2009年5月25日月曜日

研究者はどれくらい論文を読むのか?


自宅にあった、ここ5年間に読んだ論文を集めたらこれくらいになりました。(ちなみに全部両面印刷。ラボにも、もう1山分?くらいあります)

今や論文のPDFファイルはネットで簡単に入手できる時代で(ただし英語に限る)、画面の大きなディスプレイなら、そのまま読んでも特に不自由がありません。(なぜ印刷するかというと、電車の中やカフェで読んだり、お風呂で読んでも安心だったり(え?)、読み終わったら子どもに落書きさせたり(ええ?)するためです)。とにもかくにも、印刷された論文は家に置いておくとスペースをとってしまうので、1ページ目だけ読んだ記録用に残し、後は廃棄するために、子どもがホチキスの針をはがしてくれました。いい子。

ちなみに、ホチキスの針をはがすときには、「はりトル」がとてもとてもとても便利です。紹介していただいたkunishi先生に感謝。

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2009年5月15日金曜日

一人で悩んでいませんか?

先日、痛ましい事件があったばかりですが、学生生活で困ったことがあった場合、一人で悩むだけではなく「勇気を振り絞って」相談してください。

例えば東京大学では、そのために学生相談所が設けられています。指導教員にまともに取り合ってもらえないことが原因なら、ハラスメント相談所などもあります。

特に修士・博士課程では、人間関係も狭くなりがちで、研究がうまくいくかどうか、それに伴う将来への不安など、極度のストレスにさらされます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったもので、一度そのような辛い経験を経たはず人でも、十分な理解者となりえないことはよくありますし、家庭や人間関係など、置かれている立場が違うと、似たような問題でも、悩みの様相は変わってきます。

基本的に、大学は自らの意思で勉強する人をサポートする場所です。勉強の邪魔もしない代わりに、自分からアクションを起こさないと何もしてくれない場所、と考えた方が良いと思います。その例を挙げると、何もしなくても授業を受けられた高校までとは違い、大学では自ら履修届を提出する必要があり、自分自身で物事を判断する責任が求められています。日本に限らず、アメリカの大学でも状況は同じで、
困ったことがあったらメールでも、その辺で会ったときでもとにかく教授をとっつかまえて相談する
これが一番大切です。大切なことなのでもう一回言います。何か研究のことで困ったことがあったら、教授に相談する癖をつけてください。アメリカの大学院は、こちらからサインを出さない限り、基本的には本当に何もしてくれないし、ほったらかされる*1ので、とにかくアクションを起こすことをおすすめします。アクションさえ起こせば、たいがいのことはなんとかなります。

*1:何か困ったら助けてと言わずに放置して問題が悪化した場合、問題解決能力が無いとみなされる ラボについて - Ockham’s Razor for Engineers
けれど、それぞれの事情を把握しているわけではないし、誰かに相談することで問題が解決するなどとはとても言えません。それでも、相談することで悩みを理解してもらえたり、あるいはもっとふさわしい相談相手に出会える可能性がある。ただその一点のみにおいて大事なメッセージだと思えるので、もう一度言います。

 「一人で悩んでいませんか?」


(追記)

相談所に限らず、家族、友人、恋人、教師、先輩、後輩。周りに相談相手が見つからなければネットにメッセージを投げてみるのも手だと思います。匿名で日記を書いてみる、日本がだめなら海外の人に聞いてみる。百人に叩かれても、たった一つのコメントで救われることもあります。

もう一つ。水村さんのエッセイ「日本語で読むということ」の冒頭にあったエピソードを紹介します。

Dan Gottliebという心理学者がいます。彼は事故で首の骨が折れ、胸より下が麻痺状態になってしまいました。今まで何不自由なく歩いていたものが、一瞬で、一生一人で手洗いにもいけない体になってしまったのです。家族、友人が去り、集中治療室で首を固定され夜一人横たわる彼の目に映るものは、集中治療室の冷たい天井の光のみ。仰向けに寝ているうちに、彼の心の内には自殺願望が膨れ上がってきました。

「もう死んだ方がましだ……」

と思ったそのとき、横から、女の人が話かけてきました。

「先生は心理学のお医者さまでしょう? 死んだ方がましだって、そう思ったりすることって、よくあるんでしょうか。」

その女の人は病院の看護師でした。彼の症状などはおかまいなしにつらつらと悩みを話す彼女。そんな彼女が去ったあと、彼は心理学者としての自信を取り戻し「こんなサマになっても生きていける」と思ったそうです。やがて彼は復帰し、ラジオで人気の悩み相談の番組を持つようにまでなりました。

なんとか彼を励まそうとする家族や友人の善意あふれる言葉は、ちっとも彼の心には届かなかったのに、どう考えても自分より不幸な相手に向かって、心理学者ならきっとなんとかしてくれると、つらつらと悩みを打ち明ける彼女。そんな善意のかけらもない彼女の身勝手さがかえって彼を救った、という話です。


自分を救ってくれるのは、なにも、親身に相談を聞いてくれる人だけではないという、なんとも不思議な話ですよね。

(このエピソードは僕が短く直したものですが、水村さんの文章の方がはるかに情景あふれるものとなっているので、大変申し訳ないです)

2009年5月11日月曜日

データベースシステム入門:「データベースは体育会系図書館?」

(データベースシステムとその研究の世界を一般の人にわかりやすく伝えるため、「図書館」をモデルにした話を書いてみました。試験に出そうな(?)部分は太字で強調してあります。)

データベースシステムは図書館
データベース」という言葉は、データの集まりという意味です。データベースシステムの研究では、例えて言うなら「欲しい本がすぐに見つかる図書館」をいかに作るかという問題を考えます。ここで「データ」は図書館の「本」に相当し、「ハードディスク」は「本棚」がたくさん収められている図書館の建物だと考えてください。

「欲しい本がすぐに見つかる」とはどういうことでしょうか?例えば、図書目録を調べて目的の本棚の番号がわかったとしても、本棚までの距離が遠ければがっかりしてしまいますよね?(高すぎて手が届かない、とか泣けてきます)

「キャッシュ」は新刊コーナー
歩く距離を減らす工夫として、新刊書籍のように人気があるものは「新刊コーナー」にまとめて置いておくと便利です。この「新刊コーナー(あるいは人気の図書コーナー)」がいわゆる「キャッシュ」です。キャッシュはハードディスクより速くアクセスできる「メモリ」上に用意するのが普通で、図書館でいうと「受付カウンターの近く」というわけです。

重力・空間を無視して本棚を並び替えよう (B-tree)
しかし「新刊コーナー」の棚も大きさには限界があるので、入りきらない本のための本棚の方がどうしても多くなります。そこで、その本棚まで歩く距離(ディスクI/Oの回数)を減らすためにどうしたらいいかを考えます。現代社会に生きる私たちは、どうしても書店のように本棚を縦横に綺麗に並べたくなってしまいますが、そこはさすが1970年代の研究者。発想が違います。彼らは本棚を縦横ではなく、ピラミッド状に並べることを考えました。本棚を一つ設置したら、次は、1m空けて10個の本棚を並べる。そしてその10個の本棚それぞれにつき、また1mずつあけて本棚を10個並べる、といった具合です。

1m間隔で10,000個の本棚を一列に並べたら10,000mにもなってしまってとても大変です。この大変さを表すために、nを本棚の数として、O(n)(オーダー n)と書きます。これはn=10,000のとき、10,000m歩かなくてはいけない本棚の並び方、ということを意味します。一方、ピラミッド方式だと、どの本棚にでも4m歩くだけで到達できます(4m = log 10,000、1mおきに10個の本棚があるので、10を4回かけて10 x 10 x 10 x 10 = 10,000個の本棚になる)。これをO(log n) (オーダー ログn)と表します。ログオーダーのピラミッド方式では、本棚の数が10倍になっても、1mしか歩く距離が増えません(log 100,000 = 5。もしかしたら空中に浮かぶ本棚までジャンプする必要があるかもしれないですが…)。この本棚の配置はB-treeと呼ばれ現在最もよく使われています。

本はきちんと元の場所に整理して戻しましょう(インデックスとプロトコル)
ピラミッド型配置で本棚までの距離は短くなりましたが、これだけではまだ欲しい本が次の10個の本棚のうちどこにあるかまではわかりません。そこで、各本棚に、五十音やジャンル(小説、歴史など)のラベルを張っておきます。そして、本棚を、左から右の方向にジャンルごとに、しかも、五十音順に並べる、という索引(インデックス)を作るのです。抜き取った本を元の場所に戻さない悪い人がいると、当然この索引は役立たずになってしまいますので、ルールを守るように監視するのがデータベースシステムの仕事でもあります。このルールは「プロトコル(約束・手順)」と呼ばれます。

図書館は仲良く使いましょう (トランザクション管理、同時アクセス制御)
図書館の人が本棚に本を戻しつつ、たくさんの利用者が本を借りにくると、どうしても本棚までの通路が混雑して渋滞が起こってしまいます。この渋滞を解消するために、「今まとめて本を棚にもどすから、ここは通行止め(ロック)ね」とか、「こっちの棚は空いているからどうぞ」などと誘導して移動をスムーズにする(スループットを上げる)のが、「トランザクション管理」です。ロックなどを用いて複数の人の流れをコントロールすることを「同時アクセス制御(concurrency control)」と言います。

手狭になったらもう一つ増やそう (分散データベース)
そして、一か所の図書館で蔵書や利用者の数をさばけなくなると「分館」を作ります。これがいわゆる「分散データベース」で、離れた図書館にしかない本が欲しい場合は、やむなく「取り寄せ(ネットワーク通信)」をするのですが、取り寄せはコストがかかるので、1つの本はあらかじめ3か所の図書館で読めるように3冊購入(といいつつ実はコピー)しておいたり(複製・レプリケーション)、近くの図書館同士なら取り寄せも簡単なので、敢えて離れた図書館に3冊目を置いておいて移動コストを減らす(分散配置・アロケーション)などの工夫もできます。

ハードディスクは体育会系?
そして図書館を形作る「ハードディスク」は、力持ちで大雑把なことは得意ですが、細かい仕事は苦手な体育会系なので、扱いがとても難しいです。「一列に並んだ本棚を100個まとめて持ってきて(シーケンシャルスキャン)」というと片手でひょいっと持ち上げるような頼もしいやつなのに、「こっちと、あれと、あそこと、あの本棚合わせて10個を持ってきて(ランダムアクセス)」というと、本棚100個を移動するより時間がかかってしまったりします。実際、上のハードディスクの写真を見てもらうとわかりますが、ハードディスクというのは要するに回転するレコードに針を当ててデータを読む構造なので、針を細かく動かす仕事は苦手です。そんな彼のために、「とりあえず100個をここ(バッファ)に持ってきて。あとはこっちで探すから」という指示を出すのもデータベースシステムの仕事です。最近流行りのフラッシュメモリー(SSD)も仕事は速いけれどどうやら体育会系脳はそのままのようで。

ここに挙げた項目はそれぞれ奥が深く、今でも熱心に研究されています。そして、ハードディスクのような体育会系脳をいかに賢くするか、というのがデータベース研究の醍醐味でもあります。それに関連する話はまた次の機会に。

(体育会系の人がアホだとか言っているわけではありません。あしからず)

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2009年5月5日火曜日

NHK高校講座 世界史がすごい

何気なくテレビをつけていたら、NHK高校講座が放送されていました。これは面白い。

さすがに、数学など「問題を解く」系統の科目は、いくら資料がよくできていても、自分の理解のペースにどうしても合わなくて(もう先に進んでよ~、あれ、そこはそんなにあっさりなの?、というように)居眠りしてしまいそうになるのですが、「世界史」のような歴史科目は、人物や資料などの映像があってこそだと実感。

なにはともあれ百聞は一見。2008年分の全放送がインターネットから閲覧可能になっているので、ぜひご覧あれ。
パレスチナの紛争を生み出した元凶など、いまさら聞けないと思っている方にもお薦めです。(パレスチナ問題に関しては、The Economist誌なども歴史を振り返る記事を書いていましたね。「The Arabs and Israel - The hundred years' war」)過去を知らずして、今を理解することは到底できません。NHKのように映像のアーカイブを残す試みは素晴らしいと思います。

映像があるのとないのでは興味の持続の仕方が全然違います。山川の詳説世界史研究などの内容と比べるとテレビで扱われている分量は少ないのですが(資料映像など、本よりも充実している面もありますが)、やはり、これだけの分量の歴史解説を何の刺激もなく読むというのは大変なもので、より詳しく知る前のappetizer(食欲をそそるもの)としてNHK高校講座は十分活用できるのではないでしょうか。

蛇足ですが、進行役の寺田ちひろさんを見るだけでも価値があるかと。テレビ慣れしていない教授陣を、するどいコメントで誘導していく様は、ある意味爽快です。(もちろん台本はあるのでしょうが)

関連
  • 世界史講義録 (高校世界史の授業録。こちらも、読み物としてものすごく面白いです。初回の授業に感動しました)

2009年5月4日月曜日

もしもサーバー管理ができたなら

なんだかとても残念な話。
大学の研究の都合でサーバーの構築が必要に。Linux未経験の女子学生が立候補。彼女をバックアップするためにラボ一丸となって準備に奔走する。
けれど、後に、他にサーバー管理ができる子がいたことがわかって、たいそうショックを受け卒倒しそうになりました、ということです。

この「サーバー管理ができることを隠す」という気持ちは、なんとなくわかります。僕自身も学生時代、能ある鷹は爪を隠す、とまでは言わないけれど、同じ雰囲気を感じたためか、サーバー管理ができることを大っぴらにはしていなかったように思います。現に、大学時代の友人の中には、僕がサーバー管理ができることを今更ながらに知って驚いた人もいます。

それでも、上の話のような事態にならなかったのは、他にもLinuxが好きな子がいて、その子は率先してマシンに触りたいタイプの人だったので、特に困らなかったというだけ。

自分自身を鑑みて、元の話の彼が「サーバー管理ができる」と言い出さなかった理由はいくつか思い付きます。

「自信がなかったから」 うん。これはありそう。まだプロじゃないだろうし、クラックされてすべて自分の責任にされてはたまりません。

「自分がいなかったらどうするんだろう?」という興味。大学のラボでは、なにかとサーバー管理をする子が必ず一人はいるようになっていて、どうしてそれが成り立つのかいつも不思議に思っていました。もし、誰もサーバー管理ができなかったら、この状況をどうやって乗り切るのか、とても興味があります。別段、皆を困らせたいわけではないのだろうけど。

「Linuxが使えるのだから」と言われることへの嫌悪感。Linuxが使えるというだけで、サーバー管理者になることが既に決まってしまっているというのは、その人がサーバー管理能力を身に付けるためにLinuxと戯れた時間や英文セキュリティレポートを読む努力にタダ乗りしているようなもので、フェアではないと強く感じます。あわよくばタダ乗りしようとしていたのを棚に上げて、皆で努力していた間、隠していたのは何事だ、というのではあんまりです。


一方、サーバー管理ができることを隠していたがために、悔しい思いをしたこともあります。とある業者にシステム一式の納入と設定を依頼したときのこと。やってきた担当者の知識がとにもかくにも足りないわけです。けれど、その時は研究する時間を確保する方が大事だったので、担当者ができないことなぞ気にも留めていませんでした。

すると2か月たっても設定が終わらないので、その業者に問いただしたところ、

「Linuxは設定が大変なんですよ。知らないんですか?」

と言うのです。このときばかりは、はらわたが煮えくりかえりました。その見下した態度はなんだ。単にDNSの設定すらできないだけじゃないのか、と。(隠しているこっちもこっちなので、おあいこなのですが)

とまぁ要するに、最後の可能性として、その業者の

「技術力が低かった」

だけなのかもしれません。元も子もないですね。お後がよろしいようで。


(この話はフィクションのはずです)

関連

もしもピアノが弾けたなら

なんだかとても残念な話。
文化祭で、出し物の都合でピアノ奏者が必要に。ピアノ未経験の女子生徒が立候補。彼女をバックアップするためにクラス一丸となって準備に奔走する。
けれど、後に同窓会で、他にピアノが弾ける子がいたことがわかって、たいそうショックを受け卒倒しそうになりました、ということです。

この「弾けることを隠す」という気持ちは、なんとなくわかります。僕自身も高校時代、能ある鷹は爪を隠す、とまでは言わないけれど、同じ雰囲気を感じたためか、楽器が弾けることを大っぴらにはしていなかったように思います。現に、高校時代の友人の中には、僕が楽器を弾くことを今更ながらに知って驚いた人もいます。

それでも、上の話のような事態にならなかったのは、他にもピアノが上手な子がいて、その子は率先して人前に出るタイプだったので、特に困らなかったというだけ。

自分自身を鑑みて、元の話の彼が「弾ける」と言い出さなかった理由はいくつか思い付きます。

「自信がなかったから」 うん。これはありそう。まだプロじゃないだろうし。

「自分がいなかったらどうするんだろう?」という興味。学校のクラスはなにかとピアノ演奏をする子が必ず一人はいるようになっていて、どうしてそれが成り立つのかいつも不思議に思っていました。もし、誰もピアノが弾けなかったら、この状況をどうやって乗り切るのか、とても興味があります。別段、皆を困らせたいわけではないのだろうけど。

「ピアノが弾けるのだから」と言われることへの嫌悪感。ピアノが弾けるというだけで、弾く役になることが既に決まってしまっているというのは、その人の演奏能力を身に付けるための練習時間や努力にタダ乗りしているようなもので、フェアではないと強く感じます。あわよくばタダ乗りしようとしていたのを棚に上げて、皆で努力していた間、隠していたのは何事だ、というのではあんまりです。


一方、音楽ができることを隠していたために、悔しい思いをしたこともあります。野球部の地区予選の応援にクラス全員で行ったときのこと。相手高の吹奏楽の応援がまぁとにもかくにも下手なわけです。けれど、僕は野球を見ることそのものが好きだったので、下手な演奏なぞ気にも留めていませんでした。

すると、隣にいた例のピアノが上手な子が一言。

「(演奏の下手さに)気付かないのって幸せだよね」

と言うのです。このときばかりは、はらわたが煮えくりかえりました。その見下した態度はなんだ。音楽ができるのがそんなに偉いのか、と。(隠しているこっちもこっちなので、おあいこなのですが)

とまぁ要するに、最後の可能性として、そのピアノが弾ける子の

「性格が悪かった」

だけなのかもしれません。元も子もないですね。お後がよろしいようで。

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