舟山とのつながり
11月22日の三陸新報の記事を紹介します。かつて気仙沼市内の水産加工場で研修した中国浙江省(せっこうしょう)舟山市の人たちが約20年ぶりに気仙沼を訪れたそうです。11月20日のことです。
三陸新報11月22日記事の一部イメージ
記事によれば、舟山市の人たちの気仙沼での研修は1998年度から2004年度までの7期にわたり、述べ408人が参加したそうです。なかには気仙沼の人と結婚して残った人もいたと。
今回気仙沼を訪れたのは15人。宿泊先のホテル一景閣で、当時の気仙沼で親しくなった人やお世話になった人、研修先企業の関係者らと再会し旧交をあたためたとのこと。
◎友好協定都市「舟山市」
舟山。久しぶりにきく中国の地名です。あえて冒頭には記しませんでしたが、舟山は「しゅうざん」と読みます。いまでは知らない人も多いのではないかなあ。と思っていたら、翌日23日の三陸新報「記者席」に関連記事が。
三陸新報11月23日記事
この記事に、〈友好都市協定を結んでいても、近年、行き来がない気仙沼と舟山〉 との記述があります。舟山以外の友好都市は、岩手県一関市と東京都目黒区のふたつだと。そして〈協定が形骸化し、行政同士の関わりが薄くなっても、一度つながった人と人との縁や思いは変わらない〉と結んでいました。
◎カネダイさんとのご縁
このブログで、舟山と気仙沼/カネダイさんの関わりを記したことがあります。2018年7月31日ブログ「わが社の屋号①」。そのなかで、記事を引用しながらカネダイ(旧社名:佐藤商店)の先祖と舟山市との関わりをつぎのように紹介しました。
今から250年以上前に、気仙沼の回船(廻船)「春日丸」が嵐に遭い、中国・浙江省舟山市の桃花島に漂着しましたが、乗組員は現地の人たちから手厚い保護を受けて無事に気仙沼に帰ってきました。カネダイの佐藤亮輔社長は、その「春日丸」の船頭・伝兵衛の子孫にあたるそうです。江戸時代は江戸から帆船で当時の〈流行物〉を買ってきて、陸路で仙台や盛岡などに出荷したり、気仙沼で買い集めた海産物を船で江戸や上方に運ぶ回船業をおこなっていました。(自ブログ引用は以上)
佐藤亮輔さんは8代目ですが、その父、7代目の佐藤正二さんが気仙沼と舟山市との交流に熱心だったような気がします。ちょっと話がずれますが、気仙沼での舟山市の皆さんの研修が始まったのは1998年。カネダイさんが、それまでの「佐藤商店」から現社名に変更したのは、その前年1997年のことです。
この時期、カネダイさんをはじめ気仙沼の水産加工業の業容や業態などが大きく変わろうとしていたのかもしれませんね。舟山市から気仙沼に研修で訪れた多くの人がその変容や成長を支えてくれたのではないかと。
なんか推測が多くなって申し訳ないのですが、三陸新報のふたつの記事を読み、そんなことを想像しておりました。
「記者席」記事の末尾には筆者として(玲)の一文字が。〈協定が形骸化〉としつつも、行政の怠慢として批判するのではなく、人と人とのつながりの大事さありがたさを伝えてくれる、とてもよい記事でした。交流の現場にいて感じた正直な気持ちだったのでしょう。
いま気仙沼で働くインドネシアなどからの研修生の人たちが20年後に気仙沼を訪れて、当時の友人やお世話になった多くの人と旧交をまじえる。そんな風景を三陸新報の記事を読んだ多くの人が想像したことでしょう。是非そうあってほしいと。
三陸新報11月22日記事の一部イメージ
記事によれば、舟山市の人たちの気仙沼での研修は1998年度から2004年度までの7期にわたり、述べ408人が参加したそうです。なかには気仙沼の人と結婚して残った人もいたと。
今回気仙沼を訪れたのは15人。宿泊先のホテル一景閣で、当時の気仙沼で親しくなった人やお世話になった人、研修先企業の関係者らと再会し旧交をあたためたとのこと。
◎友好協定都市「舟山市」
舟山。久しぶりにきく中国の地名です。あえて冒頭には記しませんでしたが、舟山は「しゅうざん」と読みます。いまでは知らない人も多いのではないかなあ。と思っていたら、翌日23日の三陸新報「記者席」に関連記事が。
三陸新報11月23日記事
この記事に、〈友好都市協定を結んでいても、近年、行き来がない気仙沼と舟山〉 との記述があります。舟山以外の友好都市は、岩手県一関市と東京都目黒区のふたつだと。そして〈協定が形骸化し、行政同士の関わりが薄くなっても、一度つながった人と人との縁や思いは変わらない〉と結んでいました。
◎カネダイさんとのご縁
このブログで、舟山と気仙沼/カネダイさんの関わりを記したことがあります。2018年7月31日ブログ「わが社の屋号①」。そのなかで、記事を引用しながらカネダイ(旧社名:佐藤商店)の先祖と舟山市との関わりをつぎのように紹介しました。
今から250年以上前に、気仙沼の回船(廻船)「春日丸」が嵐に遭い、中国・浙江省舟山市の桃花島に漂着しましたが、乗組員は現地の人たちから手厚い保護を受けて無事に気仙沼に帰ってきました。カネダイの佐藤亮輔社長は、その「春日丸」の船頭・伝兵衛の子孫にあたるそうです。江戸時代は江戸から帆船で当時の〈流行物〉を買ってきて、陸路で仙台や盛岡などに出荷したり、気仙沼で買い集めた海産物を船で江戸や上方に運ぶ回船業をおこなっていました。(自ブログ引用は以上)
佐藤亮輔さんは8代目ですが、その父、7代目の佐藤正二さんが気仙沼と舟山市との交流に熱心だったような気がします。ちょっと話がずれますが、気仙沼での舟山市の皆さんの研修が始まったのは1998年。カネダイさんが、それまでの「佐藤商店」から現社名に変更したのは、その前年1997年のことです。
この時期、カネダイさんをはじめ気仙沼の水産加工業の業容や業態などが大きく変わろうとしていたのかもしれませんね。舟山市から気仙沼に研修で訪れた多くの人がその変容や成長を支えてくれたのではないかと。
なんか推測が多くなって申し訳ないのですが、三陸新報のふたつの記事を読み、そんなことを想像しておりました。
「記者席」記事の末尾には筆者として(玲)の一文字が。〈協定が形骸化〉としつつも、行政の怠慢として批判するのではなく、人と人とのつながりの大事さありがたさを伝えてくれる、とてもよい記事でした。交流の現場にいて感じた正直な気持ちだったのでしょう。
いま気仙沼で働くインドネシアなどからの研修生の人たちが20年後に気仙沼を訪れて、当時の友人やお世話になった多くの人と旧交をまじえる。そんな風景を三陸新報の記事を読んだ多くの人が想像したことでしょう。是非そうあってほしいと。
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