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2008年11月22日土曜日

知性が失われて初めて言語が「亡びる」

これは「逃げ」でしかない。特に研究の世界においては。
むしろこれから起こるのはネイティブイングリッシュの破壊であるとか
ネイティブの英語論文より非ネイティブの英語論文の方が読みやすい場合がないか?
論文が読みやすいとしたら、それは良く練られているからだ。そもそも、わかりやすい表現が良いというのは、日本語、英語の区別がない。文章を吟味することから「逃げ」て済むなら良いが、それでは投稿してもろくに読まれないから身を滅ぼす。安易にこのような考えに同調する人がいるのがとても心配だ。

日本人が書いた日本語論文であっても読みにくい例の枚挙には暇がない。口語の方がわかりやすい?口語中心のブログでも読みにくい文章はうんざりするほどある。(例えば、「日本語が亡びるとき」の書評を批難したり、あるいは水村美苗本人を攻撃するときに、読みやすく、かつ、知性をうかがわせる文章で応えた人はほとんど見受けられない)

もし世界の標準が「日本語」で、皆が日本語で論文を書くようになったとしたらどうだろう。段落ごとに「てにをは」や「漢字」の間違いが出てくるような論文は、すぐに読む気がなくなってしまうのではないだろうか。

崩れた日本語を見たとき、まず、その言葉を操る人の知性が疑われることを肝に銘じてほしい。それが英語であろうと、ブログのような媒体であろうと同じだ。投稿される論文の中には、方言や崩れた言葉が多く混じったものもあるだろうが、競争の世界の中で消え去って日の目を見ることはない。もし表に出てくるのであれば、その論文誌・学会で査読が機能しておらず、「知性」が失われつつある兆候だ。

先の意見は「日本語が亡びるとき」を「英語が亡びるとき」に置き換えてみたのだろうが、間違った用法がはびこるから「亡びる」というのは、大きな読み違いと言わざるを得ない。

言語が「亡びる」のは、その言語を使う人の知性が失われた時だ。


(追記)
日本人特有の英語の書き方に興味があるなら、「日本人の英語 (岩波新書)」を手に取って読んでみることをお勧めする。文法ミスとまではいかなくても、意味の通じない日本人英語の例がいくつか紹介されている。The Elements of Style (Elements of Style)を読むと、英語のネィティブであろうと、「必要なことだけを書く」ために文章を練りなおさなければいけないことを教えられる。日本人の英語、論文が受け入れられないのは、日本人特有の不自然な英語が出てくることで、まず「知性」が疑われ、次に、文章で伝えるべきことをsuccinct(簡潔)に書けていないために、査読者に苦痛を与えているという事情が大きいと思われる。英語が不得手なほど、簡潔に書くための努力が必要となる。今後、多くの日本人が、「良い論文を書くために」内容ともども、文章も十分練り直して欲しいという思いを込めて。

2008年11月21日金曜日

こどもから教えてもらった「日本語が亡びるとき」

一緒に塗り絵をしていたときのこと。出来上がった絵をみて、5歳のこどもが

「ぱわふるだねぇ~」

といいました。・・・可憐なディズニープリンセス(シンデレラや白雪姫、ジャスミンなど)の絵なのに、「ぱわふる」?

どうやら、いろんな色で塗っていることを指して「ぱわふる」と言っている。なるほど、「からふる (colorful) 」のことか。

正しい使い方を教えてあげて「あ、そうか~」とちょっと恥ずかしげに、納得した様子。

それからしばらくは「からふる」と言っていたのですが、先日、

「色とりどりだねぇ」

と素敵な日本語を使うようになりました。保育園の先生に教えてもらったのかな?


こどもの言語の覚え方は、まさに体当たり。恥をかいては、覚える、使ってみる。また恥をかく、の繰り返し。こどもならではの記憶力の良さも影響しているでしょうが、大人であっても、このように体当たりで英語を学習すればすぐに上達することと思います。

ただし、大事な大前提が1つ。それは、正しい使い方を教えられる人がいること。

日本の高校までの英語教育において、体当たりの英語を聞いて、正しい使い方を教えられる人がいったいどれくらいいるというのでしょう? この程度の英語力で「英語が得意」と評されるあたり、「日本語が亡びるとき」という本の伝える危機感が、うまく広まらない理由が感じ取れます。なんとか通じる英語ができればいい、という程度の話ではないのです。

「colorful」を「色とりどり」と言う。この「雅(みやび)」とでも言うべき感覚を、いったい誰が英語の世界に教えるのでしょう? 日本語は、外の言葉を外来語として吸収して豊かになっていくかもしれない。実際に、過去から現在に至るまで、英語の世界に追い付かんと「翻訳」できる学識を持った人が、英語にある概念を取り込むことで、日本語は様々に変化してきました。

しかし、現代ではその取り込み方すら安易になってきています。「コンプライアンス」という言葉がそのまま使われるように、なんのひねりも工夫もないまま言葉が輸入される時代。フランスという言葉でも、敢えて「ふらんす」「仏蘭西」と書くことで、文の持つ趣、読み手に与える印象を豊かにできるというのに。人は、その感覚をまだ失ってはいないと思うかもしれないけれど、歴史を紐解いてみれば、「かふして」を「かくして」ではなく、「こうして」と画一的に現代かなづかいに改めてしまったことで、すでに失われた使い方、言葉の感覚も日本語には多くあるのです。(これらの例は「日本語が亡びるとき」より)

たとえ音が同じでも、意味が同じでも、「書き言葉」としての日本語には、読み手に「色とりどり」の快楽を与える力があります。そんな日本語を操るべき人が、英語の世界に取り込まれていく。学ぶことに意欲ある人ほど、体当たりで教えられる教師がいない日本で英語を学ぶことの困難に直面し、日本語を書くことに注ぐ時間、情熱がどんどん失われていく

英語に日本語の言葉をアルファベットで取り込んだとしても、決して伝えきれないこの日本語のもつ豊かさ。日本語を操る人しか知りえないこの感覚は、世界の中で閉じていくばかり。そうして言葉の担い手たる人が英語の世界に吸い込まれ、日本語が次々と英語の世界の言葉を取りこんでゆくうちに、いつしか日本人すら、日本語が持つ「色とりどり」な美しさを忘れていく。

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