2010年1月9日土曜日

オープンソースとフリーソフトウェアは何が違うのか


「オープンソース」と「フリーソフトウェア」。この二つは似ているようで決定的に違う。

「オープンソース」は言葉として「ソースが見られる」というただ一つの意味しか持ち得ないが、「フリーソフトウェア」はプログラムを使う人の「自由」を求める言葉だ。

Communications of ACMにRichard Stallmanが「オープンソースではだめなんだ」と訴える記事を書いている。ここで言う「フリー」とは、「無料(タダ)」という意味では決してない。ソフトウェアを使う自由、コードについて学び、変更する自由、そして変更の有無に関わらずソフトウェアのコピーを配布する自由のことだ。

1983年から始まったフリーソフトウェアを啓蒙する運動のおかげで、GNUのツール群や現在のLinuxがあり、これなしには今のGoogleの姿もなかっただろう。自由に使えるOS無しには大規模クラスタの運用などとても叶わないし、検索エンジンなどを通してGoogleが世の中に与えている社会的価値はとてつもなく大きい。「フリーソフトウェア」が目指すのはそういった「社会的な価値」の向上だ。オープンソース開発では、ソースを公開することで広くユーザー・開発者を集めソフトウェアの品質向上につなげているが、必ずしもそれが「フリーソフトウェア」の目標というわけではない。(なぜならオープンソースでなくても、品質の良い製品を作って売り続けている会社があることは皆様もよく知っているはずだ)

僕も勘違いしていたのだが、GNU Public License (GPL)を使うのが「フリーソフトウェア」というのも誤解である。GPLとは「ソフトウェアを使う、ソースコードを見る、改変する、再配布する自由」を保証するライセンスで、GPLでライセンスされたソフトウェアを使ったコードは必ずGPLでライセンスしなくてはいけないという制限を課している。企業ではこの強い制限を嫌って、より制約の緩いオープンソースライセンスであるBSDやApache Licenseなどを使うこともある。しかし、GPLはあくまで「フリーソフトウェア」の概念を普及するための手段であって、他のオープンソースライセンスを使っていても「フリーソフトウェア」とみなすことはできる。

「フリーソフトウェア」の敵はあくまで「使う人の自由を制限する独占的なソフトウェア」だ。いくらオープンソースであっても、DRM(メディアのコピーを制限するプログラム)のようなものは、使う人の自由を制限するので決して「フリーソフトウェア」にはなりえない。

「フリーソフトウェア」が目指すものはいわば「表現の自由 (free speech)」であって、決して作ったものを「無料(タダ)でよこせ(free beer)」と要求することではない。確かに現実問題として「Eric Sink on the Business of Software」にもあるように、ソースを公開してビジネスを成立させるのは、不可能ではないものの、非常に難しくなる。しかしながら、作ったプログラムを独占して目先の利益を追求することは、より長い目で見るともっと大きな社会的価値を逃しているのかもしれない。

今まで「フリーソフトウェア」運動は、単にMicrosoftのような企業に反抗するためだけのものかと思っていたが、今回のStallmanの記事を読んで随分印象が変わった。「自由」であることの価値を認めるならば、「オープンソース」と言う代わりに「フリーソフトウェア」という言葉を使うことで、より正確な意思表示ができるように思う。

2010年1月3日日曜日

EU基準から見ても多すぎる日本の債務残高


大前研一氏の「「知の衰退」からいかに脱出するか?」によると、日本の財政赤字はEUに加盟しようとしても即座に断られるほどだそうだ。どういうことか気になって調べてみると、EU加盟の経済収斂基準というのがあり、そこに
財政:過剰財政赤字状態でないこと。
(財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下)
と書かれている。財政支出、債務残高のGDP比を見ると、2008年の日本の財政赤字はGDP比の2.6%で、債務残高はGDP比の170%にもなっている。(wikipedia: 国内総生産 GDP)

2009年度の日本の実質GDPが520兆円規模なので、その3%は15.6兆円。これが国債を発行してよい基準額のはずだが、2010年度予算で44兆円国債を発行するようなので、GDP比の8.4%ということになり、EU基準を大幅に上回ってしまう。

財務省による2009年度の各国の債務残高のデータを見ると、日本の債務残高のGDP比が170%から189%に悪化しており、EU基準の債務残高のGDP比60%以内どころか、他国に比べても圧倒的に悪い水準だ。EUに相手にされないというのも頷ける。

日本の対外債務は? 世界の対外債務国ワースト20をグラフ化してみる」という記事を見かけたが、これを見る限りは日本の債務残高は大したことのない額のようにみえる。しかし、このデータは上に挙げた財務省のデータと大きく食い違いおかしいと思っていた。このデータによると、イギリスの対外債務のGDP比が408.3%ということで、EU基準と大きく外れていてEUに残っていられるはずがない。財務省のデータの方では、イギリスの債務は2008年の57%から2009年の75.3%になっているので、最近になってEU加盟国として危ない状況になったとわかる。(参考までにWikipedia: EU加盟国の債務状況)

何も上記の「対外債務国ワースト20」の記事のデータが間違っているわけではない。この元になったWorld Bankによる各国の対外債務のデータがこちらにある。そして、ここで使われている対外債務(External debt)の定義がこちらのPDFで読める。結局比べているものが違うのだ。債務残高として「日本の国債(bond)」と「海外諸国の対外債務(External debt)」という、そもそもの定義が違うものの値を比べることに大した意味はないし、日本の債務の深刻さから目を背けさせるという意味で悪影響とすらいえる。(イギリスもアメリカも国外からお金を借りまくっているという認識は間違いではないが)

日本の抱えている負債には、年金の支払い義務と、公的債務(地方債・国債)の2つがあり、年金債務は800兆円、公的債務も800兆円になると言われている。日本国民の金融資産1500兆円を考慮しても、借金はすでに返済不可能な状態になっている。なぜこの状態が放置されてきたのか? 政府は借金を返さなくてもいいと思っているし、まともに年金を払おうとしてもすでに払えない。だからできるだけこの問題から目を背けようとさせている。例えば「改革」のため、あるいは「生活」のため。よく耳にしたお題目ではないだろうか。政権が代わっても、問題の本質を深く考えさせない政治のありかたは大して変わっていない。大前氏に言わせれば、
政府側の(短期間で配置換えさせられ責任も問われない)官僚機構だけが得をして、国民がかぎりなく損をするという構造になっている。
ということだ。

今回挙げたデータは、インターネットで検索すればすぐ見つかるようなものばかりだが、「なんだ、日本はまだ大丈夫なんだ」と安心させて「思考停止」に導くような情報には注意してほしい。ゼロベースで予算を見直すという民主党のマニフェストも、うやむやのままにさせてはいけない。研究者も仕分けされた一部の科学予算が復活したからといって安心していてはいけない。「考える力」を失うことのダメージは自分たちに直接返ってくる。

大前氏のテキストは考える力を養うための役に立ってくれるし、そしてドラッカーなどの著作もそうだが、著者の「考え」そのものを学ぶのではなく、「考え方」を学ぶために読むべきで、そうして自ら「考える力」をもった人が育つことが何よりも大切に思う。(身近なところでトレーニングを始めるなら、区議・市議会の議事録を眺めてみるとよい。大きな方針もなく些細な議論、とんでもない議論に始終しているかわかるはずだ。例えば、千葉の県議会の議事録で選択的夫婦別姓に関する意見を見ると、こんなロジックが破たんした議論を堂々と言える場所なのかと寒気がした。考えなしに議員に政治を任せているとこんな恐ろしい議論がまかり通ってしまう)

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