日々の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:58 UTC 版)
勉強は早碁の一番手直り(一局負けると置き石が増え、勝つと置き石が減る方式)で、一か月に三百局以上打っていて各自が成績ノートを持ち、木谷先生の前へ持参し見ていた。入段試験の最中は、一人ずつ先生の待つ応接室に入り、時間が長ければ好局、短ければ不出来が目安になっていた。木谷先生と打てるのは、入門時に一局、独立祝いに一局の計二局だった。また「初対面の相手には負けてはいけない」と言われていた。 基本的に内弟子の数に対して碁盤が足りていないという事情があり、皆前日の夜に布団へ入るとき碁盤を抱えるようにして寝ていて、朝起きたらその碁盤で勉強した。朝の日課としては起きたらまず碁を一局並べ、それからラジオ体操、朝食、もう一局並べてから学校へ行くという流れになっていた。 午前6時起床→棋譜並べ→7時ラジオ体操→7時半朝食→8時学校→午後3時帰宅、おやつ、ソフトボール→5時夕食、あとかたづけ→6時~9時対局、検討 →10時就寝 弟子たちは先生を囲み、自分が打った碁を並べるが基本的に先生は何も言わずただ一局の中で何回か「ん?」という声を発するだけであった。並べている当人としては「あ、ここが大事なところだったのだ」ということを察知した。 木谷はあまり喋らずたまにしか家におらずいても一人で黙々と碁を並べていて検討も一言二言あればいいほうだった。弟子の碁を見ることはあったがだいたいは弟子同士で切磋琢磨した。木谷はああしろ、こうしろとは言わず子供の個性を尊重した。自分の考えを押し付けず、弟子とともに研究しようという姿勢だった。 日本棋院では毎週土曜日に「木谷会」が開催されていた。弟子は同時に最大16人いて家族や居候を含めると30人以上が同時に住まう状況もあった。 木谷は「私自身が久保松、鈴木の両先生ほか、たくさんの師や先輩のお世話になり、ことに鈴木先生のところでは、十年も内弟子をさせていただいた。私が弟子の面倒を見るのは、恩返しをする気持ちなのです」が口ぐせだったという。 一番弟子は武久勢士(現・地方棋士七段 大正5年生)。新婚二年目の24歳の木谷が内弟子として引き取った。 門下最後の内弟子は園田泰隆である。 10人ほどいた内弟子でリーグ戦を行っており毎月その成績で昇級・降級があった。 道場では毎週土曜日の1時から6時に「土曜木谷会」というアマチュアも参加できる碁会を開いていた。 運動も奨励されており、公園で野球をやっていた。 梶原武雄師範の時の研究会は「三栄会」(住んでいた町名から)と名付けられた。週に一度の三栄会はひとりひとりが梶原九段の前に出て自分の碁を並べ好評を受けるスタイルで、ひとつひとつの手に理由があるか聞かれていた。
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日々の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 20:09 UTC 版)
大葉家には、方々から「こけし」を買う客が訪れ、息子の妻が山菜や川魚などの手料理で接客したとされる。大葉亀之進は子供に恵まれ、子ども9人に孫17人、ひ孫も13人おり、仙台や古川で生活する子供たちの家を訪れることもあったが、3日も滞在するとこけし作りの仕事が気になって稲子に帰ろうとした。晩年は息子夫婦との3人生活だったが、正月には孫やひ孫が大葉宅に集まって賑やかなひと時を過ごすこともあった。亀之進は子供たちが集まるのを12月から楽しみにしていたという。風呂は薪で沸かし、水は川や井戸の水をポンプでくみ上げて生活した。家の敷地内には沢の水が流れ、その水でイワナを飼育していた。飼っていたイワナの中には、30年近く経った全長60-70センチの個体も居た。 91歳になった1996年頃には町のデイサービスを一時期利用したことがあったが、「おれは元気だ。デイサービスはまだ早い」といってサービスの利用を断った。曽祖父の大葉安之進のことは高く評価しており、酒も煙草もしない偉い人間であったと語っている。亀之進も安之進を見習って35歳までは酒は飲まないようにしたが、稲子地区の区長をするようになって付き合いでの飲酒を始めてしまい、安之進に申し訳ないと思っていた。 1999年(平成11年)7月9日に96歳で死去。亡くなる前日までこけし作りを続けた。
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