「日の出凧」の起源
きのう11月3日のブログで、気仙沼における〈天旗〉の歴史の中でも、特に〈日の出凧〉の起源や復元については、定説となるものをまとめて欲しいと書きました。本日はその続きです。
気仙沼高校の国語教師であった広野武蔵先生(ぶぞう先生とお呼びしていました)の〈日の出凧〉に対する疑問を記した一文というのは、つぎの書籍に収録されています。1990(平成2年)1月に亡くなった気仙沼図書館の初代専任館長 菅野青顔(せいがん)さんの「追悼 菅野青顔を語る」(1990年6月 菅野青顔追悼集刊行委員会発行)です。
広野先生は、〈碩学・青顔先生逝く〉という題で、7頁にもわたる追悼文を寄せているのですが、その中の〈日之出凧〉に関する部分を以下に引用します。なお、広野先生は父親が広野貞助さん(3代目広野太兵衛。気仙沼市長もつとめた麻屋/広野善兵衛さんの兄)ということもあり、気仙沼の歴史にも大変詳しい方でした。
◎碩学・青顔先生逝く 広野武蔵
(前略)
思えば60余年にわたり間接、直接に先生のご指導を頂いた私である。こんなこと、あんなことを思いだすのである。
こんなことがありました。ある日、文信堂に立ち寄ったところ、『全国凧図鑑』がでていた。開巻第一頁に山浦八郎さんが苦心して復元した「気仙沼日之出凧」の多色刷りの図柄がでていた。私はその美しい図柄に見入ると共に、復元に努力された山浦八郎さんの御苦労の多を思いやったものの、考えてみると果たして日之出凧が気仙沼に真に実在していたものか。いつの時か疑問でもある点もあり(実は私自身みたことがない凧の図柄なので)、何はともあれ博識の青顔先生のところで聞くが早いと紫神社の坂を登り図書館を訪ね、今みてきた気仙沼日之出凧の図柄を話し時代を問うた。館長先生、一言のもとに、かつて気仙沼にそのような日之出凧の存在したことなしと否定された。私はその凧の存在は幼児より知らぬことで引き下がった。
その後になって風向きがどう変わったのか知らぬが、山浦八郎氏の復元の労をたたえ、気仙沼の誇りなり云々(うんぬん)と、『万有流転』で取り上げ筆をとられたのをみて私はおどろいた。日之出凧は青顔先生の考証で市民権を得て、「人生の金メダル」で放映された山浦八郎さんの名を高らしめている。
先生が『万有流転』で筆にされた数々のエピソードは市民読者にそのまま伝わり、その影響も大であった。(後略。引用は以上。明らかに誤植であると思われる箇所を一部修正しました)
この広野先生の疑問については、以前にもこのブログで紹介しようと思ったりもしたのですが、気仙沼では商品の図柄にもされている日の出凧の来歴にケチをつけているように誤解されるのも困るので控えておりました。そんななか、今回の記念誌の話を知ったのを機会に紹介したという運びです。
今回あらためてネットでの日の出凧に関する記述を調べてみましたが、「気仙沼凧の会」が関係していると思われる説明がありましたので紹介します。2011年の年末から新年にかけての「東京ミッドタウンお正月2012」では、「気仙沼凧の会」による日の出凧が掲げられました。その際に表示された、同会提供の情報に基づくと思われる説明文はつぎのとおりです。
「海から昇る朝日を描いた宮城県気仙沼に伝わる伝統大凧。明治末期から大正初期に熊谷慶治により創作された。大正末期には廃絶されてしまったが、昭和49年 凧師、山浦八郎により復元された」(引用は以上)
また、日の出凧のネット情報例として、「東北手仕事」のリンクを下にはっておきます。
「東北手仕事」エピソード編 (5) 気仙沼の空に高く揚がれ!「日の出旗」
以上、ちょっと話が長くなってしまいましたが、気仙沼凧の会や実行委員会の皆さまには、記念誌の作成にあたって〈日の出凧〉の起源に関してのご確認をいただければうれしく思います。ポイントはつぎのようなことかと。
・熊谷慶治氏が創作したという話の根拠(明治時代/大正初期の諸説あり)
・廃絶時期の確認(明治末期/大正末期/昭和初期の諸説あり)
・山浦八郎氏の復元時期(昭和49年との説あり)
・三陸新報「万有流転」での青顔さんの記述内容
・「人生の金メダル」という(テレビ?)番組での紹介内容
・『全国凧図鑑』第1頁での掲載内容
・図鑑『日本の凧』(昭和44年発行の説あり)での掲載内容
気仙沼の〈天旗〉なかでも〈日の出凧〉は、大きな文化的価値があると思います。それだけに、諸説を整理して現時点での定説をまとめていただければと思い本日のブログといたしました。どうぞよろしくお願いいたします。
気仙沼高校の国語教師であった広野武蔵先生(ぶぞう先生とお呼びしていました)の〈日の出凧〉に対する疑問を記した一文というのは、つぎの書籍に収録されています。1990(平成2年)1月に亡くなった気仙沼図書館の初代専任館長 菅野青顔(せいがん)さんの「追悼 菅野青顔を語る」(1990年6月 菅野青顔追悼集刊行委員会発行)です。
広野先生は、〈碩学・青顔先生逝く〉という題で、7頁にもわたる追悼文を寄せているのですが、その中の〈日之出凧〉に関する部分を以下に引用します。なお、広野先生は父親が広野貞助さん(3代目広野太兵衛。気仙沼市長もつとめた麻屋/広野善兵衛さんの兄)ということもあり、気仙沼の歴史にも大変詳しい方でした。
◎碩学・青顔先生逝く 広野武蔵
(前略)
思えば60余年にわたり間接、直接に先生のご指導を頂いた私である。こんなこと、あんなことを思いだすのである。
こんなことがありました。ある日、文信堂に立ち寄ったところ、『全国凧図鑑』がでていた。開巻第一頁に山浦八郎さんが苦心して復元した「気仙沼日之出凧」の多色刷りの図柄がでていた。私はその美しい図柄に見入ると共に、復元に努力された山浦八郎さんの御苦労の多を思いやったものの、考えてみると果たして日之出凧が気仙沼に真に実在していたものか。いつの時か疑問でもある点もあり(実は私自身みたことがない凧の図柄なので)、何はともあれ博識の青顔先生のところで聞くが早いと紫神社の坂を登り図書館を訪ね、今みてきた気仙沼日之出凧の図柄を話し時代を問うた。館長先生、一言のもとに、かつて気仙沼にそのような日之出凧の存在したことなしと否定された。私はその凧の存在は幼児より知らぬことで引き下がった。
その後になって風向きがどう変わったのか知らぬが、山浦八郎氏の復元の労をたたえ、気仙沼の誇りなり云々(うんぬん)と、『万有流転』で取り上げ筆をとられたのをみて私はおどろいた。日之出凧は青顔先生の考証で市民権を得て、「人生の金メダル」で放映された山浦八郎さんの名を高らしめている。
先生が『万有流転』で筆にされた数々のエピソードは市民読者にそのまま伝わり、その影響も大であった。(後略。引用は以上。明らかに誤植であると思われる箇所を一部修正しました)
この広野先生の疑問については、以前にもこのブログで紹介しようと思ったりもしたのですが、気仙沼では商品の図柄にもされている日の出凧の来歴にケチをつけているように誤解されるのも困るので控えておりました。そんななか、今回の記念誌の話を知ったのを機会に紹介したという運びです。
今回あらためてネットでの日の出凧に関する記述を調べてみましたが、「気仙沼凧の会」が関係していると思われる説明がありましたので紹介します。2011年の年末から新年にかけての「東京ミッドタウンお正月2012」では、「気仙沼凧の会」による日の出凧が掲げられました。その際に表示された、同会提供の情報に基づくと思われる説明文はつぎのとおりです。
「海から昇る朝日を描いた宮城県気仙沼に伝わる伝統大凧。明治末期から大正初期に熊谷慶治により創作された。大正末期には廃絶されてしまったが、昭和49年 凧師、山浦八郎により復元された」(引用は以上)
また、日の出凧のネット情報例として、「東北手仕事」のリンクを下にはっておきます。
「東北手仕事」エピソード編 (5) 気仙沼の空に高く揚がれ!「日の出旗」
以上、ちょっと話が長くなってしまいましたが、気仙沼凧の会や実行委員会の皆さまには、記念誌の作成にあたって〈日の出凧〉の起源に関してのご確認をいただければうれしく思います。ポイントはつぎのようなことかと。
・熊谷慶治氏が創作したという話の根拠(明治時代/大正初期の諸説あり)
・廃絶時期の確認(明治末期/大正末期/昭和初期の諸説あり)
・山浦八郎氏の復元時期(昭和49年との説あり)
・三陸新報「万有流転」での青顔さんの記述内容
・「人生の金メダル」という(テレビ?)番組での紹介内容
・『全国凧図鑑』第1頁での掲載内容
・図鑑『日本の凧』(昭和44年発行の説あり)での掲載内容
気仙沼の〈天旗〉なかでも〈日の出凧〉は、大きな文化的価値があると思います。それだけに、諸説を整理して現時点での定説をまとめていただければと思い本日のブログといたしました。どうぞよろしくお願いいたします。
テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア