「生きるに値しない命」誰がそれを決めるのか
~尊厳死・安楽死について考える~
「いつ、どこで、誰の子として生まれるか」それは選べないけれど、せめて「いつ、どこで、どのようにして死ぬか」は自分で選びたい。壮年の頃は笑いながら自分も人に語っていたような気がします。それが高齢者になると「本当にそうできたら」、「いやそうすべきかも」と真正面から考える人たちに出会うようになり、さらには自分の心身すら制御できない状態でターミナルケアの中に居る人にも多々接するようになります。
3年ほど前、知人が癌で67歳という「若さ」で逝きました。亡くなるまで病のことは知りませんでしたが、生前彼が送ってくれた本があります。『自死という生き方』、なんと衝撃的なタイトルでしょう。送り状に「貴兄は読んでみてどう御思いになりますか」とありましたが、正直なところ「自殺」を考察する気にはなれませんでした。なので、私が読んだのは彼が旅立ってからになります。
285ページに及ぶこの本のカバーにこんな言葉がありました。『人生の果実は十分味わった。65歳の春。清明で健全で、そして平常心で決行されたひとつの自死』。それを決行した人は哲学者でした。
『自死』…。
「人を殺す」という場合の「人」に自分は含まれていません。日本語の「自分を殺す」の「自分」は身体ではなく別の意味を伝えています、「マナー的な善」とか「たしなみ」とか「処世術」とか。つまり「自殺」には「人を殺す」の「人」にあえて「当人=自分」を含ませ非難を浴びせているのです。また、「自殺」の「自」にも本来他人は入っていません。入れるのは「他殺」だけです。例外的に他人が入るのは刑法の例で、死んでいく当人の承諾、嘱託を必要としている殺人(202条)です。「本人の意思」が犯罪の構成要件に入ることにより、殺人の刑が減軽されているのです。
この「自殺」の非難的な語感からでしょうか、『意思的な死を非道徳的・反社会的行為だと責めないでいう語』として『自死』は存在します。
ところでこの『自死』にあたると思われる言葉が日本語には数多く存在します。「自決」「自尽」「自裁」などですが、共通するのは死んでいく本人の強い意思を感じることです。加えて裏には、尊厳、矜持、美意識などが潜んでいるようにも思えます。
いや『自死』でも非難されるべきという考え方もあります。年配の方は憶えておられることでしょう。『身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始めなり』(孝経)がそれです。まして死ぬなど論外ということで、これには反論しないことにします。
こう見てきますと「本人の意思」というものがこの問題の各部面でキーワードになっていると解かります。
そうなのです。新たな問題として拡散しだした「安楽死」「尊厳死」の議論や成立要件にも最重要なものとして関わっています。
どちらも、生きていることが広い意味での周囲にとって罪なことになっている、或いは生きていることが当人にとって拷問に近い苦痛を与えている場合で当人が死を望むときに、他者の関与がどこまで許されるかという問題です。
新たな問題と言いましたが実は、私が初めて「安楽死」という言葉を書物で見たのはかなり昔の1962年、名古屋高等裁判所の判例でした。いまも強力に生きている判例だと思います。「基本的には違法だが6つの要件を満たせば違法性が阻却される」とするものでした。その要件の概略は①回復の見込みがない病気の末期②心身の耐え難い苦痛の存在③目的は苦痛からの解放④患者の自発的で明瞭な安楽死の求めがあり⑤医師の手によること⑥その方法が倫理的なこと、というものでした。②③で心の苦痛は正確に捉えがたいところから重点は肉体的苦痛にあったと記憶しています。犯罪の成立には、行為が構成要件に該当し違法かつ有責でなければなりませんので、違法性阻却となれば「安楽死」させる医師の行為は無罪となります。1995年の地裁判決もこの立場をほとんど踏襲しています。
なお、④は意思表示能力がある段階での自筆文書であれば意識を失う前の文書でもよいとされています。事前に延命行為の是非について宣言する「リビング・ウィル」について『遺書とリビングウィルは書いておこう』(近藤誠・曽野綾子「野垂れ死にの覚悟」)と確かに勧められています。
「本人の意思」、これが最も重要な要件なのです。これが無ければ、積極的安楽死なら「殺人」、続けていた延命措置を止めるなど消極的安楽死なら「不作為による殺人」か「保護責任者遺棄致死」に問われるはずです。
「安楽死」はドイツ語で「オイタナジー(Euthanasie)」といいますが、「オイ」は「善」、タナトスは「死の神」ですから、「善悪」でいうならもともと善なのです。冒頭でお話しした語義からも同じ流れだと感じます。
上の「消極的安楽死」の分類で括られることが多いのですが、文字通り最近「尊厳死」(death of dignity)が使われるようになりました。『人間が人間としての尊厳を保って死に臨む』ことです。
医者が患者の病状や治療方針を丁寧に説明して患者の同意を得るという「インフォームド・コンセント」の1種とされています。同意の反対は拒否。患者が無意味な延命行為を医師に向かって拒否した場合などがこれにあたります。ここでも、意思決定は明瞭明白な形であることはもちろんのこと、「任意に」なされたものであることが求められます。
ちなみに「積極的安楽死」も含めて法律で是認した国がかなりあります。スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクと欧州はかなり固まっています。米国でもいくつかの州で採用しています。じつは日本でも2012年に法案が作られたようです。その法案名が注目で、何を目指しての作成だったかが垣間見られます。曰く『終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案』。
高齢者社会の日本において、「安楽死」「尊厳死」の法制度が確立する可能性が高まりつつある。そう言っても過言ではなさそうです。
常識的に考えられるデメリットはこうでしょう。「弱い立場に置かれがちな患者の任意の決定権が無視され、死を強要される可能性が高くなる」。前の高裁判例が設けた成立要件はそのまま「安楽死」是認の弊害を防ぐためのハードルでした。
しかしたとえ生存権に関わるリスクがあったとしても、下記により法定乃至是認の圧力は高まると踏んでいます。
① 財政難からも医療費・社会保障費は可及的に削減したい。
② 就業可能世代がその分過剰な医療費負担を強いられているのは不条理。
③ もともと延命治療には価値がないので公費負担は停止すべき。
この中で最も怖く、有力なのは②です。親族の間でも世代間対立が具体的な形で発生するからです。
拙い問題提起でしたが、皆さんは何を想われたでしょうか。
最後に冒頭に掲げた哲学者の書物の前書から、この言葉を引いてみます。
『同情されたり、哀しまれたり、現実逃避だと非難されたり、迷惑視され、嫌悪され、後ろ指さされたりするいわれがまったくない自死、敬意すら払われてよいかもしれない自死がありうる。氏は、その証明を、現代の哲学者の仕事であると考えました』(須原一秀「自死という生き方」)
「生きるに値しない命」、そんなものがあるのか。少なくとも、そこにいわゆる「価値」の有無は、その人自身が考え、その人自身が決めるべきでしょう。
私はそう想います。
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が、今わの際で妹が、医師に言われて人工呼吸器を着けたのです。
人工呼吸器は、自然な死を妨げ、当人が苦しむと、私たちは看護師さんから伺っていたのに、です。
例え脳死でもいい、そこにいて、温かな体で息さえしていてくれたら、それが妹の意志だったのです。
そこには、父の意志はなかったのです。
揉めることを承知で、私が医師に装着を外すように頼みました。
「もう今となっては遅い、それはできません」
医師の返答でした。
先日より、弟様のブログにもお邪魔しています。
素晴らしいブログのご紹介をありがとうございました。
意味深い問題なのでコメントは誰からも来ないと思っていました。
身内のお話しありがとうございます。
私は兄弟姉妹はいますが、各自独立してしまえば、家族ではありません。
眼が後どれだけの期間見えるのかわかりませんが、その時の覚悟は決めています。
介護と言う負の遺産だけは兄弟姉妹に残したくありません。
北杜市の福祉課にも私の覚悟は伝えてあります。
日本は福祉国家ではありません。介護疲れにかかわる事件も多く起きています。
行政に救われるのはほんの一部です。
死に対しての問題を投げかけて、少しでも波紋が広がればと思っています。
コメントと応援ありがとうございます。
今回のテーマは重くて深刻です。ガサツに生きている私には言葉もありません。私が意を決してコメント差し上げたのは、ただ一言申し上げたかった。
昨日22日は木内さんのお誕生日でしたね、遅ればせながら、おめでとうございます。
お体ご自愛ください。
今後ともよろしくお願いします。
昨夜は眼の調子が悪く夜8時にパソコン室を離れたため返信が遅れました。
誕生日に死の文を載せるのはためらいもありましたが、載せてしまいました。
死について老人はもっと発言した方が良いと思うのですが、タブーのような現状かもしれません。
お祝いの言葉ありがとうございます。
コメントと応援もありがとうございます。
この記事を拝見してから2,3日考えました。
木内さんとお付き合いをしてから随分と長い年月が流れました。
木内さんは誰にも頼らずに生きてきました。
いろいろ困ったことが起きても顔色を変えずに自分の力だけで解決してきました。
そのような生き方が、私にはすがすがしい生き方のように見えました。この独立独歩の生き方が魅力でした。
あの山林の中で知り合って、お付き合いをした方は幾人かいました。もう皆亡くなってしまいましたが。
その幾人かの方々と違い、木内さんは際だって誇り高い生き方をしていました。
その上小さな草花を愛す心優しい性格なのです。
この生き方を支えて来たのが今回の記事にある『尊厳死への想い』だったのです。今回、私はその事実に初めて気がついたのです。
ですから尊厳死や安楽死は間違った考えだと他人が木内さんに対して論陣を張るのは非常に失礼なことです。
それを言うなら木内さんの生き方を否定することになるから失礼なのです。大変悪いのです。
他人が何か言う前に、木内さんの生き方を長年知って深く考えるべきです。軽率な意見を言うべきではないのです。
人生の終わり頃に木内さんの生き方の根底にあるものを知り得て大変嬉しく思います。
と、同時に木内さんの苦しみに心が痛みます、胸が痛みます。
自然の風景を見ながら、心安らかにならんことを祈っています。
この文は先日の国民年金の文同様に弟が書いたもので、私の生き方を書いたわけではありません。
ただ、メールで送られてきた文に、HTMLの言語を付け加えてブログで読めるように加工しただけです。
自死する老人も沢山いますが、誰も世に伝えたい事を書かずに逝ってしまいます。
今、このような文を書いても読む人は少ないと思いますが、私の死によって読む人もいると思います。
どのような事を書いたとしても、私自身には何の役には立ちませんが、波紋が広がり多少でも他の老人たちの役にたてばと思っています。
でも、無理でしょうね。私腹を肥やす政治家は山ほどいるが、老人問題を真剣に考える政治家は見当たりませんからね。
眼の見える間は頑張って生きたいと思います。
今日は草むしりをしていました。
長文のコメントありがとうございました。
癌は末期だと痛むそうなので、医学の力で痛みだけ取ってもらいたいです。
幸い?私の家の近くに在宅医療を専門にされているお医者様がいらっしゃるようなので、「私の考える死はこう」と、今から家族に話しておかないと駄目ですね。
ある程度の年齢になったら死について家族と話し合うのもよいと思います。
私も弟にこのような状態になったら、逝きますからと話しています。
そのことが書いてあるのが、ブログに時々出す、表のようなものに書かれている「朴の葉の落ちる頃」です。
小説で家族構成など替えてありますが、ほぼ事実の事です。
私の場合、尊厳死や安楽死に至るような寝たきりになるまで生きていられないと思います。
人生最後の選択がいつになるかは私にもわかりません。
コメントと応援ありがとうございます。