているので、地域通貨にかこつけて人目を引こうという戦略。実は、地域通貨が流通してしまうと、逆に広告効果が薄くなってしまうという罠がありますね。

2006年8月22日火曜日

[NHK知るを楽しむ] 予測できるはずの失敗

NHK「知るを楽しむ・失敗学」の第3回目です。今回のテーマは、「予測できるはずの失敗」

ベビーカーが電車のドアに挟まって引きずられてしまう。閉まろうとする防火シャッターの下をくぐろうとして挟まってしまう子供。プールの排水溝に吸い込まれてしまう。

人のように大きいものが挟まる場合は、当然、探知できるようになっています。でも、ベビーカーの前輪の軸の細い部分だけが挟まると、センサーが探知できずに引きずられる。 防火シャッターはゆっくり下がるので、手で止められると思いがちだけど、実は、シャッターはとても重く、一度下がりだしたら止める手段がないということ。プールの排水溝は、人がいないところで水を排出しなければいけないことを失念していたこと。それが、排水溝の蓋を管理しないという実態、事故につながったという事実。

どれも、知っているべきことを知らない、ということが招く事故。駆け込み乗車をしないとか、排水溝で遊ばないとか、ルールとしては知っているはず。でも、それがどうしてかという部分に、考えが回らない状況が生まれるようです。

僕が自動車免許を取るときに感じたことなのですが、交通ルールの持つ意味などは、小学生のうちからでも教えた方がいい。「止まれ」と書いてある道路や標識は何を意味しているか。死角から車が出てくる場所なんですよね。

あれをしちゃだめ、これをしちゃだめ、と頭ごなしに禁じることは簡単だけれど、本来なら「どうしてそういうルールがあるのか」という知識の共有をはからないと、ルールを定める目的、すなわち、個々を守るという機能が、十分に働かないことがあるといういい例。(直接的には関係ないけど、東京都教育委員会が君が代を強制したり、反抗したりというのは、知識の共有化が図られていないいい例でしょうね。靖国参拝の是非とかも。)


もうひとつ、驚きがあったのは、中越地震の時の上越新幹線の脱線事故について。メディアの報道では新幹線の安全神話が崩れたという見出しが多かったようですが、あれは事故というより、大惨事を事前の対策により防げた珍しい成功例だということ。死者・怪我人0人というのは、偶然や奇跡だけがもたらした結果ではなかったようです。そういう趣旨でネットを調べると、なんとも心あたたまるお話も見つかりました。


けれど、うまくやればこのように効果的なのに「予測できるはずの失敗」を防ぐというのは、なんと難しいことか、とも同時に思います。それは、人は怠惰で流されやすい生き物だから。日々の生活や、あのときああしておけば良かったという後悔なんて、往々にして予測できるものです。ただ、先のことについてあれこれ予測することは億劫なものです。それでも、失敗をしつつも、先を考えすぎずに生きていく楽観さ加減が、良い方向につながることもあります。

2006年8月7日月曜日

NHK知るを楽しむより: 失敗学

NHK知るを楽しむ NHK教育テレビ 月~木曜日 午後10:25~10:50を見ました。

六本木ヒルズの回転ドアで子供が挟まれて死ぬという事件以来、回転ドアは危険なものという認識を持っていたのですが、そもそもヨーロッパなどでは回転ドアは軽く作られていて、挟まれたとしても大事故に至らないという 「本質安全」性が満たされているそうです。

回転ドアは軽く作らないと危ない、という職人さんが持つ知識はあったようです。ただ、日本に輸入され、見た目をよくするために回転ドアに装飾を加えていくうちに、ドアは3倍以上の重量になっていたそうです。重くなるほど完全静止までの距離も長くなってしまうのを、センサーを増やすことで、安全性を確保しようという「制御安全」の方針がとられました。

結果として、センサーが探知できない部分があったり、人が挟まるのを探知してからドアが静止するまでの距離が設計者の想定以上のものとなり、事故につながりました。

この「失敗」を教訓に、「本質安全」を持った上で、多重に「制御安全」のセンサーを使った回転ドアが開発されているようです。「失敗学」というのも、失敗の経験をいかに活用するか、また、失敗を活かすためにはどのように失敗の知識を蓄積しなければならないかを追求する学問だとか。


試行錯誤という言葉があるように、日常の中でも膨大な数の失敗をしています。その失敗は経験として個人には蓄積されていきますが、それを他と共有すること、情報学の立場ならデータとして表現し人に伝えるという作業は、仕事の効率化や質を高めるという意味で、どの分野においても役に立つでしょう。 とりあえず失敗をとりかかりとしているけれども、この応用分野はもっと広いものだと思います。

野球選手なら、バッティングのときの体の感覚がそう。イチローがテレビで言っていたけれど、自分が良いと思うバッティングの感覚があるけれど、言葉にするのが難しいので、ここを守っていれば大丈夫、というポイントを探す努力をしているそうです。それでも、気づかないうちに理想とずれていくことがあるとか。失敗と正確に分類できない情報もありそうです。

データベース屋さんにとっては、これは永遠のテーマですね。人の知識をデータにする。その収集方法から情報のプレゼンテーションを自動化する方法まで、興味は尽きません。

2006年5月9日火曜日

[Open Source] もはやGPLはmustの存在ではない

自分の書いたソースコードについてどのライセンスを適用すればいいか、考えが整理されてきたので、オープンソースや、フリーソフトウェアについてまとめてみることにしよう。

GNU GPLはviral(伝染する)ライセンスであるから良くない、という主張は、オープンソース開発の本質を得ていない。Emacsの開発者でもあり、GPLの生みの親でもあるStallmanがこの方法を取ったのは、プログラムをproprietary(独占、転じてclosedの意)、つまり、特定の個人や企業の所有物とされたくないという考えが大本にあって、それを実現(強制)するための手段がGPLという形になっているだけだ。

他人の書いたコードに依存しないプログラムを書くことは、膨大な労力を要するものだ。開発者の知性や時間を、真に新しいプログラムを生み出す方向に向けるためには、過去に作られたプログラム、つまり知識や道具を誰もが利用できる形にし、それらをつなぎあわせることで不必要な作業を省き、創造する力を助長してあげなくてはならない。ソースコードが企業の利益のために隠されてしまって、創造が止まってしまうことを避けたいという信念がGPLの中にはある。

ここで、非公開でもうまくいく、とMicrosoftの例を挙げるのはかなり極端な話だ。確かに彼らは、Windows用のAPIを公開して内部実装を非公開にしているが、そのclosedな実装であっても、プログラマは利益を損なうどころか、APIの恩恵を享受して、プログラミングを快適にしてもらっている。でも、勘違いしてはいけない。彼らのビジネスモデルは、WindowsというOSを売ることであり、そのためには、Windowsの価値を向上させる必要がある。価値を向上するには、Windows上で動く品質の良いソフトウェアが多く誕生しなくてはならないのだ。そのために、他人任せではなく、熱心に次々とWindowsの機能を生かすためのコードを自社開発している。ただそれだけの話だ。

でも、コンピュータという創造力を無限に引き出すようなものの前では、Microsoft一社だけでその開発をすべてまかなえるほど、人間の新しいものを生み出す知性や創造力は限られてはいないということだ。確かにMicrosoftの貢献は大きい。Officeのように優秀で安定していて実用的なアプリケーションはとても便利だ。でも、品質のいい製品をマーケティングまで考えて開発するのは時間がかかるし、それもMicrosoftが超巨大企業になったからこそできることだ。でも、カレンダーのようなWebアプリケーションなど、今すぐ使いたいものを開発する小回りの良さでは、小さなグループで開発を進めるGoogleに完全に出し抜かれてしまっている。もし、Microsoftや他の企業がソースコードのすべてを独占し、オープンソースのコードやOSが存在しなかったらGoogleが台頭することなんてできなかっただろうし、我々がWebアプリケーションの便利さを知ることすらできなかったかもしれない。

この例だけでも、GPLが世に与えた影響は大きい。けれど、GPLを自分のコードに適用しようとすると頭の痛い問題を抱えることになる。著作権保持以外は商用利用もソースコード非公開でバイナリ配布など何でもありのBSDライセンスと同様に、ソースコードの利用に関して制限の緩いApache Software License (ASL) version 2.0が適用されたプログラムであっても、GPLライセンスのコードと組み合わせた場合、ともに配布することはできなくなってしまう。それはASLには、特許に関連する訴訟を起こした場合、ライセンスに書かれている権利を失効させる条項が含まれているからだ。ASLの権利を失うということは、ASLのソフトウェアを配布できないということを意味する。

GPLはソフトウェア開発を阻害するような特許訴訟を起こした人物にさえも判決が確定するまで、ソースコードを配布する自由を守ろうとしているし、ASLは、プログラマや企業の心の平穏を保つため、そのような特許訴訟に対しての対抗策を講じている。けれど、ここや、ここの話を見る限り、両者は対決をしているわけではないし、問題点は特許に関する条項のみであるから、歩み寄りの方向に向かうのであろう。GPLのページで、GPLと他のライセンスが適用されたコードを同時に配布できるか(compatibility)について、 こと細かに述べられているが、compatibilityの問題はさほど重要でもない。要するに、いろんな独自ライセンスのproliferation(増殖)のために、GPLの親であるFree Software Foundation(FSF)が、GPLの制約の維持に苦慮しているということだ。


でも、GPLを自分のコードに適用することを考えると、そのコードを書いたことに対する自分への金銭的な見返りが何もなくなってしまうことがとても恐ろしい。GPL製品を使う企業は、製品そのもののソースコードは公開しなくてはならないから、製品そのものを売ることはできないけれどその周辺(サポートビジネスなど)で対価を得ることはできる(バザール型)という。でも、そもそも個人プログラマがそんなビジネスを一からはじめるのは、とても大変だし、かなり長い道のりだ。かといって、ASLのように、非公開でコードがどんどん拡張されて利用されることが認められる場合には、自分のプログラムが何の断りもなしに金儲けに利用されてしまうのではないかと思ってしまう。ただ、GPLと違い、ASLの場合は、自分も非公開にしてお金を稼ぐことはできる。

たとえば、データの通信ライブラリを自分が作ったとして、それを他人が利用してWeb通販などのビジネスを始めたとする。Web通販部分は、自分の作ったものとは別個のものだから、そこにまで自分の権利が及ぶと考えるのは傲慢だと純粋に感じる。もし通販部分のソースコードを公開してしまえば、通販部分の開発費を他人のために投げ捨てる事態になってしまう。データ通信部分がGPLだと、まさにこの状況になる。差別化を計れる機能を実装しても、自分自身ですら商用に利用できなくなってしまう。まぁ、著作者ならGPL以外を適用すればいいのだが、GPL製品に囲まれてしまうと、すべての著作者やcontributorをたどってGPL以外の適用を認めるように依頼しなくてはならない。開発者の意思としては、BSDライセンスのように緩いものを適用するだけでよかったとしても、コミュニティの中で開発するためにGPLを選択した例も多いはずだが、その意思を確認することはほぼ不可能だ。

GPLはGPLのコミュニティ内で活動しているとき以外は、どうも自分の手足を縛るようなものの気がしてならない。創造性を助長するというよりは、窮屈さや将来への不安を感じてしまうものなのだ。ただ、変化するソースコードを公開したままにするcopyleftというのは決して悪いアイデアではない。

そうすると、Sun MicrosystemsがOpen Soralisに適用しているCDDL (Common Development and Distribution License)というライセンスがとても魅力的になる。mozilla.orgのFirefoxなどに適用されているMPLと同様に、ソースコードはファイル単位でライセンスが付与されるなど、ライセンスの適用対象が明確。それゆえ、違うライセンスが付与されたファイルとともに配布することができる(配布物全体に影響が及ぶGPLコードとともに配布することは無理だが)。ファイルを更改して配布した人には、ソースコードの公開義務(copyleft)を課すことができる。バイナリ形式で配布するときには、違うライセンスを付けてもいい、など。

Sun関連の人のblog(これとか、これとかこれ)を読むと、CDDLができた経緯や意図がわかって、さらに面白いかもしれない。

CDDLは、MPLがmozilla.org専用のものであるのに対し、commonと銘打たれていることからわかるように、MPLを汎用化したライセンスとなっている。GPLが他のライセンスとのcompatibilityで苦労した轍を再び踏まないようにしたいのであろう。プログラマが開発中に法律的な条項の解釈で悩むのは、やはり好ましくない。

CDDLを使いつつも、GPLコミュニティの中で自分のプログラムが生きていけるようにするには、mozilla.orgと同様に、GPLとCDDLのデュアルライセンスを検討するといい。GPL単独での利用で困難なのは、開発メンバーが多岐に亘った場合に、条件の緩いライセンスへの変更の意思を確認することである。最初から、開発者にGPLとCDDLの双方の条項に同意してもらえれば、Firefoxの成功例のように、企業、個人、非営利団体の垣根を越えて、オープンソースソフトウェアとして安心して開発を続けられるものになるはずだ。

ただし、デュアルライセンスという形態では、GPLプログラムとの共存が完全ではない。一度GPLプログラムを取り込むと、デュアルライセンスという形式はとれずGPLライセンスのプログラムとなる道しか選べないからだ。 LinuxのようなGPLで固められたOS用に移植することは可能だが、そうするとGPL専用、CDDL/GPL兼用の2つのbranchができてしまうことは想像に難くない。開発者は、GPL製品を利用することはできるが、それを利用してできたコードを、CDDL/GPLのデュアルライセンスの形に戻すことはできない。

面倒な問題は山積みだが、ライセンスを考える上でのポイントは、プログラマの心の平穏と、創造性を助けるもの、開発コミュニティの形成を促すライセンスであるかどうか、だ。CDDLはOpenSoralisで多数のプロジェクトが生まれているように、企業や個人を含めた開発コミュニティを作りやすくすることを目的としている。

GPLとのcompatibilityの問題のように、ライセンスにこの不具合があるからだめだとかという議論は、概して不毛であるし、いいものを作るというソフトウェアライセンスにこめられた本当の目的からは外れてしまう。LinuxのようにGPLによって得られた産物のインパクトの大きさから、GPLに反するライセンスを安易に卑下する意見が巷でよく見られるのだが、GPLの威力は、GPLのcopyleftの性質によるものなのか、それとも、GPLの適用範囲がそれを利用するものすべてに拡大していくことによるものなのか、を区別して判断しなくてはいけない。けれど、そのどちらについても、FirefoxやEclipse、Apache Software Foundation、PostgreSQLなどの成功例によって、copyleftが必ずしも必須ではないこと、ライセンスの適用範囲を広げなくても、いいものは出来上がることが示唆されている。もしかしたら、それらはGPLによってオープンソース開発の土台ができたことによって成功した例なのかもしれない。けれど、はっきりと言えることは、もはやGPLはmustの存在ではない、ということだ。

そうすると、一個人プログラマとしての僕にとって重要な指標は、自分が自分のソースコード(とそれを利用したアプリケーション)を自由に(商用・非公開を含めて)利用でき、改良が僕の知らないところで行われないという点だ。これらを満たす選択肢としては、CDDLが今のところ最良のものとなる。GPL非依存のライブラリも増えてきたこともあり、GPL製品に頼らなくても、コードを開発する土台がある今なら、GPLへ回帰する選択肢だけは残したまま、つまりCDDL/GPLというデュアルライセンスの形態をとり、GPL非依存のライブラリやツールを構築していくというのが、今の僕の結論だ。

2006年3月28日火曜日

[大前研一] ロウアーミドルの衝撃

今のところ中流どころか、ロウアーミドル(lower middle中流の下)の気分にすらなれないので、衝撃を受けないし、「中流崩壊」にある話も等の昔から気づいていたので、最近話題になるのがおかしいと思いますが、これらの本で衝撃を受ける人もいるでしょう。

日本人に根付く「一億総中流」の意識とか、それに派生する「平等」という意識はとっても嫌なものです。本当の意味の平等とは、選挙権とか教育を受ける権利とか「法の下での平等」くらいでないと、訳がわからないものになりがちです。実際、政治家も混乱しています。

民主党の前原代表が言っていました。教育の機会平等が失われていると主張する文脈で、「親の所得と学力に相関関係がある」 => 「いい大学に入れない」=>「いい会社に入れない」=> 「所得が低くなる」、「このことについて小泉首相はどうお考えですか?」。 小泉さんから何を引き出したいかもわからない、とてもお粗末な質問の仕方なのですが、それよりも、いい大学 => いい会社 => 40代で給料のピークが来てしまった => 甘い起業の誘惑に手をだして失敗(士族の商法のように) という方々がたくさん出てきているのに、その甘い認識では、小泉さんに「学歴がすべてではない」と交わされてしまうのも無理はありません。

話はそれますが、「学歴が低くても政治家にはなれる」と豪語できる小泉さんの神経が不思議です。法律を作る能力のない人、世界だけでなく日本の歴史すら知らない人ばかりが政治家になるのがいいとは思えません。マスコミは「庶民」の感覚を持った人を褒めちぎりますが、そのような無能な人が政治家になるばかりで、大胆な政策は取れず(庶民の感覚だけでは無理です。知に裏打ちされた政策でないと他を説得できません)、結局、損をするのは、増税され年金の割が低い低所得の国民。役人は効率の悪い仕事、不要な施設拡充(世界最高水準の電子化といいながら、結局は窓口に行かなくては何もできない住基ネットや各種届出)で、税金をむさぼっている状態だというのに。

教育の機会均等って、親の仕事に従事しなければならない子の学習時間まで保護するようなものでもないでしょう。修学旅行の資金を出せない家庭に支援をとか、そういう話でもないのでは。中学や高校の3年間より、数日の修学旅行の方が印象に残ってしまうような学校の現場の方がおかしい。これも、学校内では「皆平等」に修学旅行まで行かなければならないという偽善が根底にあります。

そもそも、東大ブランドが通用するのって、日本だけですし、東大を出ても英語を話せない人はたくさんいますから、国際的な評価は相当低いものです。「いい大学」に入る機会が失われているというなら、「いい大学」を増やしてあげればいい。なぜ、それができないかというと、大学が東京にお伺いを立てないと新しい学部も作れないような中央集権型になっているから。

大前さんの本には、この辺りの問題への答えとなる魅力的な提案がいくつもあります。
まず、所得税をやめて、資産課税にする(アメリカの方式ですね)。
せっかく稼いでもそれに応じてたくさん税金をとられるのでは、稼ぐ意欲もなくなるというものです。
(配偶者の103万円ラインもこの例。これを超えると税法上の扶養家族になれないんですよね。なんともばかばかしい話です。)

サラリーマンの方は源泉徴収されているから、さらに税金に無頓着・無関心の人が多い。でも、公務員とか第一次産業従事者に比べて、税金が高いわりに保護が少ないのもサラリーマン。でも、無関心ゆえに、不平等な税金の使い道に怒りの声を上げようともしない。

そして、道州制による地方分権。日本を現行の都道府県よりもっと大きな単位で分割して、それぞれに自治性を持たせること。いい大学、地方独特の産業を育成するには、中央政府のスリム化ではなく、分権こそが必要だという論点には、納得できるものがあります。このままでは、中央政府の東京中心の視点に他の地域が引きずり回されて共倒れするような気配が漂っていますから。予算をとるためだけに、烏合の衆を集めて目新しい名前の学科の創設を申請するようでは、長期的な発展が見込めません。

ロウアーミドルが多くなっても、それに気づく人が増え、ハングリー精神が生まれるならいいのです。でも、それを挽回しようと、勉強もせずに安易に株や資産運用に飛びついてお金を増やそうとするのはいただけないです。株などによるキャピタルゲインは所詮取引で得るもの。取引そのものは、中身のあるものを創り出すわけではないのです。企業を育てるような中身のある投資は、自分自身がちゃんと資金を持つようにならないとできません(機会が廻ってこない)。

この本を読むまで全然知らなかったけれど、大前さんって東京都知事選に立候補してたようです。でも、そのとき当選したのはあの青島さん。それで現職は石原慎太郎。結局、選挙って著名人が勝つようです。石原さんは強気の外交ができるから、都知事なんかではなく政府側にまわって欲しい人なのですが。東京都から、対中国発言している様子をみると、とてもむなしく響きます。

改革といっても、自ら企画して大なたを振るえる人がまだ要職に付いていないのが悲しい。それなのに、知名度にだまされやすく、本質を持った人を国民が支持できる状態になっていないというところが、ますます悲しい。小泉さんは旧派閥を壊すという大きな成果をあげたけれども、彼自身、有意義な政策は練りだしていないのです。

プランを練れる人が実権についたときに、どれほどスピーディに世の中がいい方向に変わるのかを見てみたいのです。ここ数年間の様子を見る限り、これまでの人では、些細な方向(テーマとして大きく取り扱われてはいるけれど)に足をつっこんでばかりで、大事なところ(国民の利益に結びつくようなところ。食費が安くなるとか、給与が上がるとか)に結びつくところへの議論がなかなか進んでくれないのでがっかりなのです。

2006年3月26日日曜日

[プロ野球] リアルタイムに更新されるデータベースはないの?

日本が時代遅れだと思うとき。
野球選手のその日の成績がその日のうちにネットでわからないこと。

MLBでは、全試合、タイムラグが少ない状態で、リアルタイムに更新される試合状況や、選手の成績の変化が無料で見られます。RISP(得点圏打率:[hitting with] Runnners in scoring position)をみると、clutch hitterなのかどうか、よくわかります。毎日の打撃成績も即座に見られます。良く知らない選手がでてきても、過去の成績データから、どんなタイプか把握できたりします。

日本のプロ野球中継のテレビ放送を見る限り、細かくデータを紹介しているので、きっと選手成績のデータベースというものは存在しているのだろうけれど、それが公になっていません。

どうも、半自動で試合後数日たってから更新されていると思われる日本野球機構オフィシャルサイトも、知りたいときに情報が手に入らないのでまったく面白くありません。また、ここでは過去の成績もわかりません。

あまりファンをつかむ努力を大がかりにやってないと思うのです。今日はあの選手頑張ったのかなと考えるときに、成績を見てもヒット数、打点・打率しか書いてないし、その情報すら各チームの公式ページにも載っていないことがあります。これでは、ファンは離れていきますよね。毎日試合を見に行ける人なんて、少数だろうし。ひいきにしている選手が活躍してもスポーツニュースで扱われないことがあったり。そういうときに、試合の映像アーカイブもない。

選手データのデータベース作成は、全球団の協力が不可欠。成績が管理できているということは、どこかが全球団の協力を取り付けていて必ず記録を付けているはず、だけど、その成績を管理しているところが、ファンをつかむためのビジネスチャンスを安々逃しています。

球場に行く人だけがファンじゃないんだから。。。まったく。
MLBのデータの充実さを見ると、日本の野球から気持ちが離れているのはごくごく自然。

WBCの影響で、多くの俄ファンが出てくるだろうけれど、すぐ気持ちが離れていくと思います。WBC決勝はたまたま日本の祭日だったから良かったけれど、普段は昼間の試合なんて見られませんから。


(後記)
NBP BISというデータベースがある模様。それで、携帯サイトではリアルタイム発信している。あ~あ、こんなちっちゃな利益のために(もちろん、携帯サイト市場はそれなりに大きいのでしょうが)、日本球界の本当の利益を損ねているなんて。公式記録を新聞社や球団にちまちま売る既得権益にしがみついている人がいるのでしょう。こうなると、サイトに成績が反映されるのが遅れているのも、明らかに意図的なものですね。

2006年3月22日水曜日

[WBC] 長期的なモチベーション

日本のWBC優勝で、公式サイトでは、米国でも有名な王監督やイチローがよく取り上げられています。
それ以外の人の情報って彼らはあまり持ってないから、仕方がない面もあります。

けれど、僕には西岡くんが一番印象に残りました。

キューバ戦最終回でのプッシュバントとか、誤審でアウトにされてしまうくらい素早いタッチアップの走塁、Round2韓国戦で一矢を報いるのHRなどなど。どれも技術レベルが高いのです。彼のプッシュバントはテレビのハイライトではすっ飛ばされていることが多いのですが、試合の流れを変えた一打です。この手のプレイはちゃんと練習していないとできないはず。

こういう細かいところは記憶にも記事にも残りにくいので、メモしておきました。

MLBのニュースを読んでいると、Yankeesの松井はcleverとか、野球を良く知っていると評価されることが多いです。
日本の打者は、situationによって打ち方を変えることが身に付いているからなんでしょうね。
MVPを取るくらい成績を残していても、走者のいる肝心なところで三振が多い印象のあるA-Rod。
本当は、彼にもバントをさせるくらいでないと勝ちたいときに勝てないのでは。

昨年のWhite Soxがバントを確実に決める野球で成功していました。
けれど、日本ほど徹底されるわけでもないのでシーズン中はとても中途半端でした。
ポストシーズンに入って、絶対勝つという意識が出てからようやく皆がバントをするようになったのです。

USAチームが早期敗退したときは、ここまでの執念はなかったように感じます。

イチローは、マリナーズに戻ってから大変そう。
ここ数年高いモチベーションを維持できていないチームだから。
日本チームの面々が彼の練習への姿勢や熱意にいい影響を受けたと言っているのにも関わらず、
シーズンを通してイチローと一緒にいるマリナーズのメンバーはなぜあれほど弱かったのか。
言葉の壁があるから、あまりチームに彼の野球に対する姿勢が伝わらないのかも。

ふむ。こういう日記を書くのに時間を割いている時点で、イチローと違って、僕は必ずしも自分の目標のために生活しているわけではないようです。
こんなことを書くのも、イチローは野球のために生活を合わせているところがすごい、という話を聞いたから。

仕事へのモチベーション、それも長期的なモチベーションを高めるには、生活の中にも仕事への準備を取り入れることが大切。
これは、仕事のことばかり常に考えるということではなく、仕事に入りやすい環境を整えたり、気分転換を取り入れるなど、いろいろな要素があります。目標に集中するために家族のケアも大事。
ただ、これらを思いこみにもとづいてやっても続かないでしょう。実践による試行錯誤が必要です。

良いと思える方法を多く探し、それをライフワークにする。
いいものを見つけたときの喜び、なかなか見つからなくて苦しむ、でも、
そういうことを継続できることが、本当の才能なんだと思います。

ピアノの上達なども、弾くことを好きになることが第一。この「好き」というのがまさに長期的なモチベーションにつながるのですが、他のことに気を取られたりすることで、人間って驚くほど簡単にこういう気持ちを忘れることができます。

物事を「好き」という気持ち。
なんの努力もなしに手に入るものだし、これを維持するのに苦労しない人もいます。
そういう人は、大抵、モチベーションを維持するための外的な要因が整っている場所に飛び込んでいるのだと思います。

僕は、いろんな事を好きになれるためか、まだ1つのことへのモチベーションを維持するのに苦労しています。
もうちょっと試行錯誤しないと。

2006年3月10日金曜日

XML Databaseは使ってはいけない

XMLデータベースの研究しているのになんですが、僕個人としては
XML形式でデータを管理することはお勧めしません。

XMLデータを手で記述するなんていう作業はもってのほかです。
XMLは一部を間違って操作するだけで、全体がよくわからないデータになります。

Gmailで動的データ通信に使われているAJAXという技術もあって、この最後のXはXMLのことなのですが、データのやりとりはXMLでいいけれど、データの操作はXMLでないほうがいいとさえ思っています。

けれど、これをお勧めできるようにする技術の研究をしています。

企業の方などで、XMLデータベースを導入しようとしている考えている方は、
それよりも、まずrelational databaseのことを学んでください。今のrelational databaseにできなくて、XMLにできることは、そう多くはありません。逆にXMLにできないことの方が多いくらいです。

けれどこれはSQLを学べということではないのです。データベースを操作する言語なんて、データを取り出せて、安全に更新できれば、なんでもいいのです。それと同じように、XMLを操作する言語も乱立していますが、どれを使おうとどうでもいいことなのです。

XMLを使っているけれど、XMLを操作している印象を持たせないようにすることが、僕の当面の目標です。

Web世代における著作物とパトロン

著作権法のそもそもの由来は、芸術家を支援するパトロンの凋落後、出版社が著作物の複製から得られる利益を保証するために設けられたそうです。
http://tatuya.niu.ne.jp/copyright/column/02.html

本を書いて、「これを1回読んだらいくら」という勘定は現実的に不可能だったので、
「複製の数が、著作物の使用の数にそれなりに対応する」という想定で、無断複製を違法とし、複製に対する対価で収益を保証するという方法が取られてきました。

けれど、Webの時代になって、印刷機器への投資コストなしで著作物を配布できるようになっています。本に留まらず、映画・音楽・絵・写真などの著作物はデータとして作成できるようになったので、複製は容易です。いくらDRM(Degital Rights Management)で保護したとしても、抜け道は多数あります。

まったく新しい時代が来ているようにも思えますが、この変化は、著作物が、
既に広く使われているモデルに当てはまるだけなんですよね。

「複製が容易」、「誰もが見られる」。 これってまさにテレビ。

著作者は、出版社からではなく、現在のテレビと同様、広告ビジネスで生活の糧を得るように変化します。むしろ、そうしないと芸術家として生きていけなくなります。
視聴率の変わりに、著作物のダウンロード数が、著作物の評価の大まかな指標になります。
Web上での評判も、この用途に使えるでしょう。

あるいは、出版者の変わりに、米国で大流行しているTiVoのような番組配信サービス業者がパトロンになるのか。
ただTiVoと同様の形態だとCMはスキップされてしまうので、いくら公衆発信したものをHDDにためているだけとはいえ、著作者側がこれを良しとしないという、衝突があるでしょう。

それでも、CMのビジネスモデルはまだまだ有効なことには変わりがありません。公衆送信できるメディアの力はすごいですから。今の番組の間をぶつ切りする形や、本に挿入する形では、あっさり回避されてしまいますから、うまい形態を見つけることが、著作者側に求められています。

著作者本人がこんなこと考えながら、作品を配布するというのも面白いですし、うまく宣伝を盛り込む手法を編み出すのが今後の出版社の新しい仕事になるのでしょう。

でも、こんなことを考えていると、著作者に資金を与えて、良い芸術作品を世に送り出したパトロンという存在には夢やロマンがあって素敵です。

自分の楽しみのために、芸術にお金を注ぐ。
また、芸術を楽しむために、お金を稼ぐ。

昨今、違法コピーだ、Winnyは著作権侵害だとか騒いでいるときに、欠けているのはこのパトロンの心意気ですよね。コピーが容易な時代なのだから、違法コピーをする人を防ぐのは容易ではありません。けれど、芸術家が作品を世に出すとき、違法コピーを楽しむ人を相手にはしていないはずです。そんな人を相手に対価を取ろうとする行為は、ばかばかしいものです。

Webの時代は、コピーに対して対価を求めるのではなく、自分の著作物によって知名度や評価を得ることが大切な時代です。そして、その知名度によって、その人を支援したいというパトロンの心意気を持った人が増えることを望みます。

これを経済にあてはめると、知名度は会社の信用に対応しますが、パトロンは投資家で、利益は得られた作品なんですよね。…うーん。パトロンが廃れたのがよくわかります。道楽できる人以外には無理。お金を出してばかりだもの(笑) 今後に備えて、著作物周辺で対価を得られる仕組みを作らないといけないですね。

警察庁長官、警察官のウィニー使用「認識甘い」

うわぁ。認識甘いのはこの長官の方ですって。

私物パソコンの代わりに、官費でパソコンを購入して支給すると発表した防衛庁も、それでは根本的な対策になっていないのに、それに気づいていないのか、わかった上で敢えてわかりやすい部分だけを発表をしているのか…。

ウィニー以外にも情報流出につながるソフトウェアなんて山ほどあるし、
(ネットワークにつながるものはみなそうでしょう)
ある程度経験のあるプログラマならその場で作ることもできます。

だから、国家や個人の安全に関わる機密情報は、物理的に遮断しないとだめ。
いくら警察官などの意識を徹底したところで、専門家でも気づかないような流出経路は出てくるのだから。

EFSのようにディスク上のデータを暗号化するものもありますが、それでも、データを使うために一度は、復号化しなくてはならないし、そこからネットワークに漏れる可能性は否定できません。ディスクをノートパソコンに搭載せず画面だけを転送する情報端末のようなやり方もありますが、作業画面そのものを転送されて盗み見されることだってある。

流出したことを感知できないことも問題だし、個人認証もまだそれほど手軽ではないことも問題。広く普及してアプリケーションも充実しているOSを使うメリットと危険性や、セキュアだけれど、開発が大変な独自OSとアプリケーションを使う選択には、トレードオフがもちろんあるのだけれど、どちらにしろ、完全にデータを守るということは難しい。企業内イントラネット用のセキュリティは随分昔から議論されているけれど、その技術はまだ個人レベルにまでは普及していないんだよね。

だから、情報の安全性に関しては、個々にパソコンとネットワークを提供するような現場では、100%の安全なんて保証できない、というのが正しい認識でしょう。

このことをわかった上で、「100%安全ではない」なんて言うと信用が得られない事情から、上のリンクのように短絡的な発言・発表をしている、というなら良しとしましょう。

でも、残念ながらそうではないと思います…。

ウィニーが悪いといっても、ベースにある技術は個人と個人の通信のコネクションを作るだけです。(もちろん、データが拡散してしまう性質はあるのですが。拡散するがゆえに流出が見つかりやすいという変なメリットもあったり…)。 通信のコネクションをつくるソフトなんてたくさんあります。ブラウザだってメールだって、通信のコネクションをつくってデータをやり取りすることに変わりはないのです。

流出したデータを本当に悪用できる人は、それを手に入れたことを公表したりはしないでしょう。実際の問題は、流出を検知すること自体が難しいこと。データの安全を確保する技術はまだ発展途上だということを認識することが、まず必要。

公的機関がリーダーシップを取って、そういう技術を開発していないといけないはずなのに。。。

2006年2月21日火曜日

GPLの選択は当事者間の問題か?

コメントに対する回答をここにも乗せます。

先日書いたブログからは、GPLがviral(伝染性)ライセンスだから批判しているような印象になるかもしれません。でも、僕は、そういう一面が嫌いではありません。企業にとって、GPLであるが故に、それを使うために企業がコミュニティに貢献せざるを得ない状況を敢えて作っているところは、少数のプログラマが大企業に対抗するのに必要不可欠だったわけだし、こういったレジスタンス的な活動は、むしろ大好きです。

GPLライセンスの製品には巣晴らしいものが多々あります。主要なオープンソースプログラムはGPLへの対応済みであって、一度GPLの輪の中に入ると幸せでしょう。

でも、そこからGPLから抜け出し、GPL以外の選択肢を取るのは相当大変です。僕の主張は、安易にGPLを選択しないで、ということです。GPLの選択は確かに当事者間の問題ですが、内容をよく吟味せずにGPLを選択する当事者が増えてしまうのは困り者だと、僕は思っています。

ソース公開義務を課したり特許による攻撃を防ぎたいならMPLや、その微修正版のSunのCDDLがあります。copyrightの表示だけを義務付けたいなら、 New BSDライセンスも使えます。Apache License v2.0なら、著作物を改変した人の名前も追うことができるようになります。

でも、オープンソース開発後進国の日本では、GPLがv3になろうとしているのに、こうしたことが驚くほど話題になっていないのです。少なくとも、GPLが有名だから、という理由で、GPL採用する人には歯止めをかけたいのです。種々のライセンスを使う人には、それなりのメリットや理由があります。でも、それを理解するには日本語の情報源があまりにも少ないと思うのです。

この昔の記事はオープンソース開発を創めるにあたって、役にたつかも。著者の八田さんは、オープンソースに関連して頑張っている数少ない日本人のようです。

2006年2月20日月曜日

Stallmanが嫌う知財という言葉

"Did You Say "Intellectual Property"? It's a Seductive Mirage"
という意見がありました。GPLに関する議論で、知財(intellectual property)という言葉を使うのは、安易でしたね。

GPLの発案者であるRichard M. Stallman氏が、ソフトウェア業界へ多大な貢献をしてきたこと(企業にプログラムや技術を独占されないようにしてきた)や、Linuxなどの発展を促進したことについては周知の事実です。でもね。。あの人の顔をみる限り、僕の好きなタイプの人間ではありません(検索してみるとすぐでてくるはず)。GPL信奉者となることは避けたいです。

本題に戻ると、オープンソースのプログラムで問題となる知財は、主に著作権(copyright)と、特許権(patent)です。 GPLは、著作権に関しては手厚く保護しているライセンスと言えます。一方、特許権に関しては、GPLでは、特許のライセンス料を徴収することが禁止されています。

日本の著作権法や特許法とGPLの関わりについてはこちらが詳しいです。
経済産業省のページ

けれど、特許権の行使に関しても、個人レベルで開発している僕にとってはあまり大きな意味を持ちません。特許侵害されても、踏み倒される危険性の方が大きいですから。

僕が嫌っているのは、個人の貢献が、GPLのopen sourceでビジネスを展開している企業に何の対価もなしに吸収されてしまうことです。それも、GPLでライセンスされているプログラムを使用しているという理由だけで。

これを避けるためには、GPLライセンスのプログラムを使わず、自分が著作権(あるいは著作人格権)を持つプログラムや他のオープンソースライセンスを利用したプログラムで、身を固めるしかありません。(時間と労力がかかるけれど、これはこれでプログラマにとって楽しいことです。知識を吸収できるし、経験も増えます)

上のリンク先の文章から引用すると、
GPLに準拠するソース・コードの比率が小さいソフトウ
エアの全体に対して,ソース・コードの開示などの制約が
かかるのは民法の権利濫用の法理で無効になる可能性があ
るとの意見がある。

とあります。こういった濫用と思われる行為から自分のコードを守るには、どのような権利を駆使すればいいのでしょう? そして、それは知財のうち、どれにあたるのか。

いうなれば、非商用でソースコードの開示義務を課すライセンスが欲しい。商用への対応はデュアルライセンスにすることで切り替えられるけれど。。。それでは、開発者が集まらないだろうからオープンソースにするメリットがありません。

2006年2月16日木曜日

GPLから知財を守ろう

GPL(GNU General Public License)の欠点は、知財(IP: Intellectural Property)を公開しなさいという、押し付けがましいライセンスだということに尽きる。GPLの特徴は、GPLでライセンスされたプログラムを改変したり、それを利用するプログラムを配布する際は必ずソースコードを公開しなくてはならない、というものだ。

ソフトウェア開発の重要なメリットは何よりコストを低くできること。プログラマの知識や経験に対する対価は高くつくが、設備投資が必要な製造業より、PCがあれば開発できるという手軽さは何よりの強みだ。それゆえ、GPLの持つソースコードを誰でも利用できるようにするという性質は、新製品を開発したところで、競合他社にコピーされてしまい、独自の技術と呼べるものではなくしてしまう。

けれど、ソフトウェアがコピーできることが問題なのではない。広くソースコードを公開することによって、オープンソース開発のコミュニティを広げ、機能追加、バグの早期発見&修正が促進されることは多々ある。ソースを公開し、製品を利用するためのサポートビジネスを主に展開するところも多い。GPLの本当の問題は、自分の開発したプログラム、すなわち「知財」を公開しないという選択肢が与えられないところだ。つまり、GPLライセンスを持ったプログラムを利用した場合、自分の知財の放棄を強要されるわけだ。個人認証など、セキュリティの肝となっている部分にGPLプログラムを利用できないのは明らかだ。
(ライブラリの形で利用する場合はソース公開のライセンスは適用されないというLGPLもあるが、プログラムをリンクして使う、つまり、ソースコードにヘッダをincludeするもの、単に通信して利用するものなど、さまざまな形態がありうるにもかかわらず、ライセンスの適用範囲が非常に曖昧だ。)

GPLを推進するFree Software Foundation(FSF)が目指すものは、まさに、知財が個人の所有物となることを防ぐことである。ソフトウェアの開発に、特許侵害を懸念していては、健全な開発ができないという思想である。確かに、特許という審査に時間のかかるものとソフトウェア開発は相容れない。submarine特許による脅威に常にさらされているのもソフトウェアだ。それに、自分のソースコードを自由に使っていいというcontribution(貢献)のおかげで、かなりのソフトウェアが成長してきたことは明らかだ。

けれど、自分が公開しているのだから、あなたのソースコード、つまり知的財産も公開しなさいという主張を、他に押し付けなくてはいけないというのは、非常に心苦しい。当然、企業はGPLプログラムには参入しにくい。フリーで手にはいるものをわざわざ買う顧客はいない。 ソースコードの開発者は本当にGPLを選択する必要があったのだろうか。GPLを付与しているプログラマがすべて、FSFと同じ主張だとは思えない。

GPLを採用しつつも、顧客企業に非GPLの形でソースコードを提供できるデュアルライセンスの形をとっているところもある。MySQLや、BerkeleyDBのSleepycat(先日ORACLEに買収された)がこの形を取れるのは、プログラムをほぼ100%自社開発しているからである。コミュニティによるcontributionは少数のパッチやバグ報告で、主要な機能はすべて自己で開発している。この場合のGPLの役割は、開発者にGPLを適用することを押し付けて、ソースへの改良や、それを応用したプログラムすべてのソースコードを自社のものとすることにある。 Sleepycatの収益の70%がライセンス契約によるものという話であるから、GPLによる束縛を避けて、知財を非公開にしたいという需要が大きいことが見て取れる。

形が違うだけで、これではGPLソフトウェアといっても、proprietary(商業)ソフトウェア専門のMicrosoftと大きな差異はないように思われる。結局は、自社開発。企業側は、ソースをGPLにすることで逆に知財保護に利用している(これが行き過ぎで、他の知財剥奪になるのが問題)。FSFが掲げる特許に縛られないソフトウェアの世界とはかけ離れている。いろんなプログラムを利用して新しいものを気楽に作るという目標から逸れてきている。今では、GPLは自社製品への囲い込みを狙うMicrosoftより性質が悪いと感じる。

(確かに、大学の書類等もOffice製品のフォーマットで囲い込まれてしまって、Officeの購入を余儀なくされるという腹立たしい現状はあるが、それは、むしろ、安易に製品を選択する大学側の意識の問題である。Officeの信頼性を検証をしたという話は聞いたことがない)


拡張自在のブラウザFirefoxで注目を集めるmozilla.orgのMPL(Mozilla Public Licence)は、その点、知財に関して注意が払われている。MPLが適用される部分に改変を加えた場合はソースを公開しなければならないが、MPLとは独立に自分で開発したソースコードは非公開とすることができる。こちらのほうが知財の放出を強制されることもなく、よっぽど健全であろう。 自分の書いたソースコード、つまり知財がコミュニティの中でどのように進化するかも見てとることができる。

オープンソースソフトウェアに関しては、日本OSS推進フォーラムでよくまとめられている。

GPLに関しては、こちらのリンク集が詳しい。

2006年2月15日水曜日

日本版SEC設置法案

今、「ウォール街の大罪」という本を読んでいます。日本でアメリカのSECにあたるものは何かと調べていたら、民主党のページにヒット。ということは、そういうものができるのはいつになることやら。

個人投資家は、見た目にだまされないよう、勉強することで自衛しないといけないようです。

2006年1月24日火曜日

@IT:真ゼロ円でできるXサーバ[Windows XP編]

普段はリモートで作業するときはrxvt(on cygwin)のコンソールで事足りていたけれど、Ruby on Railsを使った開発をリモートで行うには、やはりGUI環境も欲しいので。

cygwinでRuby on Railsの開発をやめようと思った矢先に、cygwinのXを使うあたりがなんとも。

時に挑発 ホリエモン語録

朝のワイドショーをみても、それに対する人々のコメントもそう。逮捕されたから悪い人、真似しちゃいけないという話になるのがつまらない。非建設的。

結局、こういう局面になるとメディアが何を伝えたいのか、本当にわからなくなります。ホリエモンは法を犯したから、過去の報道やセリフにさかのぼって、事件と結びつくところを恣意的に切り貼りして報道するばかり。殺人事件などと同様、なぜ犯罪に結びついたかを究明するというスタンスをとっているつもりなのだろうけど、証券取引法の背後にある思想も説明しない(できない)し、グループ内の偽装工作といっても、グループと見なし得る範囲も明確でないまま、報道して、素人的な感情や印象だけで意見を述べる。

さんざん異端児やら寵児として扱ってきて、信条もない素人の感情に訴えるだけの報道で終わってしまうあたりが、ばかばかしい。

世の中のほとんどの人が、ライブドアの事件について、問題となっている部分の違法性を見抜くことができなかった(今でもまだわからない)のに、堀江氏を公認しようとした自民党の責任を追及してどうする。盲目的だったとはいえ、圧倒的な支持を受けた政治基盤を不安定にしたいの? それって、国益に結びつく? 人目を引きそうな報道をして、自分たちが利益を出したいだけとしか思えない。

前回の選挙で、他にも重要なことはたくさんあったのに、郵政民営化が焦点になるように、メディアが利用されてしまったから、うさ晴らししてるの?

プロ野球に参入させなくて良かったと喜んでどうする。既得権益をくずせない、ファン軽視、長すぎるFA権取得までの時間、選手の人生設計も考えない、自分のチームさえ良ければいいという考えがプロ野球全体のレベルダウンにつながっていることが問題ではなかったの?

「お金があれば人の心は買える」という彼の言葉に道徳的に反感を感じる人もいるでしょう。でも、「お金で避けられる不幸はかなりある」ことを踏まえて意見を述べて欲しいものです。

「楽して儲けちゃいけない。まじめに働かなきゃいけない」という意見。 ライブドアの首脳陣がまじめに働いてなかったとでもいうのでしょうか。経済の仕組みや法律も学んでそれを駆使する彼ら。まじめって何? 与えられた仕事をきちっとこなすこと? でも、それでは、半数が赤字の日本の企業を立て直すことはできないって気づいてないの? 仕事を作る経営者の側にも問題があるから、経済的な活気が伸び悩み、国民の負担が重くなっていく。頭を使って、市場のニーズにあうもの、価値を生み出すものを作り出す仕事を作って働くというのが常に大事なこと。

僕は世間一般で言う「まじめ」という言葉は「まわりが見えない」という意味だと感じています。未成年者の事件がおこると「まじめな子だったのにどうして?」というよく聞く言葉。「まわりが見えない」と置き換えると、すんなり納得できます。

昨今の報道で、一体何を生み出せたのか。
建設の事件でも、詐欺疑惑の究明ばかりで、問題の本質はそこではないでしょう?
当の社長が事実を話したところで、問題は終わらないのだから。

2006年1月23日月曜日

Project collaboration, management, and task software: Basecamp

今日見つけた物のメモ。

お仕事管理用にいいかも。

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