私は横浜の小さな漁村に生まれ、終戦後、横浜市立金沢小学校に入学しました 。まだ、その時代は学校給食などありませんでした。小学校、4年生か5年生の時に引越しましたが、 同じ学区内のため転校はありませんでした。
金沢も人口が増え子供の数も増して一校だけでは収容できず、八景小学校と文庫小学校2校が建設 されました。6年の学級組み換えでは、私は八景小学校に通うことになり、ある雨の日金沢小学校か ら八景小学校に移動したのです。学校は木造二階建ての小さな校舎で、3年生は記憶にありませんが 、4-5年生は金沢小学校に残っていました。1-2年生は授業も短く、教室が足りないため、午前と午後 の二部制でした。
この新しい学校には給食室があり、学校給食が始まり6年生のみ給食がありました。 でも、我が家の経済は最悪期をむかえていたのです。当然のことながら、給食費を払える状態ではあ りません。かといって弁当を持っていける状態でもなかったのです。給食時間になると「家に食べに いってきます。」と教室を出て学校の周辺で時間を潰し、皆が食べ終わった頃教室に戻っていました 。
大雨のときは傘がないので学校は休みましたが、小雨のときは濡れて学校に行ったものの、給食 時間になると、外にはいけず皆が食べているのを見ている辛い状態が何度もありました。 先生にはすぐに家に戻って昼食を食べていないのを知られてしまいました。ある日、職員室に呼ばれ 「木内よ、育ち盛りの今、昼食を食べずにいると将来大変な事になる。給食費は支払わなくても良い から食べるように」と言われましたが子供頃から頑固な私は申し出を断ってしまいました。
勿論、給食費を払えない状態なので、朝食や夕食も空腹を満たすような食事は与えられませんで
した。
あの時素直に給食を食べていたら、身長は伸びていたでしょう。今では後悔しています。同時に「武
士は食わねど高楊枝」などの言葉は知りませんでしたが、心の中で意志を貫いた事を誇りに思ってい
ます。
後になってわかった事ですが、先生は心配して家庭訪問してくれた事を母の死後、「母の手記」を読
んで知りました。
手記には、
「木内君は真面目で利口だ」と褒めた後、今日はお昼ご飯を食べに戻りましたかと私に聞きました。
先生の話では、「この前木内君に家からパンが届いたよと言って渡したら、家にパンなど買うお金な
いよと言って受け取らなかった」と言うのです。・・・以下省略
正しいと思ったら変更しない頑固な考えは今でも続き、命取りになるかもしれません。
でも、ころころと風見鶏のような考える性格にならなくって良かったと思っています。
今風に言えば、風の読めない人間なのですね。
眼もだいぶ悪くなり、入力も苦痛になりました。6月中旬をもってブログを長期間休止するつもり です。それまで暗いブログですが、お付き合いお願いします。休止後1回だけ更新してから中止したいと 思います。
まだ、通販での画面を見てクリックだけの注文などの生活視力はあります。
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