東京へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:41 UTC 版)
東京に着くと木付と別れ、東京西久保明船町(現・渋谷)に住む叔父・上野月下宅に寄宿した。それから間もない10月27日、秋月では士族による新政府への反乱・秋月の乱が起こった。首謀者は干城隊の幹部であり、事件は数日後に政府軍に鎮圧され、宮崎車之助ら幹部7人が自刃した事を新聞で知った六郎は、仇の一味に天罰が下ったのだと思った。 東京へは勉学修業といいながら、目的は一瀬直久と改名した仇の山本克己の居所を探る事であった。一瀬は旧福岡藩士の尊王攘夷派であった早川勇の伝で、愛知裁判所の判事として名古屋の裁判所に勤務している事がわかった。名古屋に飛んでいきたかったが、養父から貰った金も乏しく、東京の叔父の暮らしも楽では無かった。ある日、六郎は四谷仲町にあった山岡鉄舟の春風館道場の前を通りかかり、ここで住み込みの書生に雇ってもらおうと、翌朝早々に叔父を同伴して道場を訪れ、入門を許された。六郎は翌日朝早くから、道場の拭き掃除、庭や門前の掃除などよく働き、勉学に励み剣術修業に打ち込んで、鉄舟夫人・英子に可愛がられた。また鉄舟の友人・勝海舟邸に出入りする事もあった。 12月4日には逃亡していた秋月の乱の首謀者・今村百八郎・益田静方が斬首刑となった事を新聞で知り、また仇に天罰が下った事に感謝した。 翌1877年(明治10年)2月、西南戦争で西郷隆盛が自刃、さらに翌年には大久保利通暗殺と、明治維新の立役者たちの死去は、激動の時代の終焉を人々に思わせた。しかし六郎はそんな世の中の変遷を余所に、仇の居所を探る事に日々を費やした。養父・慕と叔父・月下に父母が被害にあった原因を知りたいと強く懇願し、10月に月下から返事が来て、初めて父の職務の事、暗殺事件での藩の理不尽な裁定など詳細を知り、父は職務を全うしたのみで非がない事、犯人側の残酷な行為が何ら罪に問われていない事を確信した。手紙には私怨の復讐は極力避けるべきだと叔父の言葉も書かれていたが、六郎は父の不幸を思い、復讐の志を一層堅くした。 上京している旧秋月藩士を訪ねては、さりげなく一瀬直久の居所を探った。一瀬は上京した旧秋月藩士の中で一番の出世組で話題に上る事が多く、六郎が消息を訪ねても怪しまれる事はなかった。 翌1878年(明治11年)春、21歳の六郎は一瀬が転任して静岡裁判所の判事となり、甲府支庁に勤めている事を知る。東京から急げば歩いて3日の距離であり、この朗報に小躍りした六郎は、すぐにでも甲州街道を走り出したい気持ちであったが、山岡鉄舟の書生の身であり、迷惑をかける訳にはいかず、口実を設けるため思案のすえ仮病を使うことにした。「最近撃剣を学んでおりますが、練習が過ぎて少々胸部を痛めたので、しばらくの間神奈川県武州小河内村の温泉で湯治したいと思います」と申し出て許された。 4月初旬、東京を発って甲州に赴き、旅館の一室を借りて一瀬が出歩きそうなところを探索してみたが一度も姿を現さない。一ヶ月も過ぎた頃、銭湯で「裁判所の所長さんは明日東京に行かれるそうな」という話を耳にした六郎は一瀬に違いないと翌朝宿を出て裁判所の門外にたたずみ、退庁するのを待ったが一瀬は現れない。翌朝も出かけたが同様の結果で、これは前日のうちに上京したのかと翌日、東京方面へ走ったが途中で一瀬に遭遇する事なく東京へ着いてしまった。5月初めの事で、その後も探索してみたが不調で、銭湯での噂は誤りであったと悔やんだ。6月になって再度甲府に行ってみたが、一瀬の姿を発見できず、路銀も尽きてきたため、東京に戻らざるを得なかった。生計のために11月に群馬県熊谷裁判所雇員として勤務するが、明治12年夏、夏期休暇に入ると一瀬が上京するのではないかと退職し、東京に戻って一瀬を待ったが見つける事は出来なかった。
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