1944年以降
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1944年2月17日、18日のアメリカ軍のトラック島空襲により絶対国防圏のトラック島の航空兵力が壊滅したため、ラバウルの航空部隊はトラック島に引き揚げを命じられ、主力(65機)は直ちに、残存機(22機)も2月中には引き揚げた。当時ラバウルにいた参謀の中には、「これまでラバウルに空襲があるときには、30分位前に警報が発令され、これに応じて20~30機の戦闘機が瞬く間に離陸して邀撃し、激しい空中戦を演じて、その都度何機かの敵を撃墜していた。従って敵機の行動も臆病であった。しかし、わが戦闘機が転進してしまうと、その後2~3日間は敵も半信半疑で警戒していたようであるが、事情の判明とともに俄かに敵機の行動が傍若無人となり、超低空で到る所を攻撃するようになった」と回想する者もいる。 この頃からアメリカ軍はラバウルやその周辺島嶼の日本軍基地に艦砲射撃も頻繁に行うようになった。続いて連合軍はグリーン島(2月17日上陸)、アドミラルティ諸島(2月29日上陸)、エミラウ島(3月20日上陸)への上陸を行い、包囲体制も整って、ラバウル方面の制空権と制海権は連合軍側に帰したのである。 その後、ニューギニア戦線での連合軍のホーランジア上陸、マリアナ諸島失陥、ペリリューの戦いなどを経て戦線は刻一刻とフィリピンおよび日本本土方面へと移り、ラバウルは完全に戦局から置き去りにされ、その戦略的価値を大きく減じた。ラバウル方面の90,000名余りもの日本陸海軍将兵は篭城態勢に移り、「定期便」などと呼ばれた連合軍機の機銃掃射や爆撃は終戦まで続いたものの、その状態で終戦を迎えた。
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1944年以降
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42歳を迎えた郁子には、詩作の筆を折らざるを得ない状況となった。夫との別れのみならず、悲しい別れの連鎖があった。原爆の投下による敗戦の前年に夫と義母、敗戦の年に義父と義姉(神戸空襲罹災)を亡くした。しかも、終戦間近で空襲も激しいので、東京を畳んで、従妹の代になっている岩手の実家(鳩岡崎)に疎開した。慣れない田舎暮らしと戦中・戦後の食糧不足の為、鳩岡崎⇒黒沢尻(今の北上市)⇒沼宮内⇒黒沢尻⇒新田開拓村萓刈場製材所⇒黒沢尻 などと転々と生活の拠り所探しの生活だった。その間に「右人差し指の第一関節切断」と言う大きな医療ミスを受けた。終戦を契機に義妹が東京での生活を考えたらどうかと、迎えに来たので、東京へ出てGHQ関連の病院賄婦の仕事を紹介してもらった。暫くすると、進駐軍も退去し、日本の病院勤務となった。母子家庭の貧乏暮しだったが、生活も落ち着きを徐々にとり戻して、戦前の詩人仲間との連絡も取れた。 しかし、日々の生活に追われることも多く、主に、子供の成長を見届ける中、詩作も僅かながら続けていた。62歳(1965年)の時に第三詩集である「新井徹 詩人が歌わねばならぬとき 後藤郁子 貝殻墓地」(思潮社)を出版した。そこには、戦後詩作編として溜めた新作の17作、及び、戦中詩作編として「貝殻墓地」他計15作、第一詩集「午前零時」より17作抜粋、第二詩集「真昼の花」より16作抜粋、及び、新たなる随筆「新井徹との道」などからなる合本詩集だった。この出版を機会に、テレビ朝日の朝のワイドショウ「木島則夫ショー」に呼ばれて出演、第三詩集について語っている。その後、雑誌の「三千里」誌上に任展慧氏の「朝鮮時代の内野健児」の掲載があり、更に任氏の呼びかけで、内野健児の教え子の佐藤悦三の他、大江満雄、小田切秀雄、村松武司らにより、刊行委員会が立ち上がり、「新井徹の全仕事」(創樹社)が1983年に出版されている。その刊行に際し、勿論、妻として、又、詩人として協力している。当時、郁子は80歳で、前の年に原因不明のボヤ騒ぎを起こしたが、「全仕事」の原稿は発行所に送付済で、無事で、予定通り刊行された。90歳の時、「20世紀女性詩選」に選定された。1996年(平成14年)に体調を崩し四か月入院、退院後、肺炎となり身を寄せていた長女宅で死亡。93歳だった。(1996年9月)
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1944年以降
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1944年(昭和19年)3月上旬、空母瑞鳳と共にサイパン・グアム方面への輸送任務を命じられる。当初龍鳳が輸送部隊を指揮することになっていたが、艦長交替に伴い「瑞鳳」が指揮を執ることになった。軽巡洋艦能代、駆逐艦3隻(雪風、初霜、山雲)が護衛に就いた。横須賀から出港した空母瑞鳳等と合流後、輸送部隊は南下。31日、能代が艦隊から分離してパラオへ向かう。4月1日、龍鳳は駆逐艦初霜と共に艦隊から分離、グアムに向かう瑞鳳隊と別れてサイパンへ向かった。同地ではアメリカ軍艦隊出現の報告があったものの各艦損害を受けることはなく、4月8日に呉へ戻った。 詳細は「マリアナ沖海戦」を参照 6月下旬、マリアナ沖海戦に参加した。機動部隊乙部隊は、第二航空戦隊(司令官城島高次少将)指揮下の航空母艦3隻(隼鷹〔旗艦〕、飛鷹、龍鳳)、戦艦長門、重巡洋艦最上、第2水雷戦隊(第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、夕雲型駆逐艦〈秋霜、早霜〉)、第10戦隊(第4駆逐隊〈満潮、野分、山雲〉、第17駆逐隊〈浜風〉)によって編成されていた。6月19日、攻撃隊を発艦させたがこの攻撃は失敗に終わった。同日、機動部隊主隊(甲部隊)はアメリカ潜水艦の雷撃により大鳳と翔鶴を喪失した。6月20日、甲部隊、乙部隊、前衛部隊、補給部隊は同一海面に集合、混乱をきたしたところをアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受けた。この時、龍鳳に第27駆逐隊の時雨が随伴していた。時雨は龍鳳を目標として接近するTBFアベンジャー雷撃機の一群を発見、対空砲火で龍鳳を守った。時雨は戦闘詳報の中で「敵急降下爆撃機ばかりに気を取られて、雷撃機への警戒が足りない」と提言している。20日の対空戦闘で空母飛鷹、タンカー清洋丸、玄洋丸が沈没、瑞鶴、隼鷹、千代田、榛名、摩耶、速吸が損傷を受け、龍鳳も至近弾により若干の被害があった。第二航空戦隊の航空機損害は79機(自爆6、未帰還47、不時着26)であった。このマリアナ沖海戦が、龍鳳が機動部隊として参加した最初で最後の戦いとなった。 マリアナ沖海戦後は艦載機不足により、輸送艦として用いられた。11月7日、空母雲龍より第一機動艦隊旗艦(司令長官小沢治三郎中将)を引き継ぐが、11月15日に第一機動艦隊及び第三艦隊は解隊された。龍鳳は日本海軍機動部隊最後の旗艦となった。 詳細は「ヒ87船団」を参照 同年12月下旬、本艦および第二水雷戦隊5隻(軽巡〈矢矧〉、第17駆逐隊〈雪風、浜風、磯風〉、第21駆逐隊〈時雨〉)はヒ87船団に加入し、台湾方面への輸送作戦を下令される。19日の連合艦隊電令時点で時雨は編制に加えられていないが、同艦は護衛中の空母雲龍(搭載貨物「桜花」)が米潜水艦に撃沈されたあと佐世保に戻っており、21日の電令で作戦参加が決定した。龍鳳の積荷は雲龍と同じく有人ロケット特攻機桜花58機であった。だがフィリピンに向かった雲龍が撃沈されたことにより、急遽龍鳳の目的地は台湾に変更されたという経緯があった。龍鳳及び護衛艦は出撃準備を進めたが、矢矧は補充兵の内地訓練が必要として連合艦隊より作戦参加を免除され、雪風は機関部に故障が見つかり作戦不参加となる。 12月31日、龍鳳はタンカー9隻(黒潮丸、辰和丸(貨物船)、海邦丸、さらわく丸、光島丸、天栄丸、宗像丸、松島丸、神威(海軍給油艦))、駆逐艦4隻(浜風、磯風、時雨、旗風)、海防艦4隻(御蔵、屋代、倉橋、第13号海防艦)とヒ87船団を編成し、門司港から台湾に向かった。1945年(昭和20年)1月3日、アメリカ軍第38任務部隊による台湾空襲が開始され、船団は舟山群島北方泊地へ退避した。さらに商船が空襲を受けているとの情報を受けて神威より4隻(龍鳳、時雨、浜風、磯風)に退避命令が出た。4日12時過ぎ、龍鳳以下は船団を離脱して嵊泗列島の泗礁山泊地に向かった。4隻は約1日避退したのち、6日11時にヒ87船団本隊と合流する。7日11時27分、船団は米潜水艦ピクーダに襲撃され、タンカー宗像丸が損傷を受けた。輸送船団の1隻海邦丸からは、龍鳳が時雨を率いて船団から離脱したように見えたという。実際には船団指揮官の命令によるものである。13時、4隻(龍鳳、時雨、浜風、磯風)は船団から先行するよう命じられ、船団に先行して台湾の基隆港へ向かった。基隆到着をもって駆逐艦3隻(時雨、浜風、磯風)は龍鳳護衛任務を終え、船団護衛に戻った。翌日、浜風は海邦丸と衝突、さらに馬公市に向かう途中座礁して窮地に陥り、かろうじて本土に戻った。また予定どおり高雄港に向かったヒ87船団は、第38任務部隊艦載機の空襲や米潜水艦の攻撃で大損害を受けた。高雄で時雨と磯風は分離した。引き続きヒ87船団を護衛していた時雨は1月24日に米潜水艦ブラックフィンの雷撃で撃沈されている。 11日午前、磯風と海防艦御蔵が基隆に戻った。龍鳳の出港が遅れていたため、磯風が引き続き同艦の護衛にあたることになった。12日6時45分、龍鳳はタモ35船団護衛として基隆を出港。17日12時、日本本土近海でタモ35船団と分離したのち、15時5分に磯風は龍鳳と分離すると先行して呉へ向かった。 本土帰還後は練習空母となったが、3月19日には、アメリカ海軍機動部隊による呉軍港空襲に遭遇した。ロケット弾や爆弾数発が命中して中破。爆風により飛行甲板は中央部で2m隆起し、50mにわたって大亀裂が生じた。本艦を含め数隻(大淀、日向、天城、龍鳳、海鷹、利根)が損傷した。4月20日、空母4隻(隼鷹、天城、龍鳳、鳳翔)も第四予備艦に指定される。6月1日附で各艦(長門、榛名、伊勢、日向、天城、鳳翔、龍鳳)は特殊警備艦に指定された。その後、残存大型艦(天城、葛城、榛名、伊勢、日向、利根、青葉、大淀)等と共に、浮砲台として呉軍港に係留された。乗組員は艦の修理を行うと同時に、農園の手入れにも従事した。7月下旬の呉軍港空襲では、繋留された状態ながら対空戦闘を行う。7月24日空襲では、12.7cm高角砲81発、25mm機銃1376発、12.7cm噴進砲(ロケット砲)15発を発射。7月28日空襲では、高角砲12発、機銃252発を発射。30日、呉鎮守府長官は龍鳳及び空母鳳翔の周辺に25mm機銃を配備して対空陣地を築くよう命じる。さらに空襲で大破着底した巡洋艦利根、大淀からも両艦が装備していた25mm単装機銃及び乗組員が龍鳳と鳳翔に派遣された。龍鳳は防空砲台となった状態で終戦を迎えた。空襲による損傷が著しかった為復員輸送艦には指定されず、1946年(昭和21年)4月2日に呉工廠にて解体を開始し、9月25日に完了した。
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