2008年11月26日水曜日

論文を書く前に知ってほしい「言葉」の大切さ

「言葉」で「知性」のすべてが伝わるわけではない。そんなことは百も承知しています。
以前のエントリ「知性が失われてはじめて言語が「亡びる」」では敢えて「知性」とは何かを定義しないで話をしています。「丁寧な文体」が「知性」と同一だとは言っておりませんので、あしからず。それゆえ、リンク先での「知性」とは何かという議論に反論する理由はなくて、実際、そのとおりだと思います。

少なくとも、僕ら研究者は「知性」を育て「知性」を見出す仕事をしています。つまりは現場の人間です。言葉がつたなくても、対話的にその人の持っている可能性などの「知性」を見出すのが大学という場であり教師の仕事なら、「知性」を持っていることを自らが外に伝えるのが論文です。論文の場合、表現やプレゼンテーションなど、「知性」を伝える力も含めて「知性」と考えます。

もちろん、中身がからっぽでいいかげんなら、きれいな文章でいくら取り繕ってもだめです。

論文を書くということは、自分の知性を他に認めてもらう行為です。but, but, butと続く論文は決して読みやすいものとは言えません。しかも、言葉を疎かにして、他人(しかも学生なら、目上の教師)に馴れ馴れしく話しておきながら、「自分は賢い」と認めてもらおうとは、非常におこがましい態度と言わざるを得ません。査読する側としては、読みにくい文章・要点を得ない下手なプレゼンテーションから「知性」を見出すことを強いられるために、意味が伝わりさえすればいいという書き方は迷惑極まりなく、「論文」という媒体でやるべきことではないと強く思います。

研究の世界の査読システムは、人の善意で成り立っています。お金がもらえるわけではないし、年間に何十本と読むものなので、自分の研究時間が削がれていくばかりなものです。それなのに、肝心の論文を書く側に、言葉を洗練し、内容わかりやすく伝えるための努力、読んでもらう人への敬意がない。そんな論文ばかりが集まってくるようだと、査読する側も疲弊し「知性」を見出す努力が続けられなくなります。結果として、重要な学問への貢献が見い出せなくなる、学会・論文誌の質が下がる、と悪循環に陥いるのです。

論文の査読の評価項目には、「プレゼンテーションの良し悪し」というものがあります。評価が高い論文はきまってプレゼンテーションが良いもので、そのような評価を得た論文が全体の中でも常に上位を占めています。技術的に秀逸でも、プレゼンテーションが悪い論文を救出するには、査読者がshephered(指導者)の役を買って出て、論文をbrush upさせる仕事をしなくてはなりません。しかし、査読者は匿名が基本です。論文を世に出すのを手伝っても、お金も名声も得られないため、拾い上げてくれるかどうかは完全に査読者の善意に依存しています。ですから、論文からプレゼンテーションを練り直せるだけの「知性」を見出せないようなら、単に論文をrejectすることになるでしょう。

僕が本当に伝えたかったのは、書き手の方こそ、良い文章・洗練された表現を書くために頑張って欲しい、ということです。 特にそれが学問という、善意や熱意で成り立っている場所ならなおさらです。

この努力を怠った結果は、既に今の日本で見ることができます。頑張って書かれた論文でも、返ってくる査読結果が数行で適当に書かれたものであったりと、査読者側が最初からやる気をなくしている場合があるのです(これは日本に限らないですが…)。投稿する側も、いまや研究の世界の普遍語となった英語で書くことが大事なので、手軽に業績を増やすために、英語で書いたものを日本語に直して出してしまおう、と、日本語としての文章を練り直す努力を怠ります。当然、査読者はさらにやる気を失います。極端なことには、論文を日本語では書かないという方向にもつながっていきます。そうしているうちに、「知性」を伝えることも、また「知性」を見出す仕事へのやりがいも日本語からは失われ、英語の世界に奪われる方向に傾いてしまいました。「知性」が失われたのが先か、「言葉」への思いが失われたのが先か。

「知性」は「言葉」だけでは伝わらないかもしれない。でも、「知性」を守り得るのも「言葉」なのです。

2008年11月22日土曜日

知性が失われて初めて言語が「亡びる」

これは「逃げ」でしかない。特に研究の世界においては。
むしろこれから起こるのはネイティブイングリッシュの破壊であるとか
ネイティブの英語論文より非ネイティブの英語論文の方が読みやすい場合がないか?
論文が読みやすいとしたら、それは良く練られているからだ。そもそも、わかりやすい表現が良いというのは、日本語、英語の区別がない。文章を吟味することから「逃げ」て済むなら良いが、それでは投稿してもろくに読まれないから身を滅ぼす。安易にこのような考えに同調する人がいるのがとても心配だ。

日本人が書いた日本語論文であっても読みにくい例の枚挙には暇がない。口語の方がわかりやすい?口語中心のブログでも読みにくい文章はうんざりするほどある。(例えば、「日本語が亡びるとき」の書評を批難したり、あるいは水村美苗本人を攻撃するときに、読みやすく、かつ、知性をうかがわせる文章で応えた人はほとんど見受けられない)

もし世界の標準が「日本語」で、皆が日本語で論文を書くようになったとしたらどうだろう。段落ごとに「てにをは」や「漢字」の間違いが出てくるような論文は、すぐに読む気がなくなってしまうのではないだろうか。

崩れた日本語を見たとき、まず、その言葉を操る人の知性が疑われることを肝に銘じてほしい。それが英語であろうと、ブログのような媒体であろうと同じだ。投稿される論文の中には、方言や崩れた言葉が多く混じったものもあるだろうが、競争の世界の中で消え去って日の目を見ることはない。もし表に出てくるのであれば、その論文誌・学会で査読が機能しておらず、「知性」が失われつつある兆候だ。

先の意見は「日本語が亡びるとき」を「英語が亡びるとき」に置き換えてみたのだろうが、間違った用法がはびこるから「亡びる」というのは、大きな読み違いと言わざるを得ない。

言語が「亡びる」のは、その言語を使う人の知性が失われた時だ。


(追記)
日本人特有の英語の書き方に興味があるなら、「日本人の英語 (岩波新書)」を手に取って読んでみることをお勧めする。文法ミスとまではいかなくても、意味の通じない日本人英語の例がいくつか紹介されている。The Elements of Style (Elements of Style)を読むと、英語のネィティブであろうと、「必要なことだけを書く」ために文章を練りなおさなければいけないことを教えられる。日本人の英語、論文が受け入れられないのは、日本人特有の不自然な英語が出てくることで、まず「知性」が疑われ、次に、文章で伝えるべきことをsuccinct(簡潔)に書けていないために、査読者に苦痛を与えているという事情が大きいと思われる。英語が不得手なほど、簡潔に書くための努力が必要となる。今後、多くの日本人が、「良い論文を書くために」内容ともども、文章も十分練り直して欲しいという思いを込めて。

2008年11月21日金曜日

こどもから教えてもらった「日本語が亡びるとき」

一緒に塗り絵をしていたときのこと。出来上がった絵をみて、5歳のこどもが

「ぱわふるだねぇ~」

といいました。・・・可憐なディズニープリンセス(シンデレラや白雪姫、ジャスミンなど)の絵なのに、「ぱわふる」?

どうやら、いろんな色で塗っていることを指して「ぱわふる」と言っている。なるほど、「からふる (colorful) 」のことか。

正しい使い方を教えてあげて「あ、そうか~」とちょっと恥ずかしげに、納得した様子。

それからしばらくは「からふる」と言っていたのですが、先日、

「色とりどりだねぇ」

と素敵な日本語を使うようになりました。保育園の先生に教えてもらったのかな?


こどもの言語の覚え方は、まさに体当たり。恥をかいては、覚える、使ってみる。また恥をかく、の繰り返し。こどもならではの記憶力の良さも影響しているでしょうが、大人であっても、このように体当たりで英語を学習すればすぐに上達することと思います。

ただし、大事な大前提が1つ。それは、正しい使い方を教えられる人がいること。

日本の高校までの英語教育において、体当たりの英語を聞いて、正しい使い方を教えられる人がいったいどれくらいいるというのでしょう? この程度の英語力で「英語が得意」と評されるあたり、「日本語が亡びるとき」という本の伝える危機感が、うまく広まらない理由が感じ取れます。なんとか通じる英語ができればいい、という程度の話ではないのです。

「colorful」を「色とりどり」と言う。この「雅(みやび)」とでも言うべき感覚を、いったい誰が英語の世界に教えるのでしょう? 日本語は、外の言葉を外来語として吸収して豊かになっていくかもしれない。実際に、過去から現在に至るまで、英語の世界に追い付かんと「翻訳」できる学識を持った人が、英語にある概念を取り込むことで、日本語は様々に変化してきました。

しかし、現代ではその取り込み方すら安易になってきています。「コンプライアンス」という言葉がそのまま使われるように、なんのひねりも工夫もないまま言葉が輸入される時代。フランスという言葉でも、敢えて「ふらんす」「仏蘭西」と書くことで、文の持つ趣、読み手に与える印象を豊かにできるというのに。人は、その感覚をまだ失ってはいないと思うかもしれないけれど、歴史を紐解いてみれば、「かふして」を「かくして」ではなく、「こうして」と画一的に現代かなづかいに改めてしまったことで、すでに失われた使い方、言葉の感覚も日本語には多くあるのです。(これらの例は「日本語が亡びるとき」より)

たとえ音が同じでも、意味が同じでも、「書き言葉」としての日本語には、読み手に「色とりどり」の快楽を与える力があります。そんな日本語を操るべき人が、英語の世界に取り込まれていく。学ぶことに意欲ある人ほど、体当たりで教えられる教師がいない日本で英語を学ぶことの困難に直面し、日本語を書くことに注ぐ時間、情熱がどんどん失われていく

英語に日本語の言葉をアルファベットで取り込んだとしても、決して伝えきれないこの日本語のもつ豊かさ。日本語を操る人しか知りえないこの感覚は、世界の中で閉じていくばかり。そうして言葉の担い手たる人が英語の世界に吸い込まれ、日本語が次々と英語の世界の言葉を取りこんでゆくうちに、いつしか日本人すら、日本語が持つ「色とりどり」な美しさを忘れていく。

2008年11月19日水曜日

AdSenseをやってみた - 追記 -

要するに「AdSenseをやってみた」で何が伝えたかったかと言いますと、
  • 1000人の読者に対して稼ぎは5円。
  • 例え、これが百万人になったとしても、たかが5000円
  • さらに稼ぐには、広告へのクリックを誘導しなくてはいけない
  • しかし、地道な努力を促すエントリ(たとえば、「良い論文を書くために知っておくべき5つのこと」など)に対して、「○○の秘訣を伝授」などと、甘い誘惑を囁く本末転倒ぶり
  • はした金を得る代わりに、文章の価値、美的感覚など、失うものが大きい。まさに「タダより高いものはない」

AdSenseをやってみた

人もすなるAdSenseといふものを 我もしてみむとすなり。

思ふに
  • 1000の目で5円を恵むGoogleといふところは たいそうきまえが良く
  • 惜しむらくは 我が文の品位 著しく 損なわれること
人に踊らされしわが心 いかがは悲しき

2008年11月18日火曜日

エジソンのお箸

久々に子供の話題。

子供の箸の持ち方がなかなか直らなくて苦労しています。人差し指と親指の二本ではさむのが普通ですが、中指で上から押さえてしまうため、親指がうまく使えず、まるでじゃんけんの「グー」のような持ち方になってしまっています。

そこで思い出したのが「エジソンのお箸」。以前に保育園の先生から教えてもらっていたのですが、なかなか店頭では見かけず買いそびれていました。ふとAmazonで検索してみると、見事に発見。都心に住んでいると、こういった日常雑貨を買うのに非常に不便な思いをするのですが、さすがAmazon。便利。

先生が自分のお子さんで試して2週間くらいで直ったそうなので、うちでも購入してみることにしました。体験談はまた後日。



2008年11月15日土曜日

21歳からのハローワーク (政治家編)

これから政治に参加しようと志す人ために、「13歳のハローワーク」よりもう一段深く分類してみました。

政治家
政治をする人。人気を博することでなれる。

良い政治家
教育・経済・医療など社会への貢献を評価された人。往々にして、その功績は数年、数十年という長い時間を経たあと初めて評価される。

有名な政治家
他の政治家・専門家にではなく、メディアや書籍を通じて一般の人にわかりやすく政策を伝えて評価を得る人。「国民のため」「改革」と言い続けることでもなれる。諸問題への理解度、漢字の読み書きのなどの知識は問われない。

21歳からのハローワーク (ブロガー編)

これからブログを書く人のために、「13歳のハローワーク」よりもう一段深く分類してみました。

ブロガー
ブログを書く人

アルファブロガー
書いたブログで、多くの人の興味を引ける人。ただし、一度注目を集めると、内容の良し悪しに関わらずアクセスを稼ぐようにもなる。

はてな村住人
人のブログに「はてなブックマーク」を付けることを生業とし、理解不明な発言に対して、惜しみない考察、批評を繰り返せる人々のこと。

ハブ屋さん
主に他のページへのリンクを張り続けるサイトを作成し、インターネット上の交通整備を延々と行う人々のこと。語源はAuthority(たくさんリンクされるサイト)と Hub(たくさんリンクを張るサイト)から。ソーシャルブックマークサイト「はてな」もこれに含まれる。


21歳からのハローワーク (プログラマ編)

これからプログラミングの仕事に就く人のために、「13歳のハローワーク」よりもう一段深く分類してみました。

プログラマ
プログラムを書く人。

ハッカー
作ったプログラムの価値を認めてもらえるプログラマ。他のプログラマに評価されるほど格が高い。

良いプログラマ
作ったプログラム、コードの品質を、仕事仲間、他の技術者に認めてもらえた人。

良い開発者 (developer)
作ったプログラムの価値を、一般の人に認めてもらえた人。使う人にとって便利なものを作れるなら、ソースコードの汚さは問われない。

ギーク
プログラム、コンピュータ関連の知識に通じている人。ただし、実際に物を作らずとも、オタクっぽい発言を続けることでもなれる。

21歳からのハローワーク (研究者編)

これから研究を志す人のために、「13歳のハローワーク」よりもう一段深く分類してみました。

研究者
研究をする人。

良い研究者   
他の研究者から評価を得ている人。

著名な研究者
他の研究者にではなく、メディアや書籍を通じて一般の人にわかりやすく伝えて評価を得る人。架け橋としての役割を担い、他の研究者からの評価は問われない。

本棚公開

VOXにアカウントを作ったところ、本のリストを作成できたので、調子に乗ってどんどん追加してしまいました。

まだまだあると思うけれど、とりあえず今思い出せた洋書77冊。けっこうあるなぁ。



2008年11月13日木曜日

これから研究をはじめる人へのアドバイス

まずは、この記事を書くきっかけとなった文章を紹介。リンク先を読んでみてください。
 
「彼氏が和文雑誌に載ってた。別れたい・・・」

研究の世界 上の文章はもちろんネタですが、研究を続けていくと本当にここに書かれたような、トップジャーナルに通ってなければ…、という世界が待っています。実際、僕自身もいつもこのような心づもりで研究しています。ただ、ひとつ気になったのは、自分自身の経験や、周りの様子を見る限り、Cell, Nature, Science (CNSと俗に言われます)などは、自分一人の実力だけで採録されるわけではありません。この人がいなかったらここまでの成果は出なかった、という貢献は確実にあるけれど、大抵は多くの人の長年の努力の積み重ねの結果acceptされています。

研究のインパクトの大きさ だから結果として、団体で金メダル!くらいには誇れますが、これを個人の功績と考えるのはあまりに決まりが悪いものです。僕が情報と生物の融合分野にいながら、情報系でかつ腕一本でできる研究も続けているのは、この決まりの悪さを避けたいという事情もあります。

でも、世の中へのインパクトから言うと、小人数でできる程度の仕事が中心の情報系トップクラスの会議(情報系はジャーナルより、会議の論文の方が主要です)と、Natureに載るのとでは雲泥の差がありますし、研究は常に後者を目指すべきものだと思います。なぜなら、情報系の小さなアイデアは、Googleのようにサービス化してはじめて世の中に大きなインパクトを与えられるもので、そのインパクトは論文を書くだけでは作り出せません。けれど、Natureなどの記事は、既に多くの研究者、テクニシャンを駆使しているという意味で、実際にサービスを作りだすのに近いものが多く、それゆえ大きなインパクトを残せるのだと考えています。

本当に目指すべきはPI グループや周りの研究者が優秀だと、それほど苦もなくCNSの論文が出ることもあるでしょう。ただ、そういうことが続くと、いざ自分がPI (Principal Investigator. 研究を率いる人・主任研究者) になるときに、途方に暮れてしまうのではないでしょうか。それでは、いくらCNSがあっても見かけ倒しでしかありません。さらに高みを目指して、自分で研究すべき対象を見定め、研究プランを立て、インパクトのある論文を仕上げるところまでできる力を持った人になってほしい。そのトレーニングとして、低予算、腕一本でできる研究に挑戦するのは悪くない選択肢だと思います。研究者にならず、ビジネスの世界に飛び込んでいったとしても、論文の代わりに、売れるもの・サービスを生み出すという違いだけで、PIとしての役割はそれほど大きく違わないでしょう。

研究テーマを探す 自分には才能がない? そんなこと言わないで。同じ分野、研究室という狭い範囲の中で競争しなくたって、広く見渡せば、世の中にはまだわからないこと、うまく解けていない問題が溢れてます。どんな問題が、今手元にある「知識」「経験」という道具で解明できるのか、嗅覚を働かせてみましょう。どうも解けそうにないと感じたら、いったん手を休めて、問題を温めておくのも手です。数年後によいアプローチが閃くことだってあります。知見や設備が整って初めて取り組めるようになる問題だってあります。同じ問題をしつこく考え続けられるくらい愚直な人の方が、案外研究に向いていることもあります。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」(中略)しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」
世の中の偉い研究者達がこれが大事だ、と盛んに取り組んでいる問題が、5年10年したら廃れていることなんて本当によくあります。情報系には、数学的に面白いという理由で盛んになったけれど、実際には誰も使わない、アプリケーションがないという論文の屍が多くころがっています。ですから、実際に研究成果を使うユーザーの視点から問題を見詰めると、今まで優秀な研究者達が気づいていなかった、まったく斬新な切り口を見出せることがあります。でも、本当にそれが新しいアプローチかどうかは、よく勉強していないと判断できないことです。そのために、普段から自分で教科書、論文を探してきて勉強を続ける習慣が必要です。あるいは、先進の研究者に意見を聞くのも早道だと思います。

サーベイする いったん取り組むべき問題を見つけたら、似たような問題がないか、この問題は過去にどのように考えられていたのか、を念頭に置いて、PubMed, Google Scholarなどで過去の論文を漁ります。ポイントを絞ってするサーベイ(研究調査)は、論文を一本一本丁寧に読むよりは素早く終えることができます。


問題と向き合う ひととおり調べ終わったら、他の論文も読みたい、まだ勉強が足りないという、邪念を排除して問題に取り組みましょう。最初は、コンピュータやインターネットから離れて、ノートと鉛筆だけで考えた方が集中できて良いと思います。今まで学校で習った知識などを総動員して研究計画、解法を練っていくうちに、あの授業は大切だった、と思うこともあるでしょう。大学の授業のありがたみがわかるのは、たいてい後で必要なことに気付いてからです。(話を少しそらすと、例えば、高校・大学受験の段階で、国数英理社の勉強が大切だと、勉強をしたくない子に説得するのはとても難しいことのように思います。)

勉強する意欲が一番高まるのは、この必要に迫られた段階です。意欲が十分高まったら、教科書や論文に戻って、今度は詳細に読み込んでみるのが良いと思います。読むだけではなく、実際に手を動かす(プログラムを書く、実験するなど)を交えるとさらに効率が良くなります。

論文を書く とにかく根気が勝負です。英語で8000 wordsのfull paperを書くには、書き慣れた研究者でも2週間をフルに使うようです。時間がかかるものだということを、覚えておいてください。でも、最初から上手にかけなくても心配しないで。上手になるまで書き直し、ロジックが飛ばないように修正していけばいいのです。それと同時に、問題と向き合いつつ、論文、あるいは研究テーマそのものを練っていくのが大事なことです。


論文を投稿する 投稿する場所の選択は、自分が今後どのような研究者として生きていくかを選ぶに等しいです。CNSや情報系のトップ会議のように競争率が高いところでは、投稿数も多く、査読者の巡り合わせや、いい成果だったとしても研究の重要性がうまく伝わらず落とされてしまうなど、ギャンブル的な要素が多分にあります。いったん査読に入った後の待ち時間も長いので、長い間待って結局rejectということになると、特に将来が不透明で早く業績が欲しい院生・ポスドクの段階では末恐ろしいものです。ただし、acceptされれば、その喜び・達成感には計り知れないものがありますし、アカデミアの世界でポストを見つけやすくもなるでしょう。まさに、Publish or Perish (採択か死か)の世界です。

熾烈な競争を避け、手頃な発表場所を狙うのも良いですが、その場合、世の中へのインパクトは相当低いものになります。まず、研究を引用してくれる人が極端に少なくなることを覚悟してください。そのため、研究成果を実用化してくれる人を見つけるのも難しくなります。もっと深刻なのが、注目されなかった研究・論文の作成に費やした膨大な時間の意義を、自分の中でどう解決するか、ということ。学んだことを活かして、本を書く、ビジネスに還元するなど、自分の生きた足跡を残す方法は、トップジャーナルの論文を書くだけに留まりません。人生の選択ですので、ここは慎重に考えてください。自分の今のレベルはこうだから。。。と安易に通しやすい学会ばかりを選んでいると、PIになる訓練を怠りがちなり、かえって将来の道を閉ざすことにもなりかねません。

最後に 研究は学者たちだけのものではありません。サーベイでは、データや過去の知見を集めて検証する力が身に付きますし、ゴールをしっかりと見据えて問題解決に取り組む力は、大学を出て企業に勤めたり、ビジネスを起こすにしても重要な能力です。論文を書くことを通して学んだ、わかりやすく自分のアイデアを伝えるための能力は、プレゼンテーションにも活きてきます。たとえ在学中の短い間だったとしても、研究に取り組んで得た経験は、今後の人生において大きな糧になることでしょう。

ちなみにアメリカでは、Ph.D を取って出た学生の方が、教授より稼ぎが多くなる、なんてことはざらにあるようですね。一方、今の日本は研究する能力への評価が世界と比べて極端に低い社会になっていることには注意してください。深く研究した人の話をろくに聞かないで、あれこれ騒ぐというのはとても悪い兆候です。専門家不在の有識者会議が開かれるなど、まるで研究なんて必要ないという風潮がいたるところで感じられます。

この記事を読んでくれた人が今後大きく活躍し、様々な分野で今の日本を変える力になってくれることを期待しています。

2008年11月11日火曜日

英語コンプレックスなんて些細なこと

「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中でが話題になっていますね。まだ手に入ってなくて悲しいのですが、内容についてはわからなくても、多くの人が英語に壁、いわば英語へのコンプレックス(漠然とした不安・恐怖)を感じていることが伺えました。

たとえば、弾さんの404 Blog Not Foundより:
梅田さんが、なぜ、それも日本ではなくシリコンバレーにおいて、「弾さんは英語が出来てうらやましい」と、ふと軽く、しかし底知れぬ諦念をもって嘆息したのかが。
と、シリコンバレーで長く暮らしている梅田さんでも、この壁は残っているようだし、その英語が堪能な弾さんですら、
まず、本書は英訳されねばならない。皮肉かもしれないが、それが著者の願いを成就させる最短距離である。そのために、私も出来ることをしたい。残念ながら私の英語力は本書を訳出するにはあまりに不十分であり、それ以前に日本語、そして文学の教養が足りなさ過ぎる。
と、文学的作品を書くレベルの英語力に至らないことを認めています。御二方とも、実用上の英語には困らないほどの力を持っていることは十分伺えますが。弾さんの場合は、日本語コンプレックスと言うべきものもあるようで。あれだけの日本語の読解力があり魅力的な文章を書ける人なのに、不思議。人の悩み・コンプレックスを推し量るのは難しいということですね。

他にも、アメリカにいて仕事をしているだけでは足りないという趣旨の話も見つけることができました:
日々の生活や仕事に必要なコミュニケーションはできるようになっても、そのことと英語でのソーシャライズ、つまり親密な交友ができるということの間には無限の開きがある
いやはや。英語経験が豊富な方々の間でも、英語コンプレックスは遍在しているようです。

英語へのもどかしさは常につきまとう  僕自身も、英語で論文を長く書いていますが、満足のいく表現に行きつかないもどかしさと向き合わざるを得ないのが実情です。表現のストックが溜まるにつれ、書く速度は目に見えて向上していきますが、そうして書いた文章がネィティブの人にとって、意味は通じたとしても、いったいどのような印象を与えるのかについては、皆目見当がつかないのです。

例えば、「日本語が亡びるとき」というタイトルにしてもそう。日本語ネイティブなら、このタイトルを同様の意味で「日本語の危機」や「日本語が亡びる」などと言い換えたとき、それぞれの持つニュアンスの違いを敏感に感じ取れるでしょう。

この違いは辞書的なものではなく、文化的な要因が大きいと感じます。たとえば、過去にその漢字・言葉がどのように使われていたのか。「亡国」「金融危機」など、言葉が使われた状況が現在の意味に反映されていきます。また、「亡びる」「亡びるとき」という違いでも、「亡びるとき」とした方がじわじわと迫りつつある未来を指している印象を与えます。でも、この日本語を感じ取る能力をどうやって学んだのかは、僕自身にもわかりません。

英語で似たような例を挙げるなら、Impossible is nothingがいいと思います。お願いだから文法がどうこうとか叫ばないで。見慣れないフレーズが出てきたときに、どう感じるのか。その感覚が持てないことに、英語コンプレックスを抱くのです。

英語において、このどうやって学んだらいいのかもわからない言葉の機微を感じ取る能力が要求されるというのは、英語で普段不自由なく仕事をしていたとしても、甚だ恐ろしいものです。それなのに日本ではまだ多くの人が、英語で論文を書いたり、英語で仕事をする、ブログを書くという経験に乏しく、この危機感を共有すらできない。これもまた、日本語が生き残る上で、恐ろしいことだとは思います。

英語コンプレックスなんて些細なこと  今後日本語がどういう立場になるかなど、さらに深い洞察は「日本語が亡びるとき」に期待するとして、多くの人が英語コンプレックスを抱いているようです。それなら英語にコンプレックスがあっても、そこで悩む必要はないでしょう。むしろこの状況を逆手にとって、日本語を扱える人として英語を使う楽しみを見出していけばいいのでは、と思います。例えば、
  • 映画を見るときに、T女史の意味不明な字幕と十分戦えるようになります。
  • 邦訳を待たずして、原著で読めます。(翻訳の質や、日本の出版社が原題を捻じ曲げてでも売るためにつけるキャッチーなタイトルに騙されることなく、本を楽しめます)
  • 試合中も一球ごとにデータが更新されるMLB(メジャーリーグ)の良さを楽しめます。いまの日本のプロ野球の既得権益にしがみついた体質では、同等のサービスは期待できません。
  • 学問なら、アメリカの大学院で、しかも優秀な人は、英語以外が母国語の留学生で占められていることをご存じでした? 
  • やっぱり英語がうまく使えなくても、日本語で生きていける
ここまでリスクを取らずに英語を楽しめるって、実はすごいことだと思います。

英語を使うのを当たり前にする  ただ、僕も、坐しているだけでは何の向上も見込めないので、読む、書く、聞く、話すの能力のうち、「書く」について、また、ニュアンスを多分に含んだ日常の話題に慣れるため、英語でブログを書くことにしました。普段論文を書く方が多いので、ブログは三日坊主になるとは思うけれど。。。

ちなみに「読む」に関しては、僕自身研究者として英語の論文を読む機会が多いのですが、小難しくて気楽に読めないものばかりです。楽しんで読むために、情報系としては一般向けで内容がやや軽めのCommunications of ACMや、Economist(世界情勢と経済の知識が足りない僕には読むのが大変ですが)などの雑誌を電車の中で読んでいたりします。読むスピードのギアを上げないと特集記事などは読み切れないので、だんだん速読のコツが身に付いてくると思います。ただし、記事の内容に興味がないとただの苦行になるので気をつけて。

「聞く」はひたすら聞く。聞きながら重ねて口ずさむと(シャドーイングと言うらしい)「話す」力にも良い効果があります。Economistを英サイトで購読すると全記事の音読ファイルがiPodで聞けるので重宝しています。PodCastのCNET Buzz Out Loudなどは遠慮のないスピードで話してくれるので、英語の生の日常会話の資料として貴重なのですが、会話が事あるごとにMac, PS3, Nintendo~と、単調になってくるので、飽きてしまいました。これも興味のあるものを選ぶのがいいですね。

「話す」を鍛えるために、歩くときには英語で独り言をつぶやいています。ぶつぶつつぶやいていて危ない人ですが、なりふり構ってはいられません。もはや勉強法なんてものではなく、ただひたすら言葉のストックを貯める、表現してみる、の繰り返しです。でも、それだけで大してお金も使わずにかなり英語を使えるようにはなりました。

このあたりの能力って表裏一体になっています。「書く」を鍛えると、頭の中で文を組み立てながら「話す」にも活きてきます。「読む」は表現を真似て「書く」につながる。「聞く」は「読む」ためのリズムを教えてくれるし、状況に応じた会話を「聞く」ことで「話す」ときの言葉の引き出しを増やすのが簡単になります。実際に声に出して「話して」いると、「聞く」ための脳ができてくる実感もあります。


本の到着が待ち遠しい。けれど「日本語が亡びるとき」を読んだ後でも、きっとここで挙げた部分は変わらないと思えるので、先にブログにしました。

2008年11月9日日曜日

たった一つの準備で勉強会は変わる

この記事で伝えたいことは一つ。

建設的な議論を始めるには、準備が必要だ。

本について語るなら、まず本を読む。輪講なら、自分が発表者でなくても、ざっと本に目を通してわからない点をチェックしておくこと。

たったこれだけの準備で、グループでの議論は実りあるものになります。本に書かれている以上の話ができるからです。その段階までいかなくても、わからなかった点を周りの人に確認し、本の内容をより深く理解することができます。

準備をしてないとこうはいきません。まず、なぜこの本を読んでいるかわからない参加者が出ます。さらに、本の紹介者の話がわからなくなると、その段階で思考が停止する。あるいは明後日の方向の議論が始まってしまいます。輪講や勉強会のようにその場で内容を尋ねられるならまだ救いようがありますが、ブログのように対話的(interactive)な議論が難しいメディアでは、理解を深める術がありません。本を読んでないから教えて、というのが通用するのは、その人が教えるに値する場合だけだと考えてください。(知見のある先達であったり、内容に詳しくなくて当然の他分野の研究者など)

大学での研究生活を通して輪講をする機会は幾度となくありましたが、参加者が本を読まなかったときの不毛さには目も当てられませんでした。本の知識は読んできた人だけのもので、読まなかった人には見せかけの充実感だけが残ります。発表側には、自分で本を読み解く以上のものは得られず、プレゼンという参加者へのサービスの重荷が増えるだけです。ですから、今では、受け身の参加者しか集まらなさそうなときは輪講を開いていません。

このような話をしているのは、梅田望夫氏がTwitterでした以下の発言に対するネットでの炎上の様子があまりにも幼稚であるから。
はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ
梅田氏は「ウェブ進化論」などの著書で、ネットをとりまく急速な変化と、そのまっただなかに放り込まれてしまった現代の若者にエールを送り続けています。著書への感想をブログに書いてトラックバックを送信した人には、賛否両論含めてブックマークしているし、内容にも目を通しているそうです。この行動を見ていると、自分と異なる意見も含めて、彼が建設的な議論を欲しているのが伺えます。初対面の人と対談するときも、その人のブログなどをあらかじめ読んでいくから、昔からの知り合いのように話が弾むといいます。

準備をした上で議論することがいかに面白いか。その面白さを知ってしまうと、その準備をしてこない人への興味が途端に失せてしまうのでしょう。何も難しいことを要求しているわけではありません。準備はとても簡単。

同じ土俵で議論をするためには、何よりもまず、本を読むこと

本の内容をすべて理解することを要求しているわけではないし、言葉で書かれたものの解釈は、聞く人のバックグラウンドによって変わるのが普通です。むしろ、その違いが面白く、新しい発見につながることもあるのです。違う観点からの解釈で、内容の理解を深めることあります。

今回話題になっている本は、「日本語が亡びるとき」という書籍。Amazonで注文してからまだ届いていないので、議論に参加できないのが残念ですが、英語でしか本当の意味で活躍できる道が残されていない研究者として、思うところがふんだんにあります。本を読んだあと、またブログで感想を書きたいと思います。

(追記)このあと、「日本語が亡びるとき」についてはいくつか雑多な記事を書きましたが、以下のエントリが、一番僕の伝えたいことをまとめているかと思います。

2008年11月7日金曜日

近況

論文・実験・講演資料作成・発表資料・ポスター作成

全部同時期に集中してしまって泣けてきます。

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