ラベル 子育て の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 子育て の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年3月13日金曜日

子どもはどこにいるの?

(最初に)長文です。そして、このエントリ、特に後半部分は、むしろ今「親」になっていない人、あるいは、子供に手がかからなくなってきた人に読んで欲しいと思っています。

「研究している間、子どもはどこにいるの?」研究に限らず、夫婦共働きなどでも気になるこの話。ボストンに留学中のtsugo-tsugoさんに、アメリカでの様子を教えてもらいました。(アメリカは州によってぜんぜん法律が違うことは念頭に置いて読んでください。)
マサチューセッツ州の場合、14才以下の子供だけを家においておくのは幼児虐待とみなされ、それに気づいた周囲の人には通報義務があります。ということで、周囲の話を聞いてる限りでは、子供の保育園、学校がない時間帯はベビーシッターを雇うか、常に家に両親どちらかがいるはずです。ベビーシッターは、教会や大学、近所のコミュニティ等で近所の学生等を紹介してもらう無認可のサービスが多いです。

法律の縛りが社会に与える影響は大きい。需要が生まれ、供給体制もできてくる。今の日本だと、子育てのためにどちらか片方(9割以上母親)が仕事・キャリアをあきらめてる、という状況ではないでしょうか。そしてそれが当然という風潮がある(3歳までは母親が~云々、とか)。ちなみに学童保育は学年の途中までということも多いので、両親共働きの家庭では、まだ小学生の子どもが一人で誰もいない家に帰ることになります。これを国(州)として是とするかどうか。この法律には、明確にNOというメッセージが表れています。
大学の先生の場合、わりあい自分のスケジュールを自由に調節できるのと、アメリカは家族の用事で休むのは当然、という文化があるので、結構フレキシブルにやっている印象。子供が病気になったので、東海岸に単身赴任している旦那さんが育休をとって西海岸まで飛んでいく(!)、という話も聞いたことはあります。わりあい男女関係なく育児にかかわっている、というよりもそうしないとやっていけない印象があります。

アメリカでも研究者同士で夫婦別居せざるを得ない場合も多いようなので、必ずしもアメリカが理想郷というわけでもありません。一方、日本にいる僕の周りでは、子どもの保育園や小学校関係の保護者会などで、お父さんが参加しているのを目にすることはほとんどありません。周りはお母さんばかりで、参加している男性は僕一人というケースがほとんど。紅一点ならぬ青一点(?)。仕事が終わって(終わらせて)から、スーツ姿で駆けつけるお母さん達はほんとうに偉いと思います。

あとは中国出身の研究者の場合、出身地によっては子供は2、3歳ぐらいまで母親方の両親が育てる風習があります。その場合、母親方の祖母がビザを取ってアメリカまで出向いてきたりします。

これだと保育園に入れなかったとしても、なんとかやっていけそうです。おじいちゃん、おばあちゃんが家にいて面倒を見てくれる。それがたとえ週に1日とか、子どもが病気のときだけだとしても大変ありがたいことです。けれど、改めて考えみてほしいのは、昼間の子どもをちゃんと見てもらえるというのは、実は既に相当の「溜め」がある状況なのです。

「溜め」のある社会へ

この「溜め」という言葉は湯浅誠さんが、お金の多寡だけではない「貧困」の様子を表現するために使っている言葉です。(「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へを読むと、今の日本では、本当に紙一重の差で「溜め」がなくなってしまうことがよくわかります。)
子どもを育てながら研究や仕事を続けられるのも、なんらかの「溜め」があるから。この「溜め」に自覚がなく、仕事がない人に「高校、大学などに行って手に職をつけなかったのが悪い」「私は頑張ったからできた」という類の発言を無邪気にしてしまうと、「溜め」を持たない人にどうしようもない絶望感を与えてしまいます。「自己責任」で済ませるにはあまりにも重い話です。例えば、「勉強する環境があった」、そして、「無事に大学に通うことができた」というのも立派な「溜め」です。経済的、家庭の事情で諦めざるをえなかった人もいるし、勉強に必要な「親の理解」「心の余裕」があるかどうかも「溜め」になることがわかってきています(後述する「子どもの貧困」に関連)

中国での、祖父母が孫の面倒を見るという慣習は、キャリアを確立する20代~30代の大事なときに「溜め」を作るのに有効に働いているように思います。女性研究者なら、ちょうど子育てと、テニュアトラックに入る時期が重なります。tsugo-tsugoさんのエントリで紹介されている出産後すぐに研究を始める女性研究者たちの気持ちは、十分察してあげるべきでしょう。

残念ながら今の日本に、子供を持つ人のキャリア形成を支援する「溜め」が十分あるようには思いません。 核家族化が進んでいるのは、僕が小学生のころ(20年以上前)から社会科で教わっているような話です。昼間こどもを見てくれる親や祖父母は後から作れないし、自分でいきなり保育園を作るわけにもいかない。既存の保育園は、既にキャリアや仕事がある人でないと、定員がいっぱいで入れず、手に職をつけるための勉強や、就職活動すらできなくなります。不況でパートナーの稼ぎが減少し、いざ自分が新たに仕事を見つけようとしても、資格やキャリアがないために仕事を見つけるのが難しく、この「溜め」のなさを痛感している人はさらに多くなったことと思います。

子育て支援は保育園だけでは全然足りない

子どもが幼いときは、一週間ずっと高熱をだして保育園では預かってもらえないなど、仕事を休まざるを得なくなるときがかなりの頻度であります。(病気のときは基本的にベビーシッターさんも使えません)。核家族、共働き、病児保育もないという環境で、頻繁に仕事を休んで、果たして仕事を失わない、キャリアを傷つけずに済むと断言できるでしょうか?

「溜め」を作るには、会社側の子育てへの理解も必要です。先に述べた母親ばかりの保護者会。これはお父さんがさぼっているから?(というのもけっこうあると思います。そんなお父さん達は要反省。)それだけでなく、こどもの面倒をみられる時間に仕事を終わらせること、そしてそれが、「溜め」を作るのに必要なのだという意識が会社や上司の中にも必要です。それがないと、お父さんが職場にとられてしまいます。東大でも、会議は5時までと決めたようですが、これは評価すべきことだと思います。
東京大学は3日、新年度から、原則、午後5時以降の公的な会議を行わないことを決めた。この日定めた「男女共同参画加速のための宣言」の中の一項で、教員に、仕事と生活のバランスを考えてもらい、特に女性研究者の活躍を促すのが狙いだ。・・・

ただし、この目的を「女性がいるから」とするのは大きな間違い。お父さん方も早く自宅に帰れるようにしないと、子供の面倒を見る余裕という「溜め」がない人はさらに「溜め」を失い、社会から取り残されていく。そして、その影響は世代をまたがって固定化していきます。子どもの貧困―日本の不公平を考える、では、親のそういった心の余裕という「溜め」や、さらには学歴までもが、子供の将来における収入に影響を及ぼすというデータを示しています。子どもの「貧困」とはなにか、そしていかに多くの日本の子供が、まさに今「貧困」状態にありながら、そこから抜け出せなくなっているかが、詳細な分析結果とともに述べられています。

子どもを助けようとするなら、親を助けよ

この「溜め」の問題で隠れているのは、「溜め」がないことで、大学や仕事などのキャリアをあきらめてしまった人は、もう「溜め」がない人とすらカウントされないという事実。キャリアを目指せる環境が整うなら目指したい(これが需要になる)のに、到底かなわないと最初から諦めてしまっている人は、需要としては決してカウントされない。小泉政権下で、保育園の待機児童の定義の分母をすり替えて、待機児童の割合を少なく見せるトリックをしたのと同じです。
2002年(平成14年)4月から国は、待機児童の定義を変えた。認可外の保育所に入っている児童の内、自治体が助成金を出している保育所にいる児童は、待機児童から外すことにしたのである。つまり今後は、認可保育所に入所を希望していても、自治体独自の保育の取り組みや、幼稚園の預かりシステムなどで、一時的にお世話になっている児童は、待機児童としてカウントされなくなったわけだ。
http://www.sensenfukoku.net/policy/ninsyo/index.html

保育園に預けて働きたい、大学に通いたいのにそれができない人は、待機児童数が示すよりもたくさんいるのです。日本では、「溜め」をつくるために親がキャリアを身につけようとすれば、親(特に母親)はこどもを優先すべきだからキャリアはあきらめろ、とでもいわんばかりの雰囲気があります。現に既に仕事(あるいは仕事に就く見込み)がないと保育園には入れません。仕事があっても年度途中から入るのは、かなり絶望的です。

教育や将来の収入などを見越した上で、本当の意味でこどもを大事にする、というのは、実はその親のキャリア形成を支援することに他ならないことを「子どもの貧困」という本は示唆しています。子どもを持つことがキャリア形成に不利に働く今の日本の現状では、本当に子供を大事にしていないのは、「親」ではなく、むしろこの日本という「国」や「社会」の方だと言わざるを得ません。それゆえ、病気のときにまで誰かしらに子どもを見てもらえるような、既に「溜め」のある人と、そうでない人との差は広がるばかりになります。これは月数万の補助で埋められるような「差」ではありません。

そして、この問題に気付くのは、たいていこどもが生まれた後です。そのときにはもう当事者であり、今の生活、仕事を守るのに必死なため、政治活動に一番参加しにくい立場になってしまいます。まずは、この問題意識を共有してくれる人を、政界だけでなく、学校や企業などの社会の中に生み出さないといけない。もはや「貧困」はホームレスだけの問題でないし、「子育て」も「親」になった人だけの問題ではない。「親」になってからでは遅いのです。

License

Creative Commons LicenseLeo's Chronicle by Taro L. Saito is licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial-Share Alike 2.1 Japan License.