桐野夏生『燕は戻ってこない』

 本作はオンライン読書会で読んだ。

 NHKでテレビドラマにもなっている。やっていることは知っていたが、読書会が終わった後で、一度だけ観た。

www.nhk.jp

 桐野夏生の原作についての感想をここでは書いておく。

 貧しい派遣社員の生活を送っているリキは、卵子提供をして報酬を得るという話を同僚から聞く。卵子提供を受け付けている会社で面接を受けたところ、担当者から「代理出産」をしないかと相談される。リキは元バレエダンサーの草桶基・悠子夫妻の子どもを産む「代理母」となる。

 読書会ではお互いに感想を言い合ったのだけど、ある女性は後半のリキをめぐる「シスターフッド」の描写がとても印象に残った、と発言した。

 えっ! と思った。

 確かにそういうことを感じる瞬間はあったけども、それをこの小説の最大の印象というふうに考えたことはなかった。

 やっぱりぼくのような男性はそういうあたりが鈍感なのかしらとぼんやり思ったものだった。

 

 ぼくが印象に残ったのは、なんといっても、リキの貧しさである。キャリアを積み上げることができなかった人生を自己責任のようにかぶせられたリキは、お金がほしい、お金の心配をしなくて済む生活がしたい、という気持ちに追い詰められていた。

 リキの職場の同僚であるテルも同じだ。奨学金という形で数百万の借金を背負わされ、社会に投げ出されて、うまくいかなければ非正規、風俗、という形で望まない貧困に絡め取られる。

 リキもテルも本当にそこらに転がっている、圧倒的に平凡で普遍的で無数に存在する貧困の形をしている。

 卵子を差し出す、自分の体を他人の出産——しかも自分の遺伝子を残したいというお金持ちの一種のエゴイズムのために差し出すというマクロの構図がストレートに読むものに迫ってくる。

 ミクロでは全然違う論理もある。

 お互いに納得ずくでやることではないか、とか、お互いの利益のためではないか、とか、人助けではないか、とか。もっと言えば、自分の体を自分の意思と尊厳に基づいて使うことをなぜ他人から「追い詰められているんだ」とか「搾取されている」とか勝手に言われなければならないのかという憤りが、個々のレベルではあるだろう。

 だけど、社会全体として見たときに、やはり、追い詰められて、社会の必然として強制されてそのビジネスに手を出さざるを得ないということではないか。そういう作者の主張がストレートに伝わってくる。

 このマクロとミクロの構図は、風俗や売買春をめぐる問題ともよく似ている。

「ビジネスって、もっと対等な感じがするけど」

という悠子の言葉が本質的によく表している。

 ぼくは桐野の小説をたぶん初めて読んだのだが、フェミニズム的な視点を強く感じた。しかし、フェミニズムが訴える社会問題の視点はそのまま男性にも共通する社会告発の視点になっている。

 例えば、「だって、ランク付けされるのって、女として屈辱に感じる」という悠子の言葉に基が笑い、

「だってさ、この資本主義の世の中は、すべてランク付けされるのが宿命じゃないか」

と切り返すのは、その一つだろう。女性は容姿や能力、それらをからめたランク付けの最前線にいるけども、確かに男性も絶えず労働力商品としてのランク付けをされ、同窓会はその市井での決算の場として機能している。

 

早く早く早く。早くしないと、間に合わない。叔母の佳子は、いつも急いていた。『力ちゃん、女は、だらだらしていたら、間に合わなくなるんだよ』。いったい何に間に合わなくなるのか、なぜ焦らなければならないのか。叔母は理由をはっきりとは言わなかったが、その無言の風圧は、常にリキの背中を押し続けた。(p.414)

 リキは「間に合わない」とは初め容色のことだと思っていたが、それは生殖能力の限界のことだと気が付く。

確かに、女の人生には、「間に合わない」がついて回る。(p.414)

 女性の場合、容色や出産のことで最も極端に「間に合わない」と言われ続けのだろうと思う。他方で、男性も「間に合わない」と言われ続けるような気がする。受験を念頭に必要な学力を身につけることが要求され、その期間内に身につけなければ「間に合わない」とされる。それは人生というバスに乗り遅れるかのように厳しく叱責される。

 休んだり、ぼーっとしたり、学校に行かなかったり、そういうことは「多少」許されても、結局「間に合わない」という枠の中ではそこからはみ出すことは許されていないのだ。

 もちろんそれは男性特有のものではない。だが、資本主義体制下で「間に合わない」と急かされ続けているのは、最も極端には女性であるが、男女ともに同じような焦りを抱かされている。

 

 というわけで、この小説を読んだ時、貧富の差によって身体を切り売りしなければならないところまで追い詰められた存在があり、他方で、自分の欲望やエゴイズムをお金で買い、札束で頬を張るようなことができる存在がいる、という対比が一番印象に残った。

 

 本作は、コミカライズもされている。

 マンガを描いているのは『シジュウカラ』『ヒヤマケンタロウの妊娠』の坂井恵理である。原作の乾いた感じと、何かを告発しようと怒っている感覚に合っている気がする。