き‐かん【旗艦】
【旗艦】(きかん/はたぶね)
Flagship.
艦隊の指揮官(と幕僚)が乗り込んで指揮を執る艦艇。
帆船の時代、艦隊司令官が乗艦のマストに信号旗を掲げて指示を送っていた事を語源とする。
性質上、敵から集中攻撃を受けやすく、伝統的に「艦隊で最強の艦」が選ばれる事が多かった。
また、多数の参謀と各種資料・器具がペイロードを大きく圧迫するため、小型艦では任を果たせなかった。
大艦巨砲主義が衰退を迎える以前、主力艦隊の旗艦には戦艦をもって充てるのが海軍の常識であった。
しかし、無線通信機器が投入された第二次世界大戦以降の戦訓により、状況は変化した。
戦艦という艦種が過去のものとなったのに合わせ、旗艦は戦闘能力を度外視してC4Iに特化されるようになった。
また、無線越しの情報だけで十全に指揮を執る事が可能になったため、交戦海域に進出する事も希になった。
指揮機能を地上施設に移し、旗艦の制度そのものを完全に廃止した海軍もある。
軍事史全体を通じて「将軍が最前線に赴く」のはほぼ常に愚策とされる。
戦死すれば混乱によってC3Iが麻痺し、戦線に甚大な衝撃を与える事になるからだ。
指揮官が自ら戦場に赴く必要があるのは、そこに居なければ指揮が不可能である場合のみに限られる。
情報技術が発達した現代、「旗艦」の存在意義は完全に消えたか、残っていても希少なものであろう。
関連:ブルー・リッジ 三笠 大和(超ド級戦艦) あきづき(海上自衛隊・初代) 長門 大淀(軽巡洋艦) 香取(練習巡洋艦)
旗艦
旗艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:46 UTC 版)
「ナッシュビル (軽巡洋艦)」の記事における「旗艦」の解説
5月14日、ナッシュビルは第8任務部隊の旗艦となり、アリューシャン列島防衛に向かった。5月26日にダッチハーバーに到着したナッシュビルは、2日後に任務部隊の他の艦艇に合流するためコディアック島に移動した。6月3日から4日にかけて、ダッチハーバーは日本海軍第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)の空母龍驤および隼鷹から飛来した艦上機による空襲を受けたが、ナッシュビル以下の任務部隊の各艦は濃霧のため日本艦隊に接触することができなかった。同時期に行われたミッドウェー海戦の敗北により、連合艦隊司令長官山本五十六大将はアリューシャン方面からアッツ島、キスカ島両占領部隊を除いて一時的に兵力を引揚げさせた。これを見て、ナッシュビルは6月から11月にかけて北太平洋方面を哨戒。8月7日、重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) 、重巡ルイビル (USS Louisville, CA-28) などともにキスカ島に対する艦砲射撃を行った。この艦砲射撃による日本側の被害は水上戦闘機1機破損、戦死者2名であった。 ナッシュビルは11月22日に真珠湾に帰投し、12月24日に出港してフィジーに向かった。エスピリトゥサント島に到着後、ナッシュビルはウォルデン・L・エインズワース少将が率いる第67任務部隊 (Task Force 67) の旗艦となり、終局を迎えつつあったガダルカナル島攻防戦に参加する。ガダルカナル島への輸送船団を護衛したあと、第67任務部隊は中部ソロモン諸島に向かう。折しも日本海軍の第十一航空艦隊と第八艦隊が、ニュージョージア島のムンダと、コロンバンガラ島ヴィラ・スタンモーア地区に飛行場を造成し、拡張工事をおこなっていた。1943年(昭和18年)1月4日夜、ナッシュビル(旗艦)は軽巡へレナ (USS Helena, CL-50) 、軽巡セントルイス (USS St. Louis, CL-49) および駆逐艦2隻とともに、ニュージョージア島ムンダの日本軍航空基地に対して艦砲射撃を敢行した。だが支援部隊と合流して避退中、ブインから飛来した九九式艦上爆撃機と零式艦上戦闘機の空襲を受ける。軽巡ホノルル (USS Honolulu, CL-48) が至近弾3発を受け、ニュージーランド海軍の軽巡アキリーズ (HMNZS Achilles) が直撃弾をうけて戦線離脱を余儀なくされた。 次の数ヵ月間、日米両軍はニュージョージア島とコロンバンガラ島を巡って戦い、ナッシュビルもこの攻撃に加わった。5月18日夜、ナッシュビルはコロンバンガラ島のビラ飛行場に対して艦砲射撃を行っていたが、前部砲塔で装薬が爆発し、18名が戦死して17名が負傷した。ナッシュビルは後退し、5月22日にエスピリトゥサント島を出港して本土に向かい、メア・アイランド海軍造船所に到着して修理と近代化改装を行った。 8月6日にサンフランシスコを出港し、8月12日に真珠湾に到着すると機動部隊に合流し、2ヵ月後の南鳥島とウェーク島への攻撃に加わった。10月25日、ナッシュビルはエスピリトゥサント島に到着し、7ヵ月間にわたりニューギニア島とアドミラルティ諸島への攻撃に加わり、さらにブーゲンビル島、ニューブリテン島グロスター岬への上陸作戦で砲撃を行った。1944年(昭和19年)4月21日と22日にウェーク島への攻撃を行った後、再びニューギニア方面に転戦。4月下旬からのホーランジアの戦いにおいて、ナッシュビルにダグラス・マッカーサー大将が乗艦し、マッカーサー大将は4月22日と23日のタナメラ湾とアイタペ(英語版)への上陸作戦を観戦した。5月27日からのビアク島の戦いにおいて、ナッシュビルは火力支援部隊に加わった。その途中の6月4日、ナッシュビルはビアク島近海で日本の航空部隊の空襲を受けて損傷した。 エスピリトゥサント島での修理を終えたナッシュビルは、9月中旬からのモロタイ島の戦いで再びマッカーサー大将の旗艦となった。10月16日、ナッシュビルはマッカーサー大将の旗艦としてマヌス島を出撃してレイテ島を目指す。10月20日からのレイテ島の戦いでは火力支援をおこない、橋頭堡構築の支援をおこなう。マッカーサー大将がフィリピン帰還を果たしたときも、本艦は彼の旗艦であった。マッカーサーはレイテ島北東部のタクロバンに総司令部を置き、ナッシュビルと地上を往復して過ごす。10月23日、日本海軍の強力な艦隊がレイテ島を目指して進撃することが明らかになると(両軍戦闘序列)、第7艦隊 (U.S. Seventh Fleet) を指揮するトーマス・C・キンケイド提督は、ナッシュビルを最前線に投入する意向を示した。するとマッカーサーは「自分もナッシュビルに乗って海戦に参加する」と主張して周囲を慌てさせ、キンケイドは「マッカーサーを乗せたナッシュビルを海戦に投じて、総司令官を生命の危険に晒すことはできない。」と説得した。この件ではマッカーサーがキンケイド以下周囲の反対意見を受け入れ、彼がレイテ沖海戦で日本艦隊と直接砲火を交えることはなかった。10月25日未明、西村艦隊は第7艦隊の邀撃によりスリガオ海峡で全滅し、駆逐艦1隻(時雨)だけが逃走に成功した。 レイテ沖海戦が一段落すると、本艦はマヌス島に戻って修理を受けた。ナッシュビルは第78任務部隊(アーサー・D・ストラブル少将)の旗艦として11月28日にマヌス島を出撃し、ミンドロ島の戦いの支援に向かった。進撃途中の12月13日、ナッシュビル以下のミンドロ島攻略部隊はミンダナオ海からスールー海に至る海域を航行中に神風特攻第二金剛隊(零戦3機)および陸軍特攻一宇隊(隼1機)の攻撃を受けた。1機の特攻機がナッシュビルの後方から突入し、5インチ砲砲架付近に命中。爆弾が3メートル四方に炸裂し、ガソリンは撒き散らされて火災を発生させた。ナッシュビルは133名が戦死し190名が負傷したが、133名の戦死者の中にはストラーブル少将の参謀やミンドロ島上陸部隊参謀長、爆撃部隊司令官および海兵隊員28名が含まれていた。ナッシュビルはこの被害にもかかわらず、残る5インチ砲で対空砲火を打ち上げた。しかしストラーブル少将は将旗をナッシュビルから撤収して旗艦を変更。ナッシュビルはサンペドロ湾、真珠湾と後退し、1945年(昭和20年)1月12日にピュージェット・サウンド海軍造船所に到着して大修理を行った。ナッシュビルは3月12日に修理が終わり、訓練の後4月15日にサンディエゴを出港した。 ナッシュビルは5月16日にスービック湾に到着し、第74任務部隊の旗艦となる。大戦終盤の数ヶ月間、ナッシュビルはボルネオの戦いに参加し、ボルネオ島のブルネイ湾上陸支援、バリクパパン攻略戦およびマカッサル海峡での空母護衛などの任務に従事した。7月29日にナッシュビルは日本軍船団を迎え撃つためスービック湾から出撃したものの、最後の戦時任務は取り消されることとなった。
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